SHISHAMOのデビュー10周年とコンセプトアルバムを機に行なった、3人参加の決定版インタビュー
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SHISHAMO 撮影=上山陽介
CDデビュー10周年に突入したSHISHAMOの活動が活発化している。2023年1月には武道館、3月には大阪城ホールでの公演も控えており、2月4日にはCDデビュー10周年コンセプトアルバム『恋を知っているすべてのあなたへ』もリリースされる予定だ。この作品からは、バンドがブレることなく自分たちの音楽を追究してきたことも、新境地を開拓してきたことも見えてくる。恋の歌の楽しさ、せつなさ、多彩さ、奥の深さもたっぷり堪能できる作品だ。10年という年月の長さと密度の濃さは、アルバム収録曲、「恋する」のリレコーディング・バージョン「恋する -10YEARS THANK YOU-」を聴くと、実感できる。基本的なアレンジは変わっていないが、アンサンブル、グルーヴ、音色、すべてが大幅に進化しているのだ。よりソリッドでタイトでふくよか。バンドの日々の成長の積み重ねが、この演奏に凝縮されている。バンドにとって、この10年間はどんな期間だったのか。これまでの歩みからコンセプトアルバムや10周年ワンマンのことまで、宮崎、松岡、吉川の3人に話を聞いた。
——CDデビュー10周年のタイミングなので、あらためてバンドの始まりから伺います。宮崎さんが高校の軽音楽部に入ったことがバンド結成のきっかけとのことですが、結成当初の様子を教えていただけますか?
宮崎朝子:何部でも良かったんですが、たまたま軽音楽部に仮入部した時に、イケメンの先輩がいたことが決め手となって入部しました(笑)。入部当初は吉川もいなくて、私と前のベースと先輩とでバンドを組んで、コピーをやっていました。当時は自分で曲を作るなんてまったく考えていなくて、好きな曲をコピーして披露するのが楽しくてやって。その後、先輩が去り、吉川に入ってもらうことになり。
——吉川さんはどんな経緯で参加したのですか?
吉川美冴貴:朝子が先輩とバンドをやっているのを見た時から、「このバンドでやりたい!」と思っていたんですよ。先輩は先に高校を卒業するので、「先輩が卒業したら、私がドラムをやりたい」と言っていて、念願叶って加入しました。
——当時、コピーしていたのはどんな音楽ですか?
宮崎:GO!GO!7188さんは結構やっていました。今振り返ると、自分たちのルーツになっているのかなと思います。3人でかっこいい演奏をするのは難しかったので、そこで鍛えられたところはありました。
——当時、バンドとして目指していることはありましたか?
宮崎:いや、特にはありませんでした。あくまでも学校生活の1つとして楽しめたらいいかなって思っていたんですけど、顧問の先生から「オリジナル曲を1曲でいいから作ってみろ」という話になり、吉川がいきなり燃え始めて「朝子、作ってよ!」みたいな(笑)。「やりたいなら、吉川が作れば?」「私、できないもん!」ということで、強引に作らされました(笑)。
吉川:私としてはコピーをやってる時から「すごくイケてるバンドな気がする」と思っていて(笑)。コピーの時点でイケてるってことは、オリジナル曲をやったらすごいことになるんじゃないかと思って、突っ走っちゃったんですよ。今思うと、とんでもないんですが、自分は作れないのに「オリジナル曲を作ったらすごいことになるから、作ってよ」って言っちゃったんですよ。
宮崎:それで「宿題が終わらない」という曲を自主制作盤として出して、オリジナル曲を作るようになりました。
——その1年後の2013年にアルバム『SHISHAMO』でデビューしています。デビューした実感はありましたか?
宮崎:いえ。デビューという感覚は特にありませんでした。高校時代から曲を作り始めて、「宿題が終わらない」を作って、その後、『卒業制作』というアルバムを出して、その延長線上でヌルッとデビューしたというか(笑)。自分たちが高校で活動しているのを前のマネージャーが見つけてくれて、「せっかくだから録音してみない?」「このフェス出てみない?」「このイベント出てみない?」という感じで1個1個続けていって、気づいたらデビューしていたという(笑)。
——意識は、いつ頃変化したのですか?
宮崎 1stアルバムを出すちょっと前くらいに意識が変わりました。最初は友達や家族がライブに来ることが多かったんですけど、途中から全然知らない人がSHISHAMOのライブに来るようになって、「部活の延長みたいな気持ちじゃダメだな」って思い始めました。
吉川:私が気がついたのはもっと後ですね。私は高校のころから「バンドをこのままずっと続けたい」と思っていたので、見つけてもらって、CDを出して、ライブをやって、バンド活動が続いたことはうれしかったんですよ。でもしばらくは部活の延長みたいな気持ちでやっていたことにすら、気づけていない自分がいました。自分では頑張っているつもりだったんですが、プロとしての覚悟も自覚も努力も全然足りていませんでした。
——そう気づいたきっかけは?
吉川:2014年の『スペースシャワー列伝 JAPAN TOUR 2014』ですね。バンド4組(SHISHAMO以外のバンドはKANA-BOON、キュウソネコカミ、go!go!vanillas)で全国8か所を回ったんですよ。他のバンドを見て、自分では努力しているつもりでしたが、そんなことはなかったんだな、学生気分が抜けてなかったんだなと初めて気づかされて、頑張らなければと思いました。
——SHISHAMOにとって、それまでのメンバーが抜けて、松岡さんが加入したことは大きなターニングポイントだと思うのですが、松岡さんはどんな経緯で参加したのですか?
宮崎:大阪の『RUSH BALL』(2014年8月開催)に出た時に、松岡が専門学校の研修で来ていたのを見かけて、ナンパしただけなんですよ(笑)。
——ピンと来るものがあったのですか?
宮崎:顔が好みで(笑)。“ベースをやってそう"と思って声をかけたら、本当にベースやっていたので、「明日、スタジオに入ろうよ」って話して、翌日来てもらいました。
松岡彩:最初は「SHISHAMOに入りますか?」って声をかけられたわけではないんですよ。
宮崎:そもそも前のベースが辞めるってこともまだ言えないし、もし言って断られたら、変に情報だけ流出してしまう恐れもあるので、最初は「ベースを探しているバンドがいるんだよね」って話をしました。
松岡:「そういうの興味ある?」「あ、はい」みたいな(笑)。バンドに入るつもりじゃなくて、スタジオに遊びに行く感覚ですよね。もともと私はSHISHAMOを聴いていましたし、CDも買っていましたから、言われるままに行きました。行ってみたら、ベースを探していることに驚き、自分が誘われていることにも驚き(笑)。
——3人で初めて一緒に音を出した時、どんなことを感じましたか?
宮崎:音楽的なことよりも、3人が並んだ時のしっくり感が尋常じゃなくて(笑)。演奏的なところはどうにでもなるというか。テクニックよりももっと大事なところがあると思ったし、テクニックはあとで何とでもなると思っていたので、このしっくり感を大事にしようと思いました。
吉川:私は他のベースの人とそんなにやったことはないんですが、松岡がベースを弾いている姿を見ていると、こっちもワクワクしてきて、自分としてはそこが良かったですね。
宮崎:弾く姿が素人じゃなかったよね。全然弾けてないんですけど(笑)。
吉川:弾けてないんだけど、なぜかかっこいいなって(笑)。
——バンドって、見た目も重要ですよね。
宮崎:そうなんですよ。弾けない人って大体は棒立ちで弾く、みたいな感じなのに、しかもいっぱいいっぱいなはずなのに、松岡がすごく楽しそうに弾いていて。
吉川:そう、とても楽しそうで。その印象が強く残っています。
松岡:私としては精いっぱいでした。声をかけられた次の日に何曲かやることになり、その日から学校のテストもあり、かなり追い込まれた状態だったんですよ。自分でも弾けてないのはわかっていたから、「いい思い出になったな」「プロの人に合わせてもらった!」くらいの感じで帰ったんですよ(笑)。じゃ、テスト頑張ろう、みたいな。バンドに入るなんて、1ミリも思っていないという。
宮崎:きっとなんも考えない感じ、背負ってない感じが良かったんだと思います(笑)。
——この3人が揃ったことによって、その後、手ごたえはありましたか?
松岡:最初は不安だらけですよね。ちゃんと弾けるんだろうかって。
吉川:この3人での初めてのツアー(ワンマンツアー2014秋「君ときみの彼氏と転校した彼女の日曜日のデートプラン」)を回りきった時に、ようやくちゃんと、この3人でやっていけるんだなって思いました。ツアーの1週間前くらいまで、このセットリストを最後まで通せるのか、かなり危うい状況だったので、「ヤバい! ヤバい! ツアーが始まってしまう!」という感じでした。ツアーを回ったことで、今の3人のSHISHAMOが始まった感じはありました。
松岡:まだ全然できていないことだらけではあったんですが、ツアーを回れたことで、ほんの少しだけ不安が自信に変わりました。
——その後のターニングポイントは? 世間的には「君と夏フェス」のヒットで認知度が広まりましたが。
宮崎:私としては「熱帯夜」を作ったことが大きかったですね。2014年の夏に「君と夏フェス」をリリースして、この曲でSHISHAMOを知ってくれた人がたくさんいる中で、その次の年の夏のシングルをどうしようかと考えた時に、裏切りたいという気持ちで作ったのが「熱帯夜」でした。もしこの曲を受け入れてもらえたら、音楽の幅が広がるんじゃないかって考えていました。自分たちも気に入っている曲で、お客さんにも気に入ってもらえて、そこから楽曲制作の意識も変わりました。
——というと?
宮崎:『SHISHAMO 2』までは自分の中で“3人でステージで演奏できる曲"という縛りがあったんですよ。でもそれって、楽曲を作る上では自由じゃないなって感じました。曲が呼んでいる音を入れられないケースも出てきますから。私自身、昔から人のライブにほぼ行かないので、同じようにSHISHAMOをCDでしか聴かないお客さんもいるのに、ライブを意識して楽曲の幅を狭めてしまうのは、もったいないなと感じて。『SHISHAMO 3』からは、ホーンなど、自分たち以外の音を少しずつ入れるようになって、そこから楽曲の幅が広がったと感じています。
吉川:私も「熱帯夜」はターニングポイントの曲ですね。この曲で、個人的にもSHISHAMOとしても音楽的に広がったと感じました。もしこの曲をレコーディングしてリリースしていなかったら、今、全然違う展開になっていたかもしれません。
松岡:「熱帯夜」は今までになかった曲だったので、「もっとこういう感じ」って、たくさん話をしながらレコーディングした曲だったんですよ。「熱帯夜」があったからこそ、今もいろいろなことに挑戦できているので、私の中では第一歩目の挑戦、くらいの気持ちで挑んだ曲です。
宮崎:演奏としては、この曲あたりからグルーヴ感を突き詰めるようになってきました。勢いだけでは演奏できない曲をどうやって表現していくか、バンドとして追求するようになったことも大きかったと思います。
吉川:難しい曲でしたが、かなり頑張りました(笑)。
——大きなターニングポイントとしては、2018年7月28日に予定されていた等々力陸上競技場でのライブ(スタジアムワンマンライブ『SHISHAMO NO 夏MATSURI!!! ~ただいま川崎2018~』)の暴風雨による中止もあげられそうですね。
宮崎:等々力への道筋として「明日も」が大きかったと思います。初めて川崎フロンターレを応援しにスタジアムに行った時にできた曲で、その後、docomoのCMに使っていただき、紅白も決まり、フロンターレも優勝し(笑)。スタジアムでやることになったものの、中止になってしまったという。
——いろいろな意味で、SHISHAMOにとって大きな曲と言えそうですね。当時のインタビューで、「SHISHAMOの中でも異質な曲」と話していました。多くの人に支持されることで、意識が変化してきたところはありましたか?
宮崎:自分の気持ちも含めてなんですが、「明日も」という曲とSHISHAMOの関係性がだんだん変わってきたことは感じています。というか。今回のコンセプトアルバム『恋を知っているすべてのあなたへ』にもあるように、恋愛の曲をたくさん書いてきたバンドですし、そういう曲を聴いてほしいと思っていたんですよ。でも、「明日も」でSHISHAMOを知ってくれた人も多くて、「明日も」しか知らない人からすると、“応援ソングのSHISHAMO"みたいなイメージを持たれることの難しさを感じていました。“ここまでずっとやってきたのはこれじゃないのにな"ってモヤモヤする時期もあったんですけど、たくさんのお客さんと出会わせてくれた曲でもありますし、今はすごくいい付き合い方をしています。ライブでも特効みたいな役割も果たしてくれています(笑)。
——いいつきあい方をできているのは、バンドとして、さらに懐が深くなり、幅も広くなったからなのでは?
宮崎:「明日も」の先にも、いろいろなSHISHAMOがあることを自分たちでも実感できていますし、「明日も」から入ってきてくれたお客さんにも感謝しています。
吉川:私も「明日も」という曲があることで、たくさんの人に聴いていただく機会が増えてありがたいなという気持ちもありつつ、SHISHAMOと言うと「明日も」というイメージが強すぎることへのとまどいの気持ちもありました。でも、ライブで「明日も」を演奏している時に、恋愛の歌をたくさん歌ってきたSHISHAMOを好きだと思ってくれているお客さんにも、ちゃんと刺さっていると感じたんですよ。これはSHISHAMOの持っている良さの1つなんじゃないかなって、ある時点から思えるようになりました。
松岡:私も葛藤があったんですが、「明日も」をやっている時に泣いているお客さんを見たり、ちびっ子が楽しそうに聴いてくれている姿を見たりして、これもSHISHAMOの一部だな、こういう曲があることは、私たちの強みだなと思うようになりました。
——等々力陸上競技場の最初の中止の時は、どんなことを感じましたか?
宮崎:いちばん強く感じたのは、お客さんの気持ちですね。自分たちだけで等々力に向かってると思っていたところがあったんですけど、中止とわかってからもお客さんが来てくれて、お客さんも等々力を目指してくれていたことを強く感じました。中止になった2年後に、さいたまスーパーアリーナで「リベンジします」と発表した時に、泣いてくれるお客さんがいたり、本当に喜んでくれたり。……そっちも結局は中止なんですけど(笑)。リベンジの発表をした時に、みんなが待ってくれてたんだなって実感しました。自分たちだけじゃないんだな、一緒に進んでくれているんだなって、お客さんとの絆を感じました。
吉川: 私は中止が決まった時、本当に悲しくて、多分10年やってきて一番悲しかったことだし、枯れるほど泣いたんですよ。
宮崎:吉川が嗚咽まじりで号泣したおかげで、こっちは一切泣けないみたいな(笑)。
——3人分を全部1人で泣いたんですね。
吉川:そうですね(笑)。その時は、本当に悲しい気持ちでいっぱいでした。私はもともと性格的にネガティブなところがあって、すぐ不安に駆られるタイプなので、100%楽しいだけってことはほとんどないんですよ。等々力に向けて活動してる時も、悩んだり、苦しかったり、個人的に挫折感を感じている時期で、等々力が中止ってなった時にとても悲しかったんですが、「絶対にまたやりたい」「やるんだ」という思いも強くなりました。“自分はやっぱりSHISHAMOが好きなんだな、苦しいことがあっても、続けていきたいんだな"って、自分の気持ちを確認できました。
——松岡さんは中止になった時は?
松岡:SHISHAMOは基本的には晴れバンドで、自分たちのライブになったら晴れることが多かったので、あの時もいけるんじゃないかという気持ちがどこにありました。結局ダメってなり、“普段は晴れるのに、どうしてこんな時だけ"みたいな感じで呆然としてしまいました。よっちゃんが泣いているのを見て、本当にダメなんだなってじわじわと感じて、落ち込んだんですが、同時にお客さんからの愛を感じて、“みんなのためにももう1回、やらなきゃ"という気持ちが芽生えたことを覚えています。
——ダメージは大きかったと思うのですが、すぐにバンドが前を向いて歩み出したところから、バンドのたくましさを感じます。
宮崎:当日はかなり落ち込んだんですけど、次の日くらいには“今じゃなかったのかな"という気持ちになりました。
吉川:あっ、それはそうかもしれない。
宮崎:「まだ早いぞ」と言われているような気がして、“頑張れば、この先いつかまたできる”という気持ちが生まれました。
——等々力の中止後、強いモチベーションを持って、音楽活動をやってきたのではないかと感じました。
宮崎:でも『SHISHAMO 5』『SHISHAMO 6』あたりは、悩んでいることが多かった気がします。SHISHAMOに求められているものと自分たちが見せたいものとのギャップを感じて、悩んでいる時期がしばらくありました。でも悩みながらでも、曲を書くことは続けていました。私は自分が好きな曲というだけでは出す意味がないと思っているので、探り探りの作業で。それも含めて、楽しい作業ではあるんですが、最近はもっと自然に楽しんで活動できるようになってきた気がします。
——何かきっかけはあったのですか?
宮崎:10周年に突入したんですが、その長さですかね。自分は生きにくい性格というか、白黒全部はっきりつけたいし、めちゃくちゃ細いので、自分でも窮屈だったんですよ。でもそういうきっちりとしたやり方は、これまでのSHISHAMOには合っていたと思っています。レコーディングもライブも責任感が最初に来ていて、楽しくないことも多かったんですけど、それはSHISHAMOにとってはいいことだと思って乗り越えてきたところがありました。でも10周年を迎えて、少しずつ、いろんなことを許せるようになってきたというか。白か黒かではなくて、みんなが幸せでいられる、みんなが楽しくできる、ちょうどいいグレーみたいなものを突き詰める作業が楽しくなってきました。そのことが自分の中では大きな成長かなと思います。
吉川:個人的な印象としては、『SHISHAMO 6』くらいから、朝子が自分のやりたいことや好きなことを、SHISHAMOの曲として自然に表現できるようになってきて、いいバランスになっているんじゃないかなと感じています。
松岡:あっちゃんの中では葛藤があったんだと思いますけど、やりたい曲でなおかつSHISHAMOらしい曲をブレずにやってきているからこそ、今があるんだと思います。
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