ピアニスト・髙木竜馬が紡ぐ、愛、憧憬、悲劇……音に浮かぶ情景、そして魂の叫び~『リサイタルツアー2025』東京公演レポート
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2025年4月19日(土)浜離宮朝日ホールで『髙木竜馬リサイタルツアー2025』の東京公演を聴いた。
「挑戦する姿を皆様に見届けて頂きたい」と事前のインタビューで語っていたピアニストの髙木竜馬。ステージで初めて挑む作品を含む意欲的なプログラムによる演奏会の模様をお伝えする。
夏を思わせる春の日、東京の浜離宮朝日ホールは多くのファンが詰めかけ、客席を埋め尽くしていた。マイクとともに髙木竜馬がステージに登場。演奏前にこれから演奏する作品一曲ずつについて丁寧な解説を繰り広げるという。各作品に対する自らの思いや情熱を誠心誠意客席に向かって訴求する姿が何よりも髙木らしい。
第一曲目。バッハ=ジロティ編曲「前奏曲 ロ短調」。ロシアの作曲家であり編曲家としても知られるジロティによるJ.S.バッハ「平均律クラヴィア曲集 第1巻 第10番 ホ短調 BWV855」前奏曲のトランスクリプション作品だ。原曲がホ短調であるのに対し、ジロティ版ではロ短調に移調されている。憂いを帯びた響きが会場に響きわたる。祈りを込めるかのように安らかに奏でられる旋律はピアノ、ピアニッシモの繊細な響きながら力強さに満ちており、悲壮感さえも漂わせる意志の強い“詞”の連なりが心を打つ。髙木らしいメッセージ性のある演奏がこれから繰り広げられる一連の流れの濃密さを告げるかのようだ。
間を置かずにショパン「幻想即興曲」へ。バッハ=ジロティ作品とほぼ一体化させることでこの作品の単なる即興的ピースではない、深遠なる芸術性とその価値を際立たせていた。中間部のカンタービレも決して甘く感傷的にならず決然と、そして悠然と歌うことで品格を漂わせる。再現部では冒頭で聴かせた響きとは一味違う極めて男性的な勇壮さで締めくくった。ゆえに優美な旋律を歌う回想的なコーダの一節がひと際、成熟した余韻を漂わせていた。
続いてシューマン=リスト「献呈」。この作品においても厳かな三連符の和声に乗せて歌われる中間部が印象的だった。ストレートな愛の表現のくだりながら髙木の演奏は決して前のめることなく内面に燻る密やかな思いを狂おしいほどに移ろわせる。内に燃える感情はその後に続く再現部でいよいよ昇華され、唯一無二の輝きを放つ。その見事なまでのみずみずしい過程を髙木は持ち前の理知的さで力強く描きだしていた。魂の叫びと言っても良い程の愛の昇華のかたちで完結する様は感動的ですらあった。
続いては髙木がリサイタルのたびに温め続けているラフマニノフ「前奏曲集」から「作品23-5」と「作品23-10」の二曲が演奏された。一曲目の「作品23-5」では、冒頭のあの有名な行進曲的なくだり―――土臭いとも原始的ともいえる独特なリズム感とともに階段状のダイナミクスの高まりをいとも大胆に、魅力的に聴かせ、作曲家がこの作品に対して意図したであろうスラブ的なものの本質が見事に描写されていた。
中間部ではまるで人格が違う人間の手によるものであるかのように骨太で力強い弧を描きながら雄弁な歌を紡ぐとともに力強い抒情性を湛えていた。リズム感、色彩、歌、どの点においても全パート(特に中間部と再現部)がそれぞれに見事なコントラストを描きだしており、この作品に対する髙木の理解の深さが感じられた。
二曲目の「作品23-10」。髙木が前奏曲集の中でもっとも愛する作品の一つというだけに(そしてラフマニノフ自身もしばし愛奏していたと言われる)全編の演奏を通してひと際、深い愛情が感じられた。変ト長調という神秘的な調性―――幾重もの音の襞が織りなす重層的な響き―――に乗せて歌われるリリシズムは我が子に聴かせる子守歌のようでもあり、恋人に贈るセレナーデのようでもあり、官能的な響きの連続の中にも愛おしきものへの憧憬が感じられた。しかしながら同時に骨太なメロディラインの描き方がこのピアニストの真骨頂であり、髙木が描くラフマニノフらしさの王道を存分に感じさせた。
前半最後の作品はバッハ=ブラームス「左手のためのシャコンヌ」。257小節にわたる長大なバッハの原曲をブラームスはヴァイオリン作品の本質を失わないためにも左手のための練習曲と言う独自のスタイルで忠実にその世界観を再現した。髙木は音型に伴う自然な感情の高まりを決して意図的に構築することなく、音のかたちが紡ぎだすエネルギーの流れのままにごく自然なダイナミクスをともなって縦横無尽に歌う。縦横無尽と言っても、厳格に様式感を保ち、横の流れと垂直な和声感との知的な統合を意図し、そしてクライマックスへと向かう―――ステージの上で自らの精神の限界へ挑戦しようとする髙木の意欲的な姿とこの偉大なる作品に対する献身的な思いが痛々しい程に客席に伝わってきた。
クライマックスを過ぎた後の後半部では、あたたかみのある力強いコラール的な重厚感を聴かせ、髙木自ら事前のインタビューで語っていたように、ゴルゴダの丘を上りゆく受難のキリストの悲壮な姿を思い起こさせるかのようだった(この日は奇しくも聖金曜日と復活の日の間の聖土曜日でもあった……)。
後半の一曲目はドビュッシーの「前奏曲 第一集」から10曲目「沈める寺」。聖なる大伽藍が海上に浮上しゆく情景描写――それはドビュッシー的な和声の連続が織りなす神秘的かつ息の長い過程だが、キラキラとしたみずみずしい輝きを帯びており、神々しい後光が目に見えるかのように冴えわたっていた。
束の間の時を経て、荘厳なる信仰の砦が残酷にも海の渦に呑み込まれ、再び海の静寂へと沈みゆくその様は低声部が織りなすおどろおどろしいまでの響きとともに映像的な臨場感を漂わせていた。
そして本プログラム最後を飾るのは、プロコフィエフ「戦争ソナタ 第8番」。髙木は第8番をステージで演奏するのは初めてということもあり、「一つの挑戦」と事前のインタビューで語っていた。
第一楽章は15分という長尺な規模を持つ。提示部の瞑想的な抒情性と歌心。対して展開部を覆う激烈なパッセージでは、抗いようのない恐怖心や攻撃性など極限の状況におかれた人間の中に芽生えるドロドロとした感情や本能が抉りだされているかのようであり、内面にうごめくものへの肉薄が見事だった。
再現部で再び聴かせた抒情性は冒頭のそれとは一味違い、一種の問題提起を促すかのようなメッセージ性も感じられ、浮遊感とも寂寥感とも感じられる捉えどころのない感情が終始漂い、この複雑で長大な冒頭の楽章をより有機的で意義あるものへと昇華させていた。
第二楽章は第一楽章からは想像できない程に優雅さに満ちた緩徐楽章だ。髙木はスラブ的な華麗で重厚感ある優美なメロディが醸しだす甘い誘惑に陥ることなく、戦場にいる誰しもが一度は思い浮かべたであろうかつての幸せな営みの幻影を映画のワンシーンのごとくに鮮やかに描写するとともに、練り上げられた成熟した和声感の機微をも精緻に描きだしていた。
フィナーレ/第三楽章。タランテラ風の速いパッセージに内在するスネアドラムを想起させる連打や低声部に聞く激烈なスタッカートなど、明らかに戦場の凄惨な光景を思わせる要素を、髙木はむしろ軽やかにカリカチュア的に際立たせる。その日常的ともいえるさりげなさがむしろ凄惨さをより際立たせ悲劇性を感じさせていた。
クライマックスに向けての計算され尽くした理知的なダイナミクスの細やかかつ大胆な運びは、もちろんこの作品の性格ゆえに尋常なものでないことは容易に想像がつくが、実にこのピアニストらしさが存分に表れていた。髙木が“運命の動機”と呼ぶ三連音。その不気味さにもあたかも時間を巻き戻すかのような摩訶不思議な感覚を覚え、技巧的なこの楽章により深遠なるものを与えていた感がある。
ピアノ・ソロ作品史上一・二を争う難度と言っても過言ではないこの楽章のフィナーレの壮絶なくだりを髙木はまったく疲れを感じさせない恐るべき集中力と推進力で見事に高揚感をたぎらせ、「戦争と人類」という答えのない永遠の課題へと向かって迷いもなく力強く突進し続け、果敢にアプローチし、その思いをよりいっそう濃密なものとしていた。
アンコールは昨年4月にリリースされたデビューアルバム『Metamorphose』にも収録されている作品群からシューマン「トロイメライ」とラフマニノフ「前奏曲 作品3-2《鐘》」。そしてプロコフィエフ オペラ『三つのオレンジへの恋』より「行進曲」で全プログラムを締めくくった。
取材・文=朝岡久美子 撮影=池上夢貢
公演情報
『髙木竜馬 ピアノ・リサイタルツアー2025』