新国立劇場・新シーズンのオープニングで、カミュの不条理劇『誤解』に挑む演出家・稲葉賀恵に直撃インタビュー
稲葉賀恵 (撮影:荒川潤)
小川絵梨子芸術監督シーズンがいよいよスタートする新国立劇場。オープニングを飾るのは稲葉賀恵演出、アルベール・カミュ作『誤解』だ。太陽と海に囲まれた国での生活を夢見て、自分の経営するホテルの宿泊客を殺して物品を奪っているマルタ(小島聖)とその母(原田美枝子)。だが、二人の前に、秘密を抱えた男性客(水橋研二)がやって来て……。作品を手がける若き演出家、稲葉に存分に語ってもらった。
■「やったー!という感じでした」
――カミュの『誤解』を取り上げようと思ったきっかけは?
新国立劇場で演出を担当するにあたり、芸術監督の小川絵梨子さんから作品を何本かご提案頂いた上で、自分のやってみたいものも提案してみてというお話があり、4、5年前に読んでいつかどこかで演出できたらと思っていた『誤解』を提案しました。小川さんがご提案くださった作品も総じて家族や故郷の話で、私がやりたいテーマと非常に共通しているなと。『誤解』をやりたいと言ったら、小川さんが、経験がまだ浅いときにこういう難しい題材をやってみるのもいいんじゃないかと背中を押してくださったんです。
――小川さんとのそもそもの交流は?
それが妙な縁で。新国立劇場での演出を依頼されたときには、ときどき顔を合わせるくらいで特に面識がなかったんです。ただ、私は小川さんの芝居がすごく好きだったんですね。最初に観たのはtptの『プライド』(作:アレクシ・ケイ・キャンベル)で、作品選びに非常にこだわりのある方だなという印象を受けました。一番ひかれたのはシアター風姿花伝で上演されたハロルド・ピンターの『帰郷―The Homecoming―』ですね。役者さんたちが非常に楽に自由に動いている感じがあって、いったいどういう稽古をしているんだろうと、とても興味が沸いたんです。
それで、小川さんの稽古場にどうにか潜入したいと思っていたところ、ちょうどシアター風姿花伝の支配人をされている女優の那須佐代子さんから、「今度うちの劇場で小川さんの演出で『ビューティ・クイーン・オブ・リナーン』をやる」と聞いたので、演出部に入らせてほしいと直談判しました。ただ、それは、小川さんの知らないところで決まっていた話だったんですね。その後、小川さんと初めてお会いする機会があり、新国立劇場での演出依頼の話をいただいたのですが、そこで「実は今度演出部で入ることになりました」と言ったら、小川さんもびっくりされていました(笑)。
――演出依頼があったときはどんなお気持ちでしたか。
やったー!という感じでした(笑)。すごくうれしかったし、ちょっとびっくりもしました。私はあまり経験値がないし、稽古が始まってからは、もうそんなに気負ってはないんですが、私の『誤解』の後、寺十吾さん演出の『誰もいない国』、小川さん演出の『スカイライト』に続くという話を聞いて、私がそこに名を連ねていいのかな、私「どこの馬の骨?」みたいになっていませんかって、何回か小川さんに確認したくらいで。小川さんからは、文学座アトリエで上演した『十字軍』『野鴨』を観ておもしろいと思ったことが依頼のきっかけだった、と言われました。ものすごく励みになったのは、「別に名前やキャリアではなくて、この人だったらおもしろいものを作ってくれると私が信じて選んだから、純粋に気負わずやってほしい」と言ってくださったことで、「はい!」と。顔合わせのときは吐くほど緊張しましたが(笑)、新国立劇場の皆さんが作ってくださる雰囲気もすごくあたたかくて、今もあまり気負わずにやれていると自分では思っています。
――小川さんの稽古場に入ってみて、いかがでしたか。
すごく影響されましたね。だからといって自分がそれをやろうとすると違ってしまうとも思うんですけれども。出演した俳優さんもよくおっしゃっているんですけれども、小川さんは俳優の生理にものすごく寄り添う演出をされるんです。俳優が、ここでこういう言葉を求めていたり、ここでこういう不安が出てきたというときに、ピンポイントで、わかっていたかのようにそこに寄り添うというのが、すごいと思って。役者側がやりたいということをどう伸ばすか、そんな感じなんです。だから役者がものすごく生き生きとしていて。いい意味でのんびりしているというか。稽古場って、いい意味でも悪い意味でもどこか緊張感があったりするものですけれども、いい緊張感があって、逆にいい意味でちょっとほんわかしているというか、芝居をしているときと、していないときの境目があまりない感じで、それはすごくびっくりしましたし、現場に通っていて、とてもおもしろかったですね。
■「カミュはものすごく余白があるんです」
――『誤解』という作品にひかれた理由は?
大学時代は映画作りをしていて、演劇のことを一切知らないまま文学座に入ってしまった劣等生だったんですけれども(笑)、映画に関わっていたころから、私は自分の死生観というものにものすごく執着がありました。生きている側の人間には気づかないことが、多分死んでからわかるんだろうなと思うことがいっぱいあるんですね。『誤解』でも、生きている人たちが気づいていないことがいっぱいある。一番近い存在だと思っていた家族同士でもわかりあえていないとか、逆に他人の方がわかろうとしていたりとか、とにかく気づかないものが多くて、死んだ人から生きた人たちを見ると、こうすればいいのにと全部気づくというところがあって。半径一メートル以内にいる家族ということだけではなくて、地球を宇宙から見たときのような視点をもっている作品の方が好きなんですよね。リアリズムでやるのもおもしろいんですけれども、どこかで宇宙みたいなところに飛んじゃうみたいな、芝居を見ている方たちがその死んでいる側の人間として舞台上の生きている人間を見ているみたいな、そんな目線で語れる作品がとても好きというのはずっと変わらなくて。『誤解』もそういった側面が非常に強いから選んだんだと思います。
――そういった死生観に気づいたきっかけや、影響を与えられたものとは?
とはいえ、身近な人の死に直面したのは本当に遅くて。演出デビュー作の直前に祖父を亡くしているんですけれども、二階からお棺がある一階まで、祖父の遺体を運ぶ必要があったんですね。そのときに、すごく悲しいんだけれども、遺体がすごく重くて、かつ、口がパカパカ開いちゃったりして、とにかくその様子に、みんなで泣きながら笑っちゃったんですね。そのとき、死ぬってどこにあるんだろうと思ったんです。でも、その前までにも、今私がこうして見ている世界は私が作っているだけの世界で、自分の視線に入るものとは自分の中で思っているだけの世界にすぎず、どこか別のところに何か別の視線があるんじゃないかということに、特にきっかけはないんですけれども、物心ついたときから不安になっていましたね。お風呂に入っていたときに、水をこう見ていて、私の力が及ばない何か、私がどうしようもできないものがあって、その中で生きているんだけれども、でも、人間って生きていると、何か、どうにかしようとしちゃう、人のことにしても何か支配しようとしたりしてしまう、そういう考えが具体的になったのが、祖父が亡くなったときのその出来事なんです。死ってどこにあるんだろうとすごく考えた。祖父の遺体を前に泣いているときって、まだ死んでいるって思ってないんですよね。これは死体なだけで、どこかに祖父がいるんじゃないかとか。自分の中にまだ思い出とか匂いとかが残っているから、まだいるんじゃないかって思うんだけれども、やっぱりものの半年か一年で匂いなんて忘れるし、忘れた瞬間に死んだんだなと思うっていう感覚。だから死ぬってあまり境目が、何か、生きている側から死んでいるって言っているだけで、死んでいる側から見ていると、境目がどこなのかわからないよなって。そういうことは祖父の死のときに感じましたね。
――私も、死んだ人が今でも生きているんじゃないかなと思うことは多いです。井上ひさしの『父と暮せば』で、死んだ父が幽霊になって娘の前に現れますけれども、もうずっと『父と暮せば』な感じで(笑)。
本当ですか(笑)。でも、演劇をやっているとそう思います。だから、お芝居をやっているのってすごくおもしろい。この人たち、死んでるんじゃないの? と思う人たちが、生きている人たちの前で芝居をしているみたいな気持ちになるというのはすごくあって。21回公演だとすると21回生まれ変わって死にますみたいな、そういうごっこ遊びをしているんじゃないかなという感覚があって、すごく興味深い。演劇をやっていると、死んだ人のことを考えることがすごく多いです。
――『誤解』もそうですが、不条理劇についてはいかがですか。
今、不条理劇をやるということについて言えば、昔ブームだったころと全然とらえ方が違うように思っていて。今って、自分の手に及ばない、どうしようもしがたい世界があって、そこでは人間はどうしようもなく太刀打ちできない状態というものが、すでにわかってしまっていると思うんですね。不条理劇が現れたころは、そのこと自体が衝撃だったというか、それまではどうにかできるかもしれない、神がいるかもしれないという状態だったのが、第一次世界大戦を皮切りに諍いを経験して変わったということだと思うんですね。経験していたら不条理ってすごくよくわかると思うんですけれども、戦争があれだけ頻発しているときに、自分が生活している範囲と世界とがまったくどうにもつながらない、どうしようもない力が及んで私にはどうしようもないという絶望のような状況があったと思うんです。今の私が不条理というものをとらえるとしたら、逆に、どうしようもない、しょうがない、つらいという状態から、どう発酵するか、その先にもっていきたいなと。不条理劇ってどうしても突き放すところで終わるんですけれども、突き放されてもお客さんがええっ? と絶望で終わってしまう。でも、どこかでカミュが書いていたのが、『誤解』は別に絶望の芝居ではなくて、そこから学ぼうとする人たちの芝居だから、不条理というものに人間がどう立ち向かうかという芝居だからと。単なる不条理でも、俳優がそれをどうにかできるんじゃないか、舞台があったら、舞台の地面をはがしていくというか、こんな舞台は違うんだって、変えて行こうとするエネルギーのあるところが、カミュのこの作品は私の中では救いで、だから今この作品をやりたいと思ったんですね。
もう一つは、今、白か黒かとか、是か非かとか、賛成と反対があったらそのどちらかを切り捨てるというか、そのどちらかにつかなくちゃいけないみたいな、どちらかについた瞬間その答えしかなくなるみたいなところが、私はすごく怖くて。『誤解』でも、絶望しているから人を殺すということではなく、マルタ(母親と共にホテルを経営する女性主人公)の中では自分は別に悪人になりたいと思ってはいなくて、自分は善人だと思っているんだけれども、そこがひっくりかえることだってあるし、彼女の中でそれが悪いことだと認識していないということだってあると思うんです。そのことをカミュがずっと言っている気がするというか、いい、悪いっていう問題だけでは物事は測れなくて、まずある状況があり、そこにおかれた上で人間がどう判断したのかということを見ないと、どちらかにつくということはできない。それがすごくタイムリーだなと思ったんですよね。殺人を犯している、罪を犯しているということに対して、マルタの意識はどう働いているのかとか。それをお客様が観たときに、いい悪いで判断するのではなくて、もしかしたらどこかで、あ、彼女にとっては正当なのかもしれないと思えたとき、ネガティブなチョイスではなくポジティブなチョイスとしてとらえられたときに、価値観がけっこうひっくりかえるというか。今回の舞台でそういうところまで行けたんだったら、それはけっこう大きいことじゃないかなと思うんですよね。
――ギリシャ悲劇的な世界を感じさせる作品でもあります。
そうだと思います。そこがおもしろくて。翻訳の岩切正一郎さんと何度も打ち合わせを重ねたんですけれども、カミュの書き方が途中で変わっていって、静かな演劇を書いている人と、ギリシャ悲劇を書いている人が、二人同時にいる、あるいは共作しているみたいな感じなんですよね。最初の方の会話は本当に日常会話で、それが三幕になってくると詩、叙事詩のようになってしまうんですよね。だからそこはもう全然次元が変わってもいいという話をしました。舞台上、役者の身一つだけで行なわれているという状態で、何に頼るわけでもない、それは役者が一番大変だと思うんですけれども、彼女がしゃべるということだけで物語が紡がれていくということになってもいいと思っています。最後に使用人が出てくるのも、“デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)”という感じで、神様が出てきて、ここで助けましょうとなる、そういう、ものすごく卑怯な手を使うギリシャ悲劇ってあるじゃないですか(笑)。それでいきなり救われるみたいな。でもそういうことではないというのが、おしゃれだなと思って。カミュはギリシャ悲劇のことを考えているんですけれども、そこで救うということはしないんだなと。
――しかもそのとき救いを求めている女性の名前が“マリア”ですから、キリスト教についても考えざるを得ないですよね。
そうなんですよね。マリアに対して石になれ、神様はいないというのが、すごいですよね。聖書の言葉もいろいろと引用されている作品だし。
――日本人はそのあたり、あまり明るくないという事情もあります。神という絶対的なものをどう考えるのか。
神様がいるかいないかって、翻訳劇をやっているときに絶対出てくる話ですよね。神様の話でおもしろいなと思うのが、日本の舞台は、舞台が上で客席の方が下になっているのは、役者が神様に祈る、神頼みするときの表情がその方が見えるからなんだと。でも、ヨーロッパの劇場だと、すりばち型になっていて舞台が客席より下の方にあるじゃないですか。あれは、神様は上にいるから、上に向かって祈る顔を見せるためにそうなっているんだという話を聞いて、神様の位置が違うんだなと。日本は神頼み、一人の神じゃなくて、八百万の神々の中で誰かにという感じなんですよね。神様同士がケンカしたりもしているし、じゃあこっちの神様に頼もうかなって、フレキシブルでいい加減なところがある(笑)。一人の神に焦点を当てていないというイメージがある日本人にとってはわかりにくいなって、翻訳劇でいつもぶち当たるんですけれども、このごろはもう、この座組での神様を作ればいいじゃないかくらいに思っていて。ただ一人の神に見捨てられたり切り捨てられたりしたらもうおしまいだという感覚が、わかろうとしてもわかりあえないからこそおもしろいんだろうなって、今は思ってます。
――そして『誤解』は家族の物語でもあります。
多分、血がつながっていくということがすごく気になっているんだと思うんですよね。イプセンの『野鴨』をやったときに、自分はそこにこだわっているんだなとわかったということがあって。巡っていくということだと思うんですけれども、例えば『誤解』で言ったら、マルタがこうなってしまったのはお母さんの血があって、じゃあお母さんの上には誰がいたのかという話があって、マルタができあがる上では彼女一人だけの問題ではない。しかも、この先、子供が生まれるかどうかわからないけれども、もしかしたら負の遺産を作っていくかもしれない、いい遺産を作っていくかもしれない。だから、私たちは私たちのために生きているのではなくて、百年後、二百年後のために生きているかもしれないということを考えざるを得ないのが血のつながりという気がしていて。私も、母親のいやだなと思うところを自分が受け継いでいたりすると、嫌悪感をすごく感じるんですけれども、こればっかりはしょうがないことだということで言うと、死んでも家族だし、離れられない。けっこうみんなそうなんじゃないかなと。だから、舞台で家族を一家族描くだけで、戦争をテーマにしている作品よりも、争っていることの意味だったりがもっとわかったりするんじゃないかなと。そういうものがもっとシンプルにわかったりするから、一つの家族みたいなものにこだわって作っていきたいと思うんだと思います。
――さまざまなテーマがつまった作品ということですね。
いい意味でけっこういい加減なところが、すごく寓話的でいいなと思いました。いろいろ調べたんですが、カミュが、いい意味でいい加減に書いているだろうと思うところがけっこうあって。この戦争があったからこういう状況があってこのように苛まれたのであるみたいなことではなくて、自分のお母さんがこうだったとか、お母さんに愛されたかったとかカミュがものすごく私的なところを盛り込んで書いている。だから、いい意味でファンタジーだなと。もうわからないからこそ、寓話として飛んじゃったほうがいいという気がしていて。それも、普通の家族劇とはちょっと様相が違う感じがして。イプセンなんかはものすごく自分の筆力を、俺こんなに書けるんだぜみたいな感じで出してくるんですよ(笑)。もうわかった、説明はいいからって思うくらいものすごく緻密に書いてくる。でも、カミュはいい意味で余白があるんですよね。だからそれを現場で、自分たちでおもしろいように考えればいいんだ、と。私も含めて全員で考えられるような、自分たちでおもしろくなれるような余白がある感じがしますね。
■「この戯曲を読んだとき、私、笑っちゃったんです」
――お稽古はいかが進行中ですか。
小林勝也さんは一回、深谷美歩さんは二回ご一緒したことがありますが、それ以外の方は皆さん初めましてで。稽古ってけっこう過酷だなと思うのが、初めましてから共通言語をもつまでに一カ月しかない。普通に会って友達になるまでに一カ月しかないと考えると、けっこう大変じゃないですか。おもしろいんですけど、いい意味で、本当に苦しいことをしているなと。今日から毎日会いますと言って毎日会って、どうにか作りましょうということになって、公演が終わったらもう一生会わないかもしれないみたいな。でも、だからこそおもしろいんですけれども。今は役者さんと私とでお互いのことを「どういう人なんだろう?」と考えながら戯曲を読んでいる状態なんですが、ありがたいのは、年上の方々、原田美枝子さんや勝也さんが、対等な立場でものすごく意見を言ってくださっていて。稽古場においてはやはりフェアでありたいなと思うので、そのことに対してすごく感謝していますね。すんなりとフラットに話してくださることが、みんなで一緒にいいものを作る環境にしてくれている感じがして、ほっとしました(笑)。とても心強いなと思っています。
――どのような演出を考えていらっしゃいますか。
これはけっこう挑戦なんですけれども、舞台上から極力何もなくそうと思っています。でも、それを役者さんに言ったら、「ええーっ」という感じだったんですけれども(笑)。私もこんなに、シンプルすぎるほどシンプルにやるのは初めてなんですが、でも、役者さんが見えてくる作品にしたいなと思ったときに、大変だとは思うけれども、何かその覚悟を私がまず背負って、大丈夫だとみんなで行けるようにしたいなと。あとは、どうしても悲劇に寄っていってしまうんですけれども、最初にこの戯曲を読んだとき、私、笑っちゃったんですね。だから、喜劇でありたいなと思っているというところもあって。男性客であるジャンが自分の正体をどれだけ言わないんだというところでも笑っちゃったし。あとは、最初のお母さんと娘の関係性にしても、多分、犯罪という行為によって母と娘であることを確かめているんだな、と。それ以外の生活のときって何もしゃべることがないんだけど、殺すとなったときに、母と娘の関係に初めてなるというか、ちょっと嬉々としている感じとかもおかしいんです。すれ違っていくところの会話も、ものすごくむずがゆくて、傍から見ているとこれは悲劇じゃないよなと。ものの15分くらいでネタばらししている作品ですけど、その15分から先がどうかということが問題になってくるんですよね。基本的に、絶望的な人間を見るのっておもしろいんですよね、傍から見ると。
――ありますね。この今の自分の状況、もし傍から見ている人がいたら笑えるだろうなと思うことって。
本当に悲惨なことが起きたときって笑っちゃうというか。基本的に悲劇が好きなのって、そういうことなんだろうなって。張本人はすごく大変だと思うんですけれども。後ろ、後ろにいるから気づいて! みたいな。ドリフみたいになっていくというか(笑)。
――そこに気づいたら絶望ではなくなるのに、気づいていないから絶望ということもあるかもしれないですね。
そうですよね。あと、悲劇がおもしろいなと思うのは、愛し合っている人たちが愛を語っているのを見るよりも、憎しみ合っている人たちがあいつが憎いと互いに言っているときの方が、百倍愛情を感じるときがあるというか。引き裂かれている人間のエネルギーの方が、愛し合っている人間のエネルギーより絶対強いというのは、何か確信しているところで。だから戦争を描くんだと思うんですよね。戦争が悲惨だということを描きたいわけじゃなくて、愛を描きたいんだろうなと思うときに、結ばれる者を描くのか、引き裂かれる者を描くのかって、作家によって違うと思うんですけれども、カミュの場合は引き裂かれている方を描いていて、エネルギーが強くてそれがものすごい原動力になっているというか、それそのものは憎しみというネガティブな原動力のようで、こちらから見ているとそれほど愛していたということにも聞こえる、そこにひかれるんだろうなと思います。……いつも「暗いね」って言われるんです、扱う作品が(笑)。別に暗い作品を選ぼうとして選んでいるわけじゃないんですけど。
――お話ししていると全然そんなことはなくて、むしろ明るい方だなと感じます。
よかったです(笑)。何か、すごくネガティブな人に思われたらいやだなと。
――むしろ、超ポジティブな気が。
そうなんですよね。自分でも、めんどくさいな、こじらせてるなとは思いますけれども(笑)。自分は至ってものすごくポジティブにこの作品を選んでいるんですけれども、暗くて難解な作品をまた選んでいるみたいに思われる。全然難解じゃないのに(笑)。
――いやですね、物を考えていることを、暗いことと混同されると。
何かそうやってカテゴライズされることって怖いなと思いますね。でも、小川さんも、これを読んだときに、悲劇じゃなくて喜劇だと思ったという話をしていて、盛り上がりました。小川さんから提示されたメインビジュアルがすごくおもしろい、いいメインビジュアルで、これを見て暗いと思う人はいないだろうなと。
――サミュエル・ベケットが『ゴドーを待ちながら』を“二幕の悲喜劇”としていることを連想しました。
そうなんですよね。どうしても暗い方に行くとは思うんですけれども、お母さんと娘の最初のやりとりなんかは、日常性みたいなものがおもしろく見えたらいいなと思ってますし。すごく恥ずかしいんですけど、私、原田さんのファンだった時代があって、今も、あ、原田さんがいるって思ったりするんですよね。仕事ではそんなこと滅多に考えないんですけど(笑)。『愛を乞うひと』という映画で、愛し方を知らない母親と、彼女に育てられた娘の二役を演じていて、中学生のときに観たんですけど、同じ人だと思えなくて。二面性をもっている人、二面性を演じられる人にこの『誤解』のお母さん役を演じてほしいなと思って。今回、キャストの方々がみんな好きな方々ばかりなんです。難しい作品ですけれども、自分はもちろん、お互い責任と覚悟をもって、この船に乗ってくれている。キャストの方が全員、発想がすごくおもしろいというか、いい意味で狂っているところがあって。そのように行ってみましょうとなったらその思い切りがものすごくいい方ばかりで、勇気をもらえます。おもしろいのはもちろんのこと、大胆な作品になるといいなと思っています。
取材・文=藤本真由(舞台評論家) 写真撮影=荒川潤
公演情報
『誤解』
■会場:新国立劇場 小劇場
■日程:2018年10月4日(木)~10月21日(日)
■翻訳:岩切正一郎
■演出:稲葉賀恵
■出演:原田美枝子 小島 聖 水橋研二 深谷美歩 小林勝也
■公式サイト:https://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_011666.html
ヨーロッパの田舎の小さなホテルを営むマルタとその母親。今の生活に辟易としているマルタは太陽と海に囲まれた国での生活を夢見て、その資金を手に入れるため、母親と共犯してホテルにやってくる客を殺し、金品を奪っていた。そこに現れる絶好の的である男性客。いつも通り殺人計画を推し進めるマルタと母親だが、しかし、彼には秘密があったのだった......。
新国立シアタートーク(入場無料。ただし満席の場合、制限有)
■日時:10月10日(水) 公演終了後 小劇場
■出演:稲葉賀恵、原田美枝子、小島 聖、小川絵梨子
■司会:中井美穂
■入場方法:本公演の(いずれの日程でも可)をご提示ください。
■問い合わせ:新国立劇場・営業部 TEL.03-5351-3011(代)
10月15日(月)(公演終了後、約1時間)に限定20名様をご案内いたします。
■日程:10月15日(月)(公演終了後、約1時間)
■会場:小劇場
■参加人数:限定20名様
■参加資格:『誤解』公演購入者(イベント参加時公演要提示)
■参加費: 200円(保険料含む)
■申込方法:WEB申込み ※応募者多数の場合は抽選。
■受付期間:9月24日(月)~9月30日(日)
※9/24(月)10:00~、コチラから申込み。
※応募者多数の場合は抽選とし、結果は10月3日(水)以降メールにてお知らせ(メールアドレスの登録が必要)