新垣隆が自ら語った自分自身、そして「事件」

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音楽という<真実> 著/新垣隆(小学館)表紙より

音楽という<真実> 著/新垣隆(小学館)表紙より

新垣隆が語る〈真実〉

先月、興味深い本が出版された。タイトルは「音楽という〈真実〉」、著者は新垣隆。そう、いまでは毎日ピアノで自作を弾く姿がテレビで見ることができる、あの新垣の語りおろしによる自伝的告白本である。事件の「告発者」である神山典士による書籍もすでに出版されてあるわけだが、事件の「当事者」として新垣が「告白」したことで本書は注目を集めた。

「音楽は、嘘をつかない。」と帯に大書されていることからも察せられるとおり、事件の前にまず「一人の音楽家としての新垣隆」のこれまでの半生を振り返り、その中にあの事件も位置づけられる構成だ。あの2014年2月6日の、冬季オリンピック開幕を控えた時期に行われた記者会見も文字に起こされ、すべて収録されている。

もちろん、「告白」が真実であることは保証されない。ルソーにしても三島にしても、告白という「語り」によってある種の虚構を描いてしまっているのだから、本書で語られる内容も事実に照らして検証され、また彼の今後の活動によってその意が明らかになっていくことだろう。関係した人々の想い、そしてビジネスとして発生したのだろう利害、加えて未だ落としどころが見えていない「佐村河内守の発注により新垣隆が作曲した」作品群の扱いなど含めて、まだあの事件は終わっていないのだ。

と、本書について大枠について説明をした上で。新垣と筆者は世代がほぼ同じなこともあって、本書には大いに共感してしまったところがある。自分の子ども時代を語る中で「ウルトラマンレオ」や野球マンガ「しまっていこうぜ!」への言及なんてされたらついガードもゆるもうと言うものなのだが、以下はそういった筆者のバイアスを示した上での、個人的な感想である。

こどもとしては筆者と似たような育ちだったとはいえ、さすがにその道で才人として知られていた新垣である。ピアノを学ぶ幼い日にショパンの幻想即興曲に出会い、小学生のときにデジュー・ラーンキの演奏でドビュッシー、ストラヴィンスキーに憧れ。長じて音楽科のある高校へ、そして音楽大学へと進み成長していくその「音楽ばかりの青春」(第二章 章題)は、まるで専門家の成長を描く、一人称による教養小説だ。数多くのジャンルにとらわれない音楽への敬意ある言及のため、見方によっては第二章までは昭和後期から平成へ、そして現在に至る「時代のドキュメント」としても読めるだろう。

なお、第三章から第六章までが『もうひとりの「ベートーヴェン」』(第三章 章題。もちろん、ここで示唆される一人めの”ベートーヴェン”は新垣自身である)との出会いから始まるあの事件に費やされているので、事件についての証言が読みたい方はそこをまず読まれるといい。

個人的に強く印象に残ったのは交響曲第一番について自ら下した評価だ。新垣曰く、あの音楽はそもそもがゲーム音楽の延長にあり、ある種のポップ・アート、小説で言うなら「直木賞」の側に区分されるもの、であるという。また、”コンセプチュアルアート「演奏されないための六〇分の交響曲」”とも。個人的にはその評に大いに納得した次第である。しかしあの作品は演奏されてしまいさらには録音されて大ヒット、結果としてあれほどの事件となったのだから皮肉なものである。

こうして「佐村河内守」というひとつの事件について、告発者である神山、そして片方の当事者である新垣の証言が書籍として発表されたわけだが、この先には森達也による映画も予定されている。なんでもその映画によって「佐村河内と新垣の見方や関係がひっくり返るかもしれない」という話なのだ。たしかに別の視点が示されることで事件そのものを違う角度から見ることはできるだろう。しかし果たしてそれでことの真相はわかるのか、それとも証言だけが増えてますます事態は「藪の中」に隠れてしまうのか。当事者たちの証言が出揃ったその日には黒澤明の「羅生門」にも似た「誰もが自分の視点から主張するが誰が正しいとも言い切れない」状態に落ち込みかねないのではないか。

……そこで個人的な、そしてどこまでも無責任な希望なのだが。きっと訪れてしまうだろう「藪の中」状態を先取して、新垣氏にはぜひ新作として「ボレロ」を作曲していただきたいと思う、黒澤が「羅生門」の中で早坂文雄に書かせたあの印象的な映画音楽を超えるものを。最近では「戦艦ポチョムキン」などの無声映画にライブで伴奏を付ける仕事にも携わる新垣なら、きっと面白いものを聴かせてくれると愚考するが如何だろう。

 

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