《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 10 吉田簑二郎(文楽人形遣い)

2024.11.21
インタビュー
舞台


楽しくて仕方がなかった文楽の世界

晴れて研修生となった簑二郎さん。研修生活は本当に楽しかった、と振り返る。

「それまでは松戸のアパートで悶々とした日々を送っていましたが、養成所には自分のロッカーがあり、自分の座る場所がある。居場所ができたわけです。養成所では同期の歌舞伎の研修生が同じ更衣室を使っていたので、隣のクラスの同級生みたいな雰囲気で、ロッカールームでワイワイ話したり、皆で温泉に行ったり。卒業してからも、よく一緒に飲みに行きました」

研修生になって嬉しかったことは、まだある。

「簑助師匠が研修生の講師をなさるようになったのは、私の3期生からなんです。子どもの頃から文楽の世界に入られた師匠からすると、学校みたいな形での養成授業には色々とお考えがあったというふうに聞いています。それでも、1期生、2期生の頑張りや、先代玉男師匠、先代勘十郎師匠といった方々のお口添えもあって、講師を引き受けてくださり、手取り足取りご指導していただきました」

1976年5月に研修生となり、その年の10月に行われる適性試験を受けて本格的に足の勉強が始まるのだが、なんと簑二郎さんはその年の夏休み前、早くも文楽の地方巡業に連れて行ってもらったのだという。

「その時、文楽で海外公演が入っていたんですよ。そのため地方巡業の人手が足りないからと、私も、足の持ち方もわからないうちに巡業に連れて行ってもらって。『絵本太功記』で母・さつきを遣う先代勘十郎師匠の足を遣わせていただいたのですが、女方の足の“ふき”の持ち方すらわからなくて、急に師匠がたて膝をされて対応できずにいたら『習ってへんのか』と教えていただきました。『生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)』では(吉田)作十郎師匠が遣われた戎屋(えびすや)徳右衛門の足も遣わせていただいて。人形がお辞儀をする時、足遣いはそれを下から受けないといけないのですが、上からどんどん押してきて重たいから足を下に下げたら「受けろ、受けろ」と言われて。楽屋で玉男師匠が作十郎師匠に、『いやいや、まだ教えてないねん!』。そういったことの全てが楽しくて、これは自分にもやり甲斐がある仕事かなと思いました」

2年間の研修が終わると、いよいよ入門。どの師匠に弟子入りするかは、養成所から研修生に意向の打診がある。「思いは簑助師匠なんだけれども言って良いのか悪いのか……」と悩みつつ、「取る気がないと言われたら文楽を辞めるつもりで」思い切って名前を出したところ、「引き受けてくださった」と連絡を受け、弟子入りが決まった。そして付けてもらった芸名が、「簑二郎」。

「芸名は師匠がお決めになることですが、事前に色々と考えはしました。まず、『簑の字はつくだろう』と。で、やっぱり私としては、師匠の前名が紋二郎ですから、簑二郎という名前がいいなというのはお腹の中で思っていたんです。でも、そんなことは口が裂けても言えない。それに、兄弟子に今の勘十郎、当時の簑太郎がいて、後に辞められた先輩がその次にいて、私は三番目の弟子でしたし。で、ここから熱く語りますが(笑)、大阪の朝日座で、勘十郎から師匠が呼んでいると聞き、師匠の部屋に行って机の上を見ると、半紙が二つ折りになっていて中が透けて見えるんですよ! で、真ん中に簑二郎の名前が見えていて、その前後に他の名前が幾つか書いてあって、師匠が『この中から選んで来なさい』と。『選ぶも何も!』と思いつつ、『有難うございます』と持ち帰りました。……悩みましたね、どういう風に思っているか試されているのだろうか?なんて考えて。ただの妄想かもしれないんですけど」

翌日、『平家女護島』の鬼界が島の段の千鳥を遣う師匠が下手に控えている時、「“簑二郎”をいただきたいんです」と言うと、「わかった」。「先輩方からは、お前、3番目の弟子なのになんで簑二郎やねん」と言われましたけれども、有り難かったですね」と笑顔を見せる。こうして、簑二郎の名で朝日座にて初舞台。1978年4月のことだ。

1978年1月、朝日座での若手向上会『菅原伝授手習鑑』佐太村の舞台稽古にて。梅王丸の女房・春の主遣いを勤める簑二郎を、師匠の簑助が左遣いとして補佐してくれた。足は吉田和右。       提供:吉田簑二郎


≫“簑助イズム”を浴び続けて