OAU 新作『Tradition』を通して語られるバンドの現在地と、TOSHI-LOWの言葉の源泉とは

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2023.4.21
OAU・TOSHI-LOW 撮影=西槇太一

OAU・TOSHI-LOW 撮影=西槇太一

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BRAHMANの4人とMARTIN(Vo/Vn/A.Gt)、KAKUEI(Per)からなるOAUが、OAUに改称後、約2年半振りとなる2ndフルアルバム『Tradition』をリリースした。新しいけど懐かしい。そんなOAUのトラディショナルな魅力が新たなフェーズに突入したアルバムだ。今回はTOSHI-LOWにロングインタビュー。前半ではアルバムのメイキングからバンドの現在地点について、後半では豊潤なリリックの書き手としていま最も注目すべきソングライターと言えるTOSHI-LOWの言葉の源泉についてじっくりと迫った。或るひとつのバンドの成熟、或る一人の人間の成長の記録として金言溢れるテキストとなった。ぜひご一読いただきたい。

――今回のアルバムの制作は主にいつ頃に行われていたのでしょうか?

前からあった曲以外はだいたい去年の12月から今年の1月に。2時間程度のリハだけですぐ録った曲もあるし。「世界は変わる」という曲の制作で得たノウハウのおかげでスピードがめちゃくちゃ上がって、ギュッとした密度の曲が簡潔に作れるようになった。

――「世界は変わる」は、最初の緊急事態宣言の頃に書かれた曲でしたね。

一回目の宣言のときは、本当に家から出られないような雰囲気だったので、じゃあ逆にどうすりゃいいのかと考えて。「デモを送り合って、一人ずつスタジオに入れば?」と思いついて。ひねくれ者なんで、少しでも社会の流れに抗いたいというか。誰もが口を揃えて「出来ない」と言うと、どうにか出来る手段を探したくなって。で、やってみたら「あら不思議」、逆に一体感のあるものが出来た。そこで自分たちも変わったというか。一緒に出来ないからこそ相手の事を思い合うんだと気付いて。人間関係で言うと“思いやり”に近かった。あの世の中の状況下で考えたら、うちらは大分明るくやれていた方だと思う。

――以前の取材を読むと、「世界は変わる」は2019年のドラマ『きのう何食べた?』のオープニングテーマとして脚光を浴びた「帰り道」の続編という発言もありましたが。

というか、それを言い出したら全て繋がってて。「帰り道」と「世界は変わる」も繋がっているし「世界が変わる」から先の曲も全てが繋がっているし。一方で、世の中の状況がこれだけ目まぐるしく変わっていれば、ずっと同じ目線で曲を書いているはずも無くて。何もかもがハッピーになるとも思っていないし。「いずれ終わりが来る」という俺が本来持っている死生観――つまりBRAHMANの曲で書いていることと変わらない思いが何度も巡ってきては、それをその都度異なる状況と立ち位置と視点で見ている自分がいて。コロナ禍の間はずっとその繰り返しだったんじゃないかな。

――「世界が変わる」の制作と並行してベスト盤の制作がありました。それは改めてOAUの音楽性を見直す機会でもあったと思うのですが。

そもそもOAUって各々が「好きなことをしよう」と始まったバンドじゃなかったから。BRAHMANという母体があって、MARTINと知り合って、「BRAHMANで出来ないこと」を探して始まったバンドだった。そこでアコースティックギターや牧歌的な歌に取り組んで、ちょっと言葉は悪いかもしれないけど、ある意味、“子供向け”な音楽も出来るのが「OAUらしさ」だとはじめは思っていた。一方で、それがリミッターをかけたというか、そうした設定や存在意義を大切にし過ぎた節もあって。でも、もういいかげん長いことやってきたし、「OAUとは?」というアイデンティティ探しの青春期も終わったなと。設定云々よりも、OAUの音楽で何を尊重し何を伝えるべきなのか? そこを俺もみんなもちゃんと分かって共有出来ているところにようやく来たなと。だから今回のアルバムでは自分たちの特性や強みを活かしながら、もっと自由な発想で新しいチャレンジをしようと。何なら別にエレキを使ってもいいし。人間で言えば成熟期に入ったというか、ひとつ抜けたような感覚はある。

――そうしたリミッターが外れたことで、よりトラディショナルな音楽の香りがアルバムの前面であり全編に出たのは興味深い結果でしたね。

別に原点回帰というつもりも無かったんだけど、原点に好きなものがいっぱい詰まっていたことは確かで。それがワールドミュージックっぽさやアイリッシュっぽさ。自由にやったらより好きなものが溢れ出たという感じかな。もちろん、いまの音楽観やポップ感も入っているし。音楽性というよりも「OAUで新しいワールドミュージックをやろう」という本来のテーマに回帰したのかもしれない。そこには演奏技術が伴うわけだけど、初期はみんな拙かったから、どちらかというと偶然から生まれる何かというミクスチャー感に頼っていた。いまはもう実験的にならなくても、各々が頭の中できちんと出したい音を描いて弾けるようになりましたね。

――僭越ですけど、初期の音源と比べると演奏力も明らかに向上していて。

上手くなろうと思って上手くなったんじゃないんだけど。こないだ怒髪天の増子(直純)兄ィと話してたんだけど、俺ら若い頃なんてお互い歌を上手く歌おうとするなんて恥だと思ってたから(笑)。怒鳴ってがなってナンボで歌詞間違えたらマイク捨てて帰るくらいの気持ちだったから。OAUをやってよかったことのひとつは、衝動だけで持ち始めた楽器の本来の鳴らし方に向き合えたこと。その過程で表現出来る幅も自然と広がった。MARTINも元はBRAHMANだった俺らも、エンターテイメントとしての収益を度外視した部分で、楽器好きで音楽好きな自分たちとじっくり向き合うことが出来た。これからもっと上手くなろうなんて思っていないけど、もっといいミュージシャンになっていける可能性はまだまだあると思っていて。若い子に「50代に見えないっすね」とか言われて「そう?えへへ」なんてバカみたいな面して喜ぶんじゃなくて、「50年生きてきただけのことはありますね」と思われる方が俺にとっては何倍も嬉しいから。

――OAUのトラディショナルな音楽性を語る上で時々引き合いに出される存在にチーフタンズ(※1960年代から活動しているアイルランドの伝統音楽グループ)がいます。自分は20代の時に来日公演を観ましたが、いま思い返すと、当時の自分には、あのライブの楽しさが如何に技術に裏打ちされたものだったか理解が出来ていなかったと思うんです。

それはすごくよく分かる。しかも、チーフタンズってずっとカッコよくて偉いよね。

――今作における「Homeward Bound」ひとつ取っても、この「Listen To The Music」(※ドゥービー・ブラザーズ)みたいなリフって、大人になった皆さんがOAUをやったからこそ奏でられたリフだと思うし。

BRAHMANだけだとブラック・ミュージックやアメリカン・ミュージックが好きという個性はなかなか出し切れなかっただろうし。KOHKI(Gt)はBRAHMANのなかでも一番早くOAUに馴染んでいて。OAUの曲はギターが要なので。だからバンド全員で並ぶときは真ん中に座らせていて、ギタリストとしてすごく信頼しています。

――「Homeward Bound」が弾けて、例えば「夢の続きを」のようなエド・シーランのリスナーも楽しめるような曲も弾けるわけで。この横幅の広さは貴重だと思います。

それはうれしい指摘ですね。あと、こういうクラシックというかトラディショナル的な音楽って、「良いけど(尺が)長いな」という曲も結構多い。でもOAUの音楽は「良くてしかも簡潔」だと思う。そこもOAUなりのトラディショナルとしては大きい要素ですね。うちはみんなプレーヤー目線だけじゃなく良きリスナー目線もあるので。

――今回、1600 年代にアイルランドで活動していたターロック・オキャロランの古典曲、「This Song -Planxty Irwin-」に歌詞を付けてカバーされていて。調べてみるとこの曲はチーフタンズもカバーしています。どんな経緯で選んだのですか?

これは俺がアイリッシュ・ブズーキを始めたことからで。ブズーキって日本ではほとんど浸透していない楽器なので、何か参考にしようとすると自ずと海外の資料になるでしょ。そこで前から知っていたオキャロランの曲を練習曲として改めて弾いてみたらMARTINも「何で知ってるの?」と反応して、日本語を付けてみようということになって、歌詞もパッと浮かんで。「世界は変わる」の制作と同時期に最初のテイクは上がっていました。

――OAUの制作は、主にまずMARTINさんが率先してアイデアの種を持ち込むと聞いています。

俺が作ってみんなに投げる曲もあるけど、基本的にはMARTINからの種をみんなでいじくる感じで。その方が話も早いし、MARTINが音楽的に理路整然としている部分を俺らが崩していけるという利点もあって。MARTINが投げてくる種は大体すでに曲の体裁が出来ているので、それを俺らが「一番は要らない」とか「間奏のあとはサビでいいね」と大胆に改造しちゃうんです。MARTINは俺らのアレンジ力やアイデアを信頼してくれているので。

――その改造が導く先にあるのは、いわゆるポップ性ですか?

楽曲としての面白さかな。聴き手をハッとさせるようなキャッチーさを引き上げていく作業で。曲のキャッチーさを書いた当人が気づき辛いというのはよくある話で、俺も時々、「これ、Bメロ要らないかな」と外しちゃうと「何でよ!? あのメロが一番良いのに」と言われちゃう場面があって。それを指摘し合えるのがバンドの面白さでもある。そういうやり取りをウザいと思う人もいるだろうけど、俺はそういうバンドマジックが好き。曲が何倍にも膨らむ可能性があるし、そこで何割か自分らしさが目減りしても俺は全く構わない。大体、もういい歳をした大人同士が各々の魅力をきちんと出し合って本気で仕事に臨んだら、良い方向に行かないわけがない。

――でも決して容易いことではないでしょう?

そこで精神的な面で誰かが誰かの足を引っ張ったりしたら上手くいかないし、だから仲が悪くなってバンドが無くなっちゃうパターンもあるんだと思うし。だからそうならないためのチーム作りであって。俺、世間じゃわがままなイメージかもしれないけど、こう見えて結構社会的なんで。

――あはははは。いや、笑っちゃいけないな。

いやむしろ笑って。読者笑わせるために言ってんだから。「うそだろ!ギャハハー!!」って書いて(笑)。

――ソングライターとしてのTOSHI-LOWを語る上で、もはやBRAHMANとOAUの境界線について語る必要は無いと思うんですが、とは言えやっぱりOAUにおけるリリックはBRAHMANのそれとは異なります。しかも今回のアルバムは、MARTINさんの書く英語詞も普遍的な物語性がとても良いんですが、TOSHI-LOWさんが書いた日本語の歌詞がまためちゃめちゃよくて。

それはうれしい。ありがとうございます。

――誰にでも分かる平易な言葉できちんと情景が浮かんでくる。OAUにおけるTOSHI-LOWさんの日本語詞との向き合い方とは?

まずは言葉自体が持っている言葉の意味と音、強さと美しさを必ず大事にしたいと思っていて。それを「音がこうだから」という理由で無理にはめ込むのは嫌で。何と言うか、「夜露死苦」的な自然じゃない文字にはしたくない。辞書に近い、言葉が本来持つ意味を大事にしたい。もし俺が言葉だったらそう使ってくれよ?と思うし。言葉がリズムに憧れている気がしているので、言葉が求める音とリズムに配置してやりたい。それって俺の中では上手い喋り手の人や文章が読み易い人のリズムの良さにも繋がると思う。そこはかなり丁寧にやっているつもり。

――ある意味、TOSHI-LOWさんは“メロディ”という言葉の語源に従順なのかもしれませんね。メロディってギリシャ語のメロスとオードが融合して出来た言葉で。つまり言葉は発せられた段階で音階を宿しているとも言えるわけで。TOSHI-LOWさんはその最適解を探そうとしているというか。

それは知らなかった。いい話。

――だからTOSHI-LOWさんのリリックはどれもすっと耳から心に入ってくるのかもしれませんね。

本当は俺が書いているOAUの曲には、今の倍の数の言葉を入れることだって可能だし、その方が今のJ-POPの流行りには近いのかもしれない。でもそれをOAUでやると、まずMARTINに伝わらなくなってしまう。彼は日本語も上手いけど、流石に高速な言葉の羅列は聞き取れない。そこもバンド内の重要なコミュニケーションだから。


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