仁左衛門に心地よく翻弄され、菊之助が古代インドの物語を描く 『吉例顔見世大歌舞伎』観劇レポート
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昼の部『マハーバーラタ戦記』(前方)左より、太陽神=坂東彌十郎、帝釈天=坂東彦三郎、(後方)左より、ラクシュミー=中村芝のぶ、シヴァ神=尾上菊之助、那羅延天=尾上菊五郎、梵天=中村隼人、大黒天=坂東楽善 /(C)松竹
歌舞伎座の11月公演『吉例顔見世大歌舞伎』が2023年11月2日(木)に初日の幕を開けた。昼の部では『極付印度伝(きわめつきいんどでん)マハーバーラタ戦記』、夜の部では片岡仁左衛門の『松浦の太鼓(まつうらのたいこ)』、『鎌倉三代記(かまくらさんだいき)』、そして舞踊『顔見世季花姿繪(かおみせづきはなのすがたえ)』が上演される。
昼の部(11時開演)
『極付印度伝 マハーバーラタ戦記』
歌舞伎に限らず舞台作品は、必ずしも再演の機会に恵まれるわけではない。作品に、ブラッシュアップに耐えられる強さ、しなやかさがなくてはならないし、経年劣化しない普遍性も求められる。再演によって、それらの無さが露呈することもある。再演ならではのハードルがある中、6年ぶりの『マハーバーラタ戦記』は、再々演が待ち遠しくなる再演となっていた。
初演は2017年。尾上菊之助が、脚本に青木 豪、演出に宮城 聰を迎え、古代インドの神話的叙事詩を歌舞伎にした。壮大なドラマ、躍動感あふれる立廻りはそのままに、新たなキャストを迎え、インド映画ファンならご存知の踊りのオマージュなど歌舞伎らしい遊び心も。そして一人ひとりの試練と心情が、より鮮明に磨き出されていた。
昼の部『マハーバーラタ戦記』(前)迦楼奈=尾上菊之助、(後)我斗風鬼写=尾上丑之助 /(C)松竹
神々が見届ける人間たちの物語
定式幕が開くと、インドに伝わる神さまたちが現れる。人間が、再び大きな戦を始めようとしている。そこで太陽神は、自分と人間の間に子どもをなし、“慈愛”の心で世界を救うと提案する。さらに戦神(いくさがみ)の帝釈天は、自分こそが人間との間に子どもを作って、力で世界を治めさせようという。母親に選ばれたのは、信心深く徳の高い汲手姫(くんてぃひめ)だった。神々はその試みをしばし見守る。
昼の部『マハーバーラタ戦記』(左より)迦楼奈=尾上菊之助、汲手姫=中村米吉 /(C)松竹
黄金の神々は、内に湛えた光が滲みだすような存在感だった。オリエンタルな音が空間にたゆたう中、はじめに動いたのは中央の那羅延天(ならえんてん。尾上菊五郎)。菊五郎の第一声は深く大きく、威厳や迫力とは質の違う、大自然を前にした時のような畏れさえ感じられた。菊之助のシヴァ神は、高潔さと底知れなさが同居する美しさ。太陽神に坂東彌十郎、帝釈天に坂東彦三郎、梵天に中村隼人、ラクシュミーに中村芝のぶ、大黒天に坂東楽善。後半の神々の場面ではガネーシャに尾上丑之助、多聞天に市川團蔵が加わる。
昼の部『マハーバーラタ戦記』迦楼奈=尾上菊之助 /(C)松竹
花道の彌十郎の太陽神と、仮花道の彦三郎の帝釈天の対立は、「慈愛か、力か」の構図を分かりやすく印象づける。歌舞伎らしい掛け合い、歌舞伎ならではの格好良さに痺れた。両花道は、踊りでも戦でもフル活用される。俳優が風をきって往来し劇空間を拡張する。背景は巨大な屏風絵のような設え(空間構成:木津潤平、美術:深沢 襟)で、廻り舞台とともにダイナミックに転換。打楽器の演奏チーム(SPACより。芸術総監督:宮城 聰、音楽:棚川寛子)と竹本の義太夫ではじまり、歌舞伎の音楽、音、序幕から早くも鳴りやまない拍手と大向うに押し流されるように、人間たちの物語が動き始める。
昼の部『マハーバーラタ戦記』(左より)シヴァ神=尾上菊之助、那羅延天=尾上菊五郎、梵天=中村隼人 /(C)松竹
汲手姫(くんてぃひめ。中村米吉)は、輝く赤姫の衣裳。客席にため息が漏れる。太陽神の子の母親として選ばれたものの、突然生まれた赤ん坊を、ガンジス川に流してしまう。米吉は、汲手の幼さ、怯え、純真さ、信心深さを役に織り込み、赤ん坊をみて思わず「お日様のような子」と細めた目と、神の加護を信じているからこそ川に流した時の涙を矛盾なく繋いだ。王妃となってからは、威厳のすぐ裏にある後悔と人間らしい弱さを垣間見せ、ドラマに深みを与えた。
16年後、迦楼奈は2組のきょうだいと出会う
赤ん坊は迦楼奈(かるな。菊之助)と名づけられ、御者夫婦(河原崎権十郎、市村萬次郎)によって育てられていた。しかし太陽神のお告げを受けて、迦楼奈は世を救う旅に出る。そして、国王の座を巡り、血族同士で争う2組のきょうだいと出会う。
1組は、亡くなった国王の5人の息子たちだ。通称「五王子」。もう1組は、五王子のいとこにあたる鶴妖朶(づるようだ。中村芝のぶ)王女と、弟の道不奢早無(どうふしゃさな。市川猿弥)王子だった。
昼の部『マハーバーラタ戦記』(左より)鶴妖朶王女=中村芝のぶ、迦楼奈=尾上菊之助、道不奢早無王子=市川猿弥 /(C)松竹
五王子は歌舞伎らしい演出で名乗りをあげる。長男は、坂東亀蔵の百合守良(ゆりしゅら)。弟たちを大らかに見守り、喧嘩があれば「ひかえい」の一言でおさめる大きさを持つ。中村萬太郎の次男・風韋摩(びーま)は弾けるような覇気に満ちた声が印象的。隼人の阿龍樹雷(あるじゅら)が三男で、その下に双子の弟の納倉(なくら。中村鷹之資)と沙羽出葉(さはでば。上村吉太朗)がいる。双子は愛らしく、見た目のタイプは異なりながらも、息の合った双子ぶり。仮花道での立廻りでは、1つの台詞を2人で熱く響かせた。突き動かされるように、客席から拍手が降り注いでいた。
そして三男・阿龍樹雷が、帝釈天が人間の世に送り込んだ子だった。阿龍樹雷は無敵の強さを持ちながらも、力に頼るタイプではないらしい。弗機王(どるはた。片岡千次郎)の娘・弗機美姫(どるはたび。中村好蝶)との婚礼の場面では、ザ・王子! の麗しさを惜しみなく発揮。仙人・久理修那(せんにんくりしゅな。中村錦之助) が道を説いた時の葛藤、迦楼奈の選んだ道に直面した時の表情は、胸に迫るものがあった。
昼の部『マハーバーラタ戦記』(左より)仙人久理修那=中村錦之助、阿龍樹雷王子=中村隼人 /(C)松竹
もう1組のきょうだい、芝のぶの鶴妖朶は、100人きょうだいの長女。驚きの設定もかすむ美しさに、花道の出から大きな拍手が起きていた。声の内に宿した強い憎悪が、匂い立つような色気を醸し出す。善人とは言えない役でありながら、終盤では「もし彼女が平穏な世界で、ただ真っすぐに生きてこれたら」と心を寄せずにはいられなかった。猿弥の道不奢早無は姉を支える弟に徹し、1シーン1シーンの脇をかためる。大詰では納倉とともに歌舞伎座の舞台を手狭に感じさせたほどの、迫力の立廻りをみせた。
澤村國矢の修験者や片岡千壽の行者は物語に小さくとも確かな棘を残し、上村吉弥の森鬼飛(しきんび)と尾上菊市郎の森鬼獏(しきんば)は古典歌舞伎の風を吹かせた。丑之助の我斗風鬼写(がとうきちゃ)は、身体の大きさと人間離れした存在感のギャップで、神聖なものを目撃したような衝撃。現実との境目が分からない健気さと、これをがっしりと受け止める風韋摩の交流が涙を誘った。
慈愛で世界を救うのか
昼の部『マハーバーラタ戦記』(左より)迦楼奈=尾上菊之助、阿龍樹雷王子=中村隼人 /(C)松竹
菊之助の迦楼奈は、作中においても座組においても太陽のようだった。迦楼奈には数々の試練が降りかかる。しかし苦悩し葛藤する姿にさえ、見る者の心を陰鬱にさせない華と生命力があった。激しい立廻りや楽しい踊りは、歌舞伎らしい品の美意識でまとめ上げた。初役を含む共演者たちは、菊之助の迦楼奈を軸に、自身の役の居かたを模索できたにちがいない。迦楼奈の花道の六方は、太陽神の子だからこその神々しさと、血の通う人間だからこその熱さに目を奪われた。そして怒涛のクライマックスへ……。
幕切れは、石像が安置された古いお堂で、長い白昼夢から目覚めたような余韻。人間たちの踊りは続く。一瞬間をおいて熱い拍手が広がり、万雷の拍手で結ばれた。
夜の部(16時30分開演)
『秀山十種の内 松浦の太鼓』
片岡仁左衛門が、“御前様(ごぜんさま)”こと松浦鎮信侯を勤め、松浦侯の俳諧の宗匠・宝井其角(きかく)に中村歌六。其角の取りなしで腰元奉公しているお縫(おぬい)に中村米吉。お縫の兄で、もとは赤穂藩士の浪人・大高源吾に尾上松緑。
はじまりは両国橋のたもと。雪が降る中、其角がやってくる。揚幕から舞台までの身のこなしは、まさに雪の日。吐く息の白さがみえるようだった。瞬く間に芝居の空気が出来あがったところに、もとは武士だが今は浪人生活をしている源吾が現れる。これからは町人として暮らすつもりだという。其角が明日より先の話をする時、源吾の目はどこか未来から距離を置こうとするかのようだった。『忠臣蔵』の外伝にあたる本作の、忠臣蔵らしさが静かに紡ぎ出される。
夜の部『松浦の太鼓』(左より)大高源吾=尾上松緑、宝井其角=中村歌六 /(C)松竹
ところかわって松浦侯の屋敷。当時は高級品だった時計の音とともに幕が開き、仁左衛門の姿に拍手が起き、「松嶋屋」の大向うが続く。観客の心を、グッと前のめりにさせるような求心力だ(前のめりでのご観劇はご遠慮ください)。松浦侯は立派なお座敷に、其角を招き、近習(市川猿弥、中村隼人、中村鷹之資、中村吉之丞、市村橘太郎)たちと句会をしている。「これは面白いのう!」とみせる笑顔は眩しく、場内に多幸感が広がる。かと思えば、腰元のお縫をみて不機嫌に。近習たちと一緒になって、見ているこちらまでオロオロしてしまう。心を掴まれる、の言葉通りの体験だ。
其角が巧みに笑いで場を収めると、その流れにのって松浦侯は再び笑顔に。客席もほっと胸をなでおろす。実は松浦侯は、浅野の家臣たちが仇討ちに動かないことに腹をたてていたのだ……。
夜の部『松浦の太鼓』(前方)左より、お縫=中村米吉、宝井其角=中村歌六、松浦鎮信=片岡仁左衛門、(後方)左より、早瀬近吾=市村橘太郎、里見幾之丞=中村吉之丞、渕部市右衛門=中村鷹之資、江川文太夫=中村隼人、鵜飼左司馬=市川猿弥 /(C)松竹
お縫は、しとやかさと武家の娘の芯の強さを体現。松浦侯と其角のやり取りは、仁左衛門と歌六の、芸に裏打ちされた遊び心のラリーだった。ぎっしりと芸の詰まった台詞が、軽やかにどこまでも高揚していく。太鼓が聞こえてからの松浦侯は、喜びに身をよじらせて、観る者を幸せな気持ちにする。馬にまたがった助太刀スタイルで再登場した時は、大きな笑いに包まれた。其角やお縫の真剣な表情もまた可笑しかった。
討入り後の源吾が颯爽と現れると、今まで見えていた景色の外側に、一気に忠臣蔵のドラマが立ち上がる。松浦侯の万感の思いを込めた「ほめてやれ、ほめてやれ」の呼びかけに客席からも力強い拍手が送られた。一瞬の間をおいて、仁左衛門を中心としたこの舞台に向けた拍手が惜しみなく送られた。
夜の部『松浦の太鼓』松浦鎮信=片岡仁左衛門 /(C)松竹
御前様のゴキゲンに、舞台も客席も皆が心地よく翻弄される一幕。荒事のようながっちりとした型のある作品ではない。けれども歌舞伎が継承を大切にする芸能であるならば、ぜひどうにか100年、200年、それ以上、このまますべて受け継いでほしい『松浦の太鼓』だった。
『鎌倉三代記』
義太夫狂言の名作。全十段の物語の七段目にあたる「絹川村閑居の場」が独立して上演される。三浦之助(みうらのすけ)に中村時蔵、その恋人・時姫に中村梅枝、武将・佐々木高綱に中村芝翫。二枚目の三浦之助を時蔵が、女方の重要な役である“三姫”のひとつとして知られる時姫を、梅枝が初役で勤める注目の公演だ。
格調高く重厚感のある、竹本の語りではじまる。舞台は、三浦之助の母・長門(中村東蔵)が療養する絹川村の閑居。花道に現れた若武者は、時蔵の三浦之助。笠の陰に見える横顔の美しさと、戦の匂いを残すただならぬ凄みに息をのむ。母親に会うため、戦場から真っすぐにここへきたらしいが、門に辿りついたところで倒れてしまう。
夜の部『鎌倉三代記』(左より)三浦之助義村=中村時蔵、時姫=中村梅枝 /(C)松竹
奥から、赤い着物の時姫が現れる。時姫は三浦之助の許婚だ。病床にある未来の義母・長門の世話をしているのだった。しかし時姫の父親は北條時政。京方につく三浦之助にとって、時政は敵方の大将だ。どうしても時姫に心を開くことができないのだった。
暖簾の向こうから現れた梅枝の時姫は、パッと場を明るくする赤姫の装い。それでいて、家事のために白い手ぬぐいを姉さんかぶりにしている。手ぬぐいが花嫁の角隠しにも見えそうな、うぶさ、初々しさを、身体の隅々から体現していた。許婚はもう戻ってこない決意をしている。自分の言葉を信じてくれない。追い詰められたところでようやく信用を得たと思ったら、父を討てと言われるのだ。あまりの理不尽さに、文字にすると怒りがわく。友だちだったら割って入るところだ。しかし梅枝の形、声を通し、時姫の一途さ、切実さに心を動かされ、「北條時政討ってみしょう」と言った時は反射的にめいっぱいの拍手をしていた。客席も大いにわいた。
夜の部『鎌倉三代記』(左より)三浦之助義村=中村時蔵、佐々木高綱=中村芝翫、時姫=中村梅枝 /(C)松竹
芝翫は、前半は藤三郎として登場し、滑稽味のある芝居で時姫を連れ帰ろうとする。後半は、高綱として井戸から武将となって再び現われる。「そなたは?」と問いに答える高綱の語りは力がみなぎり、三味線も附けも高揚しているかのように場内に響き渡った。美術の転換もなく、照明も変わらず、ただ芝翫の芸により芝居がダイナミックに動いていく。敵と味方が入り混じり展開していく中、三浦之助の命の灯は情感豊かにグラデーションを描き、死に瀕しているにもかかわらずひたすらに美しかった。
おくるに市川高麗蔵、阿波の局に中村歌女之丞、讃岐の局に中村梅花、富田六郎に中村松江という盤石な布陣。3人で決まる幕切れの見得は、まさに錦絵のような鮮やかさだった。
『顔見世季花姿繪』
夜の部の打ち出しは、『顔見世季花姿繪』と題し、舞踊の〈春調娘七種〉、〈三社祭〉、〈教草吉原雀〉が上演される。
夜の部『春調娘七種』(左より)静御前=尾上左近、曽我五郎=中村種之助、曽我十郎=市川染五郎 /(C)松竹
〈春調娘七種〉は、曽我五郎に中村種之助、静御前に尾上左近、曽我十郎に市川染五郎。『曾我物語』で有名な曽我兄弟が、『義経千本桜』のヒロイン静御前と一緒に踊る、人気者同士の豪華共演だ。種之助は、五郎の個性を、長唄に彩られた踊りで柔らかに描き出す。左近の静御前は愛らしく、指先まで丁寧に魅せる意識が行き渡っていた。染五郎の十郎はすらりと爽やか。大きく枝を伸ばした梅を背景に、春の七草にちなんだ唄と、曽我物や『義経千本桜』を思わせる振りで楽しませた。
フレッシュな空気に幕を引くことなく、舞台はそのまま海のように広がる宮戸川に転換。演奏は長唄から清元へ。
夜の部『三社祭』(左より)悪玉=坂東巳之助、善玉=尾上右近 /(C)松竹
〈三社祭〉は悪玉に坂東巳之助、善玉に尾上右近。人気の花形俳優2人が漁師に扮して軽妙に楽しませる。巳之助は、心のままに飛び跳ねていそうで、その動きはすべて黄金比を描くような心地よさ。右近もまた、ぶれることなくピタリと形を美しく決める。華やかさとしなやかさに目を奪われる。善と悪の面で扇を手に跳ね、黒御簾音楽も清元も盛り上がり、つい体を揺らしたくなる楽しさ。
浅草神社の縁起を描いた舞踊の後は、そこからほど近い吉原仲町に。舞台正面に長唄連中がずらりと登場し心も華やぐ。
夜の部『教草吉原雀』(左より)鳥刺し実は鷹狩の侍=中村歌昇、鳥売りの女実は雀の精=片岡孝太郎、鳥売りの男実は雀の精=中村又五郎 /(C)松竹
〈教草吉原雀〉は、鳥売りの男実は雀の精に中村又五郎、鳥売りの女実は雀の精に片岡孝太郎。ラストに鳥刺し実は鷹狩の侍の中村歌昇も登場する。江戸時代、捕らえた生き物を放つことで、日頃の殺生を戒める(なんなら御利益が得られる)儀式があった。それが放生会だ。鳥売りは、ペット用ではなく放生会のための鳥を売っているのだ。そんな2人が、吉原のあれこれを踊ってきかせる。孝太郎が痴話げんかの合間にみせる微笑みは、得も言われぬ色気があった。扇子を吸いつけ煙草に見立て、これを受け取る又五郎の男ぶりの良さ。幕切れの、雀の精のかわいい振りとのギャップが楽しかった。日常生活を忘れるような、ファンタジックなひと時だった。
歌舞伎座新開場十周年『吉例顔見世大歌舞伎』は11月25日(土)まで。
取材・文=塚田史香
公演情報
那羅延天(ならえんてん):尾上菊五郎