チェスキーナ洋子を偲んで
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故・チェスキーナ洋子
偉大なるパトロンの思い出に
藝術にパトロンはつきものだ。最初期のオペラのひとつであるモンテヴェルディの「オルフェオ」を聴くとき、まず我々は最初に彼のスポンサーであるマントヴァのゴンザーガ家の栄光を、そのファンファーレで讃えてから劇が始まるのを待つ。しかしそのファンファーレがそういうものだと知らなければその音楽はただの美しい響きとして聴衆に届く。音楽家は作品をパトロンのために書く、しかし音楽はそれ自体として聴衆に受け取られる。ここにパトロンと芸術家の、そして私たち聴衆との関係が象徴的に示されている、とも言えるだろうか。
それは別に昔話と言うわけでもない。もう少し歴史を見ていくと、たとえば20世紀初頭にはポリニャック夫人という大パトロンがいる。今では「ポリニャック夫人」と言ったら「ベルサイユのばら」、そしてそこから「のだめカンタービレ」へと連想がつながる人のほうが多いかと思うが(偏見で申し訳ない)、当然ながらこの場合は別の人を指す(もちろんフランス革命前後の実在の人物でもない)。
エドモン・ド・ポリニャック公爵(1834-1901)に嫁いだウィナレッタ・シンガー、と名前をあげてもその人を知る人は音楽ファンでもそう多くないかもしれない。しかし彼女の功績には間違いなく触れていることだろう、なにせ20世紀初頭の数多くのフランス音楽が彼女の支援あって生まれた。シンガーミシンの創業者の娘に生まれポリニャック伯爵に嫁いだ彼女は、ストラヴィンスキーやプーランク他多くの作曲家を支援した、いわば20世紀はじめのフランス音楽界の生みの親のひとり、なのだ。
そんなポリニャック夫人にも比せられるだろう、チェスキーナ洋子氏が今年の1月10日に亡くなった際、世界中の音楽界からその死を悼む声が聞かれた。彼女を知らなければおおげさな言い方に聞こえるだろう、しかしその活動を知れば納得していただけることと思う。
東京交響楽団のハーピストとして活動した後留学したイタリアで大富豪に見初められて、という彼女の生涯は自伝「ヴェネツィア 私のシンデレラ物語」に詳しい。そんな彼女の支援によって実現した公演の中でも、ロリン・マゼールがニューヨーク・フィルハーモニックと平壌で開催したコンサートは世界の耳目を集めた。近年故障から復帰したマキシム・ヴェンゲーロフには現在使用しているストラディヴァリウスのヴァイオリンをプレゼントした。別府アルゲリッチ音楽祭やベネズエラのシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ来日公演を支援した、長年アラン・ギルバートの活動を支援している。これらはあくまでも一例に過ぎないのだ、ポリニャック夫人になぞらえたこともご納得いただけるのではないだろうか。
そんな彼女が特に支援していた音楽家がワレリー・ゲルギエフだ。ソヴィエトの崩壊の混乱を乗り越えて世界で活躍するようになった彼とマリインスキー劇場(旧称キーロフ・オペラ)にどれほどの困難があったか、それは想像すら及ばない。その彼らが現在の世界的地位に至るまで支援を続けたのが彼女なのだ。
ゲルギエフは永江洋子の古巣、東京交響楽団に彼女の支援もあって2007年に客演し、そして2012年には東日本大震災復興への支援のため再度客演、復興音楽祭を成功させている。彼女の逝去を受けて、その死を悼む演奏会が彼らによって5日に開催される。前半は彼女ゆかりの方々からの追悼の言葉が語られ、そして後半にはゲルギエフがもっとも得意とするチャイコフスキーの交響曲第六番「悲愴」が献奏される。ゲルギエフ&東響のチャイコフスキーを聴いて、我々がそれとは意識していなかった、しかし間違いなく彼女が作ってくれた、数多くの「音楽の捧げ物」への想いをめぐらすのは如何だろうか。