ピアニスト天野薫、12歳の世界を超えて紡がれる深遠な音楽世界は圧巻 大喝采のソロリサイタルをレポート
昨年(2025)の仙台国際音楽コンクール ピアノ部門で第三位を獲得した12歳、小学6年生のピアニスト天野薫。ジュニア部門ではなく一般部門においての堂々受賞はセンセーショナルな話題をさらった。ファイナルで矢代秋雄のピアノ協奏曲を、オーケストラをバックに堂々と奏でるその姿に多くの人々が魅了されたに違いない。その天野が2026年3月14日(土)、浜離宮朝日ホールで意欲的なプログラムでのリサイタルを開催。満場の客席から熱狂的な喝采を受け、有終の美を飾った。演奏会の一部始終をレポートする。
満場の客席は開演前から期待感にあふれていた。いよいよ小学6年生のピアニスト天野薫がステージに登場。白地のワンピースのようなドレスで登場した天野は妖精のよう。客席へのお辞儀も溌溂としていて12歳の等身大の満開の笑顔が微笑ましい。
冒頭の曲目は「ヘンデル 組曲 第5番 ホ長調」——1曲目「プレリュード」から雄弁にメロディを語り、力強い演奏を聴かせる。小さな身体を全体的に柔軟に使って紡ぎだすレガートの歌い方が何とも抒情的だ。同時に大きなフレーズを捉え、ダイナミックに弧を描き続けていくかのように豊かな響きを紡ぎだしてゆく。全身から滲み出る音はまさに“紡ぎだす”という言葉がふさわしい。
先ほどあどけない表情で客席に笑顔を振りまいていた12歳の少女とは思えない、大人びた横顔とピアノに対峙する気迫あふれる姿勢に冒頭から目の覚める思いだ。仙台国際コンクールで第三位入賞を果たしている彼女は、YouTube上の動画などでも演奏シーンが多数アップされているが、実際に舞台上でピアノに向かう時の姿は鬼気迫るものがある。
“愉快な鍛冶屋”として知られる同組曲の 終曲「エア(アリア)と変奏曲」では、鍛冶屋が楽しく鍛治打ちをしている情景が鮮明に浮かび上がるような臨場感あふれる描写でテーマの存在感を印象付けた。続く各変奏曲も細部の変化を細やかに鮮やかに際立たせた。歯切れのよいリズム感の応酬が人物の性格や表情までをもつぶさに感じさせてくれるかのようだった。
続いては、モーツァルト「ピアノ・ソナタ 第3番 変ロ長調 K.281」——第一楽章は一つひとつのフレーズに細やかに表情を持たせ、フレーズ間の対話における起伏の柔軟性が印象的だった。ここでもしなやかに身体を使う奏法が生きているように思えた。続く第二楽章においても、全身から伝わってくるまろやかなフレージングと煌めくトリルの鮮やかさの対比が際立ち、第三楽章においてもモーツァルトらしいピアニスティックな技法をさりげなく印象付けながらこの楽章が持つvivacita`(溌溂とした軽やかさ)を余すところなく表現していた。
古典作品を散りばめた前半プログラムを締めくくるのはJ.S.バッハ「半音階幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903」—— 冒頭の半音階の応酬において縦横無尽に広がる幅広いダイナミックレンジを駆使し、決然としたドラマティック性を際立たせていた。この作品に対峙する天野の表情はまさに神がかり的なものがあり、曲が持つ精神性と劇的な要素に完全に同調している姿に思わず引き込まれる。次第に広がりゆく幻想的なアルペッジョを豊かな琥珀色ともいえる燻した音で響かせ、得も言われぬ世界を構築していた。12歳が感じる世界を遥かに超えた音楽的想像力と構築性の確固たる自信——そこから紡ぎ出される深遠なる世界に客席の聴き手一人ひとりがそれぞれに思いを抱いたことだろう。
後半のフーガでは抑制された音で極めて理知的に、しかし“対話”を意識しながら、より人間的な息吹を感じさせることも忘れずに粛々と旋律を紡いでゆく。一つ一つの音に刻まれた“言葉の力”があふれる出るように伝わってくる。それはフーガの真骨頂である水平的な動きにおいてのみならず、垂直的な動きが伴う厚みのある和声の箇所では、よりいっそう力を増し、バロック絵画的な光と翳の構築のような印象さえ感じられるほどだった。
後半プログラムは、「新しい試み」と天野自身、事前インタビューで語っていたドビュッシーやラヴェルを中心としたプログラムだ。妖精のような白い衣裳から紺色のシックなドレスを纏った姿は、内面から滲み出る大人びた雰囲気とあどけなさが混在しており、何とも魅力的だ。
第一曲目はドビュッシー「水の反映」。終始、天野は自身の内面から湧き上がるフレーズに対峙し、一つひとつを噛みしめるように丁寧に紡ぎ出していた。アルペッジョも音と光のうつろいを噛みしめるようにゆったりと響かせ、その分、リフレクション(光の反映)がスローモーションのようにも感じられ、反映の強さと密度の濃さが眩いばかりだ。恐らく、まだ手の大きさからみても演奏困難な部分もあるかと思われるが、いわゆるハンデを追いながらもここまで個性的な音楽を呈する懐の深さに、感心という領域を超え、思わず茫然としてしまった。恐らく、さらに身体が成長することで(今でも十分にダイナミックだが)よりいっそうスケール感のある音楽が期待できることだろう。
二曲目も同作曲家の作品より「喜びの島」。洒脱な間の取り方や緩急を効かせたスリリングなテンポの取り方、上行系の音型の得も言われぬ和声の色彩感やバランスのとり方など、そのすべての要素が絶妙なかたちで融合し官能的な世界を作りあげていた。和声的な色彩感の連なりは神秘の世界へと誘うものでもあり、魔術的な力さえ秘めているように思えた。
天野に“官能的”という言葉を用いるのが適切かどうかは未知数だが、彼女の生来の音楽性と想像力がおのずと導き出すものが(恐らく彼女の言葉の中にはまだない)“官能的な”世界なのだろう。言い換えれば、若干12歳である現時点での彼女がこの作品に抱くイメージの奔放さ、そして創造性などアプローチの確かさと成熟ぶりに脱帽せざるを得なかったのだ。
続いてはラヴェル 組曲「鏡」より 第3曲「洋上の小舟」、第4曲「道化師の朝の歌」が続けて演奏された。
第3曲「洋上の小舟」——低声部の波のうねりの太いはっきりとした線に対して、右手の浮遊感漂う音型はまさに洋上をたゆたう小舟のシルエットであり、時折、波から鮮やかに吹き上がる水しぶきさえも感じさせる細やかな描写力を発揮していた。
第4曲「道化師の朝の歌」——冒頭から冴えわたるリズム感で印象付ける。とてつもない推進力とともに鮮やかな情景描写が目くるめく展開する。そして、そこにいわゆる“道化師の歌”が聞こえると情景は一変する……オーブ色(暁の淡い色)に包まれたかのような道化師のモノローグの描き方が何とも秀逸だ。人物の心の中にある哀愁を、彼女がここまで自然なかたちで人物に同調するように描きだしたことに驚愕を隠せなかった。道化師がたたずむ空気感や、人物が置かれた心の中の文脈のありようまでもがありありとストーリーとして浮き上がってきたことに目を見張る思いだった。そして、再現部へと進むにつれ、表の顔としての道化師の生き様が再び鮮やかに描き出され、その美しい時の流れとともに、あたかもモノローグの短編映画のストーリーを堪能したかのような充足感があった。
印象主義的なものが続いた後で後半プログラムを締めくくるのは、もはや天野のシグネチャー的ピースになっている矢代秋雄の作品よりピアノソナタ。
第一楽章《アジタート―アダージョ/ソナタ形式》——アジタートの主題の激烈さにハッとさせられるとともに倍音も効果的にまとめ上げられていた。よって、よりいっそうアジタートの第一主題に対するアダージョの第二主題の深い響きが心に沁みた。
第二楽章《トッカータ アレグロ・リトミコ/三部形式》——過度に跳躍する音列や和音の三連打の連なりをメカニズム的に無機質に演奏するのではなく、鮮やかに命を吹き込んでいたのが印象的だった。天野の音にはどんな場合においてもやはり“言葉”が介在するのだ。
第三楽章《主題と変奏/レント》——いくつかの瞑想的な箇所と物理的な律動の激しい箇所の対立的な動静を実にダイナミックに効果的に描き上げ、恐らく譜面に書かれているもの以上の音の世界を描き出していたのではないだろうか。そこにあるのは、物理的な躍動が呼び覚ます見えざる何かなのだ……。
全プログラムを弾き終えると大仕事を終えたとは思えないような柔和な、そして満面の笑みを湛えてお辞儀をする天野。満場の客席からの大喝采に少しだけ照れ気味な様子が微笑ましい。
一度楽屋に入ると、何か下書きのようなメモ書きを持って再びステージに登場。マイクを持って客席に挨拶。客席に感謝の気持ちを述べるとともに、客席にいる矢代秋雄氏の夫人を紹介し、「矢代先生の奥様の前で演奏できて嬉しいです」と思いを述べた。そして、アンコールはその流れのまま 矢代の「夢の舟」を演奏。郷愁を誘う作品を、心を込めて愛おしむように奏でる姿が印象的だった。
さらなる声援に応えてもう一曲のアンコールは、カプースチン「8つの演奏会エチュード」より「作品40-8」。かなりアグレッシブな曲調のジャジーな作品だが、この期に及んで想像以上に大胆なピアニズムを披露し、ジャズピアニストとしての一面性も持ち合わせているのではないか?と思わせるような多才ぶりを発揮。満場の客席を熱狂させた。
何にしても無限の才能を感じさせる12歳……これからも目が離せない存在であることは間違いない――。
取材・文=朝岡久美子 撮影=Misaki Kano