【新間寿会長インタビュー】ストロング小林さん追悼興行に向けて「小林さんと猪木さんとの試合が新日本プロレスの起爆剤になった」
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昭和を代表する名レスラーのひとり、ストロング小林さんが昨年12月31日、死去。享年81歳だった。ストロングスタイルプロレスでは小林さんを偲び、3月17日(木)東京・後楽園ホールにて追悼興行を開催する。
そこで、1974年3月19日に蔵前国技館で実現した世紀の名勝負、アントニオ猪木vsストロング小林をプロデュースした新間寿会長(元新日本プロレス専務取締役営業本部長/元WWF会長/WWEHallof Famer)にインタビュー。実現への経緯や思い出を語ってもらった。
――ストロングスタイルプロレス3・17後楽園がストロング小林さんの追悼興行になります。新間さんは訃報をいつどのようにして知ったのでしょうか。
「ミスター高橋から電話があったんだよ」
――元レフェリーの?
「そう。『高橋さん、アンタとは何年ぶり?』って会話から始まってね(笑)。『それでまた、どうしたの?』と聞いたたら、ストロングさんが亡くなったと。それを聞いてビックリしてねえ。本当は昨年のうちに一度会いに行きたかったんだけど…。電話で連絡があったの、1月の4日くらいかな…」
――12月31日に亡くなられ、報じられたのは後日でした。
「そうだね。そのときにお通夜があるというので『わかった、絶対に行くから』と言ってね、まずは(初代)タイガーマスク、藤波(辰爾)、それに私の名前で先に花を用意して、孫を連れてお通夜に行きました。お姉さんと妹さんに会えてね、参列させていただき本当に良かったですよ。本当はお母さんが生きているうちにも行っておきたかったんですけどね…」
――新間さんと小林さんの関係となれば、なんといってもアントニオ猪木vsストロング小林の実現ですね。力道山vs木村政彦以来、“禁断”と言われた日本人トップ同士の一騎打ちを20年ぶりに実現させたのは、もとはと言えば新間さんの仕掛けだったとのことですが。
「小林さんが新日本プロレスで猪木さんと試合をしたのが起爆剤になって、それで新日本プロレスが次から次へといろんなアイデアを出すことができるようになったんですよ。僕が見た中では(蔵前国技館に)一番観客が入った試合だったね。もう入りきれないくらいだった」
――それを無理やり入れたという逸話が有名ですよね。
「そうそう。それは営業社員たちがやったんだよね。こんなにたくさんのお客さんを帰すことはできないということで(新間の許可を得て)やったんだね。本当に通路までギッシリと入れた。これは国際プロレスのプロレスと新日本プロレスのプロレスとの異種格闘技戦でもあったんだよね」
――新日本プロレスvs国際プロレス、異なるプロレスによる闘いだったと。
「そう。猪木vs小林が新日本プロレス発展の第一歩だった」
――そこからさまざまなアイデアが実現されていくようになりますね。
「そうですよ、そもそも何でそれを知ったかというと、ゴング誌の竹内宏介から『ストロング小林がどうも浮いてしまって国際をやめるみたいだ』ということを聞いたんですよ。それで、『何かやるんだったら今だよ』という話から閃いたのが、猪木さんとの試合。これは今がチャンスだと。であれば(新日本に)スカウトしようと思ってね。それで小林さんの家に飛んでいったわけですよ。一番最初に行ったときに、『新間です。小林さんにお目にかかりたいんです』と言ってね。そしたらちょうど在宅していてね、お宅に上げてもらったのはいいんだけれども、上がったとたんにマルチーズが何匹もワンワンワンワン吠えるわけ。その犬たちが非常に可愛くて撫でたりしたんだよね。それで、最初のうちはご挨拶だけにして、『また近々お伺いします』と言って帰った。それですぐ翌日にまた行って。そこから何度も何度も行った。当時、小林さんの家の周りは区画整理をしていて、道路を舗装する前で、ものすごい泥道だったんです。雨が降ってその泥道を歩いて行ったこともあるね。新日本プロレスの社名が入った車で行ってるから、見られちゃいけないと思って、小林さんの家から離れたところに車を止めて、泥道を歩いて行ったんです。妹さんやお姉さんがそのたびに雑巾を出してくれて、きれいに拭いてからお宅に上がりましたね。『雨のなか、新間さんご苦労様』と言われてね。それで何度も何度も通ったんだけど『小林さん、いかがでしょうか?』と聞いても、最初のうちはなにも話してくれなかった。だけれども、次第にポツリポツリと話をしてくれるようになったんですよね。結局3カ月程訪ねていったんだけれども、あれだけ国際ともめてイヤなことがあっても、小林さんは他人の悪口を一言も言わなかった。この人は仏か何かの生まれ変わりかなって思うくらいにね。自分はお寺出身で、一番好きな神様は毘沙門天だったんだけれども、小林さんは毘沙門様じゃなくてお地蔵様みたいな人だなと思った。お地蔵様というのは、地獄と極楽を結ぶ、極楽から出るときは閻魔大王がお地蔵様に化身をして世の中に出てくるんですよ。人に笑顔を与えて、人の悪口を言わない。ストロング小林さんというのは、まさにお地蔵さんだったねえ。人からも好かれて、それに家族の仲がよかった、ものすごく仲がよかった。ボクが行くと、いろんなものを出してくれてね。そのうちに犬までが私のヒザに乗るようになってきた」
――なついたんですね。
「そう。それで、2週間か3週間目くらいに猪木さんに初めて話したんですよ。『実は小林さんの家に行ってるんですよ』ってね」
――それまで猪木さんはこのアイデアを知らなかった?
「知らなかった。そしたら猪木さんは、『これは絶対にいいぞ』と。『なんでこの試合なんだ?』と聞かれて、『社長に似ているんです、小林さんとソックリじゃないですか』と言ったら『ホントかよ?』と笑われたけどもね(笑)」
――新間さんは小林さんに、ズバリ、「猪木さんと試合をしてください」だったのですか。それとも「新日本に来てください」だったのでしょうか。
「新日本に来ませんか、という話だった」
――そこから猪木戦に持っていこうと考えていた?
「ウン。それで当初何日間かずっと通って、その間、猪木vs小林をやったらどういうことになるかなといろいろ想像してた。結果、猪木vs小林こそ昭和の新日本プロレスを代表する猪木のベストバウトになったと思ってますよ。ボクはこの試合こそが、猪木さんの最高の試合だと思う。小林さんはいろんな人と闘ったけれども、ストロング小林の力を引き出し、ストロング小林のいいところを出させて、自分がそれを受けて、そういうプロレスをしたというところで、アントニオ猪木というのは天才だと思った。猪木さんは誰とでも闘えるし、それに小林さんの人柄もよかった、家族もよかった。『小林さん、猪木さんとやりませんか?』と言ったときに、『やってもいいですよと』の答えをようやくもらった。それが初めて行ってから2カ月半くらい経ってからだね。その間、いろいろ横やりが入ったりしたけれども、小林さんの家族からも『新間さんだったら身柄を預けてもいいんじゃないか』と言ってもらえて。それでもまだ小林さんには国際との契約があった。それで揉めたときに、東京スポーツの井上社長のところに行ったんですよね。それで何とかなりませんかと相談したところ、『ウチはメンツにかけてもこの試合をやるよ』と言ってもらえた。『どんなことがあっても猪木と小林の試合を実現させるから心配するな』と言ってくれたのが、当時の井上社長です」
――それで、東京スポーツ紙と一体になって実現に向けて動いたと。
「そう。それで小林さんを(一時的に)東京スポーツ所属になったのですよ」
――当時の状況を考えれば、その発想がすごいですね。
「この発想もすごかった。会場には入りきらないくらいのお客さんが詰めかけ、そして試合もすごかった。アントニオ猪木のストロング小林戦、ルスカ戦、大木金太郎戦、上田馬之助戦、みんなすごい闘いがあったじゃない」
――当時の猪木さんの名勝負と言われるものは、すべて“決闘”だったんですね。
「決闘ですよ。決闘。猪木さんとアンドレ(・ザ・ジャイアント)もそうだし、ローラン・ボックが猪木と坂口の試合を見てビックリした。『これがプロレスだ。ファイトがある』とね。そういう試合を猪木さんはしていた。それに応えたのがストロング小林さんだった。ボクの生涯で最高の試合は、やっぱり猪木vs小林ですよ」
――新間さんは決闘をプロデュースしてきたわけですよね。
「そういうことですよ。その前にまずは知識ですね。知識がなければ何もできない。私が言いたい知識とはどういうことかというと、私が自分がやってきたことを振り返って、書物とを通じておぼえたことというのは、してしまったことへの後悔は誰にもある。しかし、私の後悔というのは、しようと思ってしなかったこと。この後悔が一番大きい」
――新間さんの思いが結実し実現した猪木vs小林。しかもこの年から東京スポーツ紙制定のプロレス大賞がスタートしました。現在につながるこの賞は、猪木vs小林があったからこそ、になりますか。
「そういうことですよ。その闘いを一番最初に手掛けたのは新間寿です。日本人同士の闘いも異種格闘技戦も。人がやらない、人ができないことをやる。アントニオ猪木と私は、誰もやらない誰もできないことを男の夢として実現する、それが男のロマンだと。これが猪木さんと私の言葉だった。アントニオ猪木のような選手はいまだに出てきていないでしょ」
――そうですね。多くの意味で猪木さんを越えるような人はいまだに出ていないですね。
「これからも出ないでしょう。そこに新間寿がいたから、(プロレスラー)アントニオ猪木が生まれたんですよ」
――新間さんがいなかったら、猪木さんはすごい試合をしたでしょうが、ここまで不可能と思われる試合が実現されることはなかった。その新間さんの熱意に猪木さんも闘いで応えた。新間さんがいなければ猪木さんの異種格闘技戦もなかっただろうし、後世に多大な影響を与えた日本人対決も別の形になっていたかもしれないですね。
「そうでしょうね。モハメド・アリ戦なんか100億円近い大きな負債を残してもね、最後にゼロにできたのはケン田島という名通訳がいたからですよ。常に誰かの助けがあって、それを実現できたわけ。私はお寺の出身だから、父親はじめ日蓮上人という人がボクについてたなと。僕はストロング小林さんが地獄から出てくる閻魔大王であり、闘いの神がお地蔵様として出てきてくれて、私の話を聞いてくれたと思っていますよ」
――3・17後楽園は、その小林さんを追悼する大会です。これを機に小林さんのすごさをあらためて振り返り、知らないファンには知ってもらえたらなと思います。
「過激な仕掛人」。そのルーツはアントニオ猪木vsストロング小林の実現にあった。もしもあのとき小林さんが首を縦に振らなければ、日本のプロレス史は大きく変わっていただろう。そういった意味でも、3月17日におこなわれるストロングスタイルプロレス後楽園大会は、小林さんの偉業を振り返るいい機会。3月17日は、猪木戦がおこなわれた3月19日と二日違いという絶好のタイミングにもなった。あれから48年。後年再評価されたアントニオ猪木vsモハメド・アリ同様、小林戦も更に再評価されるべきである。その裏には常に、「過激な仕掛人」による仕掛けがある。
取材:新井宏