バリトン黒田博に聴く東京二期会『パルジファル』~70周年記念公演に大役アムフォルタス役を歌う

2022.7.7
インタビュー
クラシック

アムフォルタスという役の存在意義

――冒頭にもお話頂きましたが、アムフォルタスはストーリー展開の中で一貫して、すべての苦悩を一人で背負い込む、そのような存在として描かれています。

ケガも時間が経てばじきに回復する――いわゆる「日にち薬」という表現がありますが、そう言われ続けてずっと痛みや苦しみが蓄積し続けるのがアムフォルタスの存在です。演じる側としては大変やりがいがあるのですが、アムフォルタス自身によって歌われるように「私の血を分けることで、すべての人々が喜びを感じる」という聖杯を護る城の主としての思いの裏には、本人としては苦しくて仕方がない……究極の自己犠牲的な思いが全面的に流れています。

――第三幕では、その悶え続ける苦しみがさらに顕著に表現されるわけですね。

世の中には父親と比較される息子の辛さというのはどこにでもあると思うのですが、アムフォルタスの場合は、先王であった父のティトゥレルが、聖人としてつねに民から愛され、誰からも賛美される存在であった。それに対して(アムフォルタスは)自らが犯した罪の愚かさ、そして、存在価値においてのあまりの差に打ちひしがれ、慟哭する姿があるわけです。もし、あの時点でパルジファルという(アムフォルタスを)救済してくれる存在がいなければ、たとえ幾年の時を経たとしてもその苦しみから一生解放されることはない――そのような運命に苛まれている人間の象徴にも思えます。

一方で、パルジファルという若者は、第一幕から第三幕までの間に、経年や経験、試練、同情というものによって驚くほどに成長を遂げてゆきます。当初は愚者と言われ、透明のような存在感しかない若者に驚くほどの多彩な要素が備わり、ついに “英雄” とまで讃えられる存在になる。ところが、アムフォルタスは血まみれで、ヘドロのように凝り固まった精神状態におり、パルジファルとは対照的に時が止まったような存在として描かれているかのようです。

――パルジファルの救済によって救われる――その際のアムフォルタスの内面の変化というのをどのように表現したいと考えていますか。

残念ながら、まだその点まで演技がついていないので、亞門さんが、その点をどのように捉えているか次第ですが、ただ、「ほっとする」とか、そのようなありきたりの言葉では表現できないものだというのは確かです。パルジファルがアムフォルタスを救済したのち、フィナーレに至るまでずっと歌い紡ぐわけですが、それまで毒に侵されていたかのようなドロドロとした精神状態がすべて浄化されてゆく、そのプロセスを見事なまでにワーグナーが音楽で描き出しています。

その音楽に対して、例えば、前回の演出では、最後のシーンでアムフォルタスがクリングゾルという(アムフォルタスを)苦しみへと誘った魔の存在である張本人と兄弟のように同格に描かれ、その二人が、最後、ともに寂しくポツンと座っているというかたちで終幕を迎えました。

二人の存在がともに無に帰し、透明のような存在になってゆく過程が完全にワーグナーが描き出した音楽と相まっており、あの瞬間、本当に「こんなにもすばらしいものを残してくれてありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいでした。今回も必ずやそのような思いに満たされると思っています。

――今のお話を伺うと、人間というものはどんな人格においても、罪、そして、宿命的な業や苦しみを背負って生きている、そのような存在であるということが象徴的に描き出されていたのでしょうか。

そう思います。人間は生まれて存在していること自体が罪じゃないかと。しかし、パルジファルの終幕の音楽には、その思いは消え去り、救済される。すべてが無に帰する――というような思いへと導いてくれるように感じています。

――そのような重い苦しみやコンプレックスを第一幕から第三幕まで引きずらなくてはいけない役を歌い演じるというのは、精神的にも体力的にも相当な負荷がかかるのではないでしょうか。

特に、第一幕終盤、父親ティトゥレルの前での聖杯のシーンでは、400メートル走を猛ダッシュで駆け抜けていくような感覚があります。他には例がないですね。短距離走的な筋肉の使い方で歌い切る体力が要求されるので、まだこの年齢でもその体力が少し残っていてよかったなと思っています。

>(NEXT)マエストロ・ヴァイグレのマジックにかかって

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