室伏鴻追悼(3)中原蒼二「苛烈な無為」/渡辺喜美子「最期の状況」

レポート
2016.2.19
 ©BOZZO

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昨年2015年に急逝した振付家・舞踏家の室伏鴻。今週末2月18日~2月22日には横浜赤レンガ倉庫1号館で、惜しまれつつも世を去った室伏鴻を追悼するイベント『<外>の千夜一夜 Vol.2』が開催される。これにちなんで、昨年8月5日(水)に行われたお別れの会「ありがとう 室伏鴻!」の模様のレポートとしてお届けする。日本発の「BUTOH」を世界に広め、身体のエッジを追求して、多くの人たちに強い影響を与えた室伏の功績を、今一度あらためて振り返っておきたい。(取材・文:堤広志)


【連載目次】
室伏鴻追悼(1) 麿赤兒「“非在の強度”が迫って来る」
室伏鴻追悼(2) 石井達朗「海外で観た3つの公演」
室伏鴻追悼(3) 中原蒼二「苛烈な無為」/渡辺喜美子「最期の状況」

 

[別れの言葉]中原蒼二「苛烈な無為」

森下:それではもう一人方、発揮人の中原蒼二様からお別れのお言葉をいただきます。


中原:本来はあの、私はこのような場所で何かを申し上げるという立場ではございませんが、友人のひとりとして、挨拶をしろというお声をかけていただきましたので、短く挨拶をさせていただきたいと思います。

室伏さんが亡くなられたという衝撃的な報せを聞いた後で、土方巽さんが室伏さんに関して書かれた文章、「ミイラの舞踏」という文章ですが、これは1977年に書かれたものですが、その文章が載っている本を引っ張り出しまして、拝読いたしました。そこには室伏さんの一生を方向付けるかのような数行がしたためられておりました。ここからは土方さんの文章です。

「そういう風なものを、根底から覆すような新しい舞踏の、まぁ発見、古い言葉でいえば、原点というようなものを確かにこの目で確認したと思います」

もう一つ。

「あなたの舞踏の中に、もう一つの苛烈な無為、為さない行為という側面も私は見たわけです」

ここまで土方さんの文章です。私が読んだのは「新しい舞踏」「苛烈な無為」という言葉でした。まさにあなたの一生を簡略に伝えて余りあります。また、室伏さんは「舞踏とは思想ですよ。思想とは生き方ですよ」、酒の席でポツッと言われたことがありました。思想とか精神を持たぬ身体が、いかにして思想や精神を切り結ぶか。そのことを突き詰めて考え直すこと、そして決していわゆる肉体礼賛には行き着かないこと。室伏さんは、そのような生き、踊り、それをまっとうしました。

しかし、そのような話は、私の任ではありません。あなたの強度を持った思想と人生を、若いダンサーの方々の中に引き継がれることを祈るばかりです。「強度」という言葉を使いましたが、私の個人的な思いではありますが、私の怠惰な人生において、あなたという存在は、ある種の強度を絶えずもたらてくれる存在そのものでありました。しばらく会っていなくとも、どこかに存在するわけで、それだけで私には安心するというような思いがありました。40数年にわたって、かけてくださいましたご厚情にお礼を申し上げます。お礼を申し上げて、お別れしたいと思います。ありがとうございました。(拍手)


森下:中原さん、ありがとうございました。中原さんは大駱駝艦が創設される頃から、室伏さんと親交を温めていました。室伏さんも大変、中原さんのことを信頼をおかれていたかと思います。ありがとうございました。なにか本当に大事なものが失われていったんですけども、今のお話をうかがって、また同時に何か大切なものもこれから積み重ねていけるのではないかという風に、あらためて思いました。ありがとうございました。

お別れの言葉は、以上3人で終わらせていただきますが、私からも一言、室伏さんにお礼の言葉を贈らさせていただきます。(置物を取り出して)えっと見えるでしょうか? 今、私が手に持っているのは、これは室伏さんからいただいた海外からのお土産なんですね。室伏さんはしょっちゅう海外に行ってらっしゃるんで、私なんかにお土産買って来っていうことは本当はいつもないんですけれども、どういうわけかこの時だけ、たった一度だけ、このお土産を買って来てくれました。これはメキシコからのお土産なんですね。室伏さんがメキシコで命を落とされたこと、お亡くなりになったこと、これももちろん単なる偶然なんですけれども、私にとっては何かの符号というんですか、因縁のようにも思われます。この置物を手にしながら、室伏さんのことをいつも思い起こしたいと思います。本当に室伏さん、ありがとうございました。

会場ロビー風景 ©BOZZO

会場ロビー風景 ©BOZZO


森下:それでは最後に、マネージャーとして室伏さんを献身的に支えてこられ、それから室伏さんも大変信頼を厚くされていました渡辺喜美子さんからご挨拶をいただきます。渡辺さんは、室伏さんのメキシコでの最期を見届けていらっしゃいます。


[別れの言葉]渡辺喜美子「最期の状況」

渡辺:室伏鴻のマネージャーをさせていただいております、渡辺と申します。本日はお忙しい中、多くの皆様にお集まりいただき、本当にありがとうございました。室伏の最期のツアーに同行し、亡くなる瞬間に立ち会った者として、皆様に状況をご説明させていたたきたいと思います。

私たちは、ロンドン-メキシコ-ブラジルでの公演および国際共同制作を終えて、ツアー最後の公演地ミュンヘンに向かうために、サンパウロから飛行機に乗りました。トランジット地であったメキシコ空港に降り立ち、飛行機を降りて、ほんの5歩も歩かないうちに室伏の膝が崩れました。その時点では、私は貧血だと咄嗟に思い、また近くにたまたま居合わせた3人のドクターの先生方もすぐに駆けつけてくださいまして、脈をとりながら「大丈夫だ」と言ってくださいました。

その後、すぐに空港の車いすで空港内の救急室に運ばれ、ベッドに寝かされましたが、その時点で室伏は「腕に血がこない」と訴えていて、やがてすぐに「背中に血がこない」と訴えはじめました。私は空港職員の通訳でドクターにそのことを伝え続けましたが、ドクターは点滴の処置に集中しなければならない状況でしたし、私には目の前で起こっていること何もかもが、とてもちぐはぐに感じられました。

やがて、室伏が「トイレの行きたい」と強く訴えたので、すでに歩けない体を私とドクターと看護師で支え、ベッドの裏のトイレにお連れし、その後、再びベッドに運びました。そして、ベッドに横たわって、本当にすぐに、一瞬のとても強い硬直とともに、室伏の心臓は止まりました。ドクターの心臓マッサージでいったん蘇生しましたが、すでに意識はない状態で、そのまま警察のヘリで救急病院に搬送され、1時間の蘇生処置の後、亡くなりました。

病院では、どんなに頼んでも、私は処置室に入ることは許されませんでした。少なくとも仕事中は、室伏鴻についてのすべての責任と権利を有するマネージャーとして、亡くなるまで…の(感情がこみ上げるが、涙を押し殺して続ける)、え…、…本当に短い時間、側に居ることが許されなかったということは…、私にとっては、今もって承服しがたいことです……。

…ただ、それでも一度だけ、処置室に入るチャンスが与えられました。その時、室伏は穏やかに息をしていました。私は大変安心して、室伏さんの耳元で、「室伏さん、ミュンヘンはキャンセルいたしました。このまま真っ直ぐ成田に戻りますので、しばらく日本でゆっくり休むことにいたしましょう」と伝えました。そして、その直後に一挙に心拍数が落ち、室伏はそのまま帰らぬ人となりました。

以上が、午前8時過ぎにメキシコ空港に到着してから、午前10時に室伏が亡くなるまでの間の経緯です。「健康管理に関してもマネージャーに任せるよ」とおっしゃっていた室伏さんの指示をまっとうすることができず…、え……………、………このような結果になってしまったことを、室伏および、今まで室伏を支えてこられた多くの方々にお詫びするとともに…、今後は…、室伏鴻が45年にわたって追求し続けてきたことが、少しでも多くの方に理解され、また未来に向かって…の…橋…となるよう、皆様のご指導を賜りつつ、確実に責任を果たしていきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。本日はどうもありがとうございました。(会場から熱い拍手)


森下:この会場にも、たくさんの電報をいただいています。誠に申し訳ないんですが、お一人お一人の電報をお読みすることはかないませんけれども、厚く御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。これから皆様方、お一人お一人に、献花をしていただくんですが、少しこの舞台の上を整える必要がありますので、時間を頂戴したいと思います。そのままでしばらくお待ちくださいますよう、お願いいたします。

森下:(祭壇設置後)それでは、ただいまより、献花の儀を行いたいと思います。ちょっと舞台が一部、銀塗りで汚れていますので、ただいま用意しましたグレーのカーペットの上を歩いて、この舞台の上にあります真鍮板の上に献花をしながら、室伏さんにお別れをお願いしたいと思います。それから、献花が終わりましたら、恐縮ですがそのままロビーに出ていただきたいと思います。ロビーで献杯のお酒を用意させていただいています。限られた時間ですけれども、ご歓談しながら、室伏さんを皆さんとともに偲んでみたいと思います。よろしくお願いいたします。それでは、前列の方々からぜひ、舞台の上にお上がりになって、お願いいたします。

祭壇前の真鍮板の上に献花(手を合わせる司会進行の森下隆さん) ©BOZZO

祭壇前の真鍮板の上に献花(手を合わせる司会進行の森下隆さん) ©BOZZO

 

ロビーには、各時代ごとの写真パネルが飾られ、舞踏の舞台セットに使われる真鍮板には故人へのメッセージが寄せ書きされた。そして、献花の儀の後の献杯では、多くの人たちがいつまでも会場に残って酒を酌み交わし、熱く語りあった。故人の人柄ゆえか、あるいは舞踏関係者が多いためか、お別れの会は決してしめやかにはならず、むしろカラッと故人の讃えるようなムードであった。舞踏を世界に知らしめ、ダンスを開いた表現者を追悼するにふさわしい、にぎやかなお別れの会となった。

真鍮板の寄せ書き(写真は2007年『ミミ』で共演した黒田育代さん) ©Hiroshi Tsutsumi

真鍮板の寄せ書き(写真は2007年『ミミ』で共演した黒田育代さん) ©Hiroshi Tsutsumi


 
 
イベントデータ
お別れの会「ありがとう 室伏鴻!」
■日時:2015年8月5日(水)
■場所:草月ホール
■発起人代表:麿赤兒
■発起人:天児牛大/中原蒼二
室伏鴻追悼企画『<外>の千夜一夜 vol.2』
■日時:2016年2月18日(木)~22日(月)
■場所:横浜赤レンガ倉庫1号館(045-211-1515)
http://www.ko-murobushi.com/outside-2015/

 

室伏鴻プロフィール
室伏鴻 (むろぶし・こう、本名・木谷洋=きたに・ひろし) 。 1947年東京生まれ。舞踏の創始者・土方巽に師事。72年、麿赤兒らと「大駱駝艦」を旗揚げ。女性だけの舞踏集団「アリアドーネの會」のプロデュースを経て、76年、舞踏派「背火」を主宰し、福井県五太子町(現福井市)に劇場「北龍峡」を開いた。78年にパリで上演した「最期の楽園」が1カ月のロングランとなり、これが「BUTOH」を世界に広めるきっかけとなった。2003年からは、舞踏を次世代の若手ダンサーに引き継ぐユニット「Ko&Edge」でも活動。06年にはベネチア・ビエンナーレで全身に銀塗りした『クイック・シルバー』を発表。10年にはジンガロのバルタバスとのコラボレーション『ケンタウロスとアニマル』で欧州ツアーし、話題となった。
2015年6月18日、メキシコ市にてブラジルのサンパウロなどでの公演を終え、ドイツでのワークショップに向かう途中、乗り継ぎ地であったメキシコ市の空港で前8時(日本時間午後10時)ごろに倒れた。ヘリコプターで病院に搬送されたが、午前10時5分(現地時間)に心筋梗塞のため、亡くなった。享年68歳だった。
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