ノゾエ征爾と長田育恵が語る“三島×MISHIMA”の醍醐味~『豊饒の海』『命売ります』

インタビュー
舞台
2018.11.5
(左から)ノゾエ征爾、長田育恵 (撮影:荒川潤)

(左から)ノゾエ征爾、長田育恵 (撮影:荒川潤)

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この秋、パルコが贈る“三島×MISHIMA”では、三島由紀夫の遺作『豊饒の海』とユーモア小説『命売ります』とが相次いで舞台化され上演される。『命売ります』脚本・演出・出演のノゾエ征爾と、『豊饒の海』脚本の長田育恵、この日初めて顔を合わせた二人が、三島由紀夫について、舞台作りについて語り合った。

■三島の印象

――三島由紀夫はお二人にとってどのような存在でしたか。

長田 集中的に読んだのは大学生時代です。それまでは三島一人に傾倒するということはなく、日本の文学者のうちの一人として考えてきていたのですが、大学生のころは、例えば『金閣寺』でもそうですが、三島の美というものに対する意識の持ち方、その概念やコンセプトに打ちのめされていました。今回のお話をいただき、『豊饒の海』を読み返して、まったくイメージが変わりましたね。コンセプトや概念といった手の届かない部分のすばらしさよりも、人間の心理、今心の中で何が起こっているかということを、誰にでもわかりやすい言葉でイメージ豊かに伝えているところがすごく魅力だと思いました。例えば老いを表現するのに、……夜明けに目が覚めると、自分の骨を蝕む白アリの羽音を聞き分けられるようになった……なんて言葉が出てくるんです。その感覚って、本当にはないことだけれども、それを言われると、何となく、老いるということがイメージ豊かに全員に認識が湧く、そうやってある一つのことをわかりやすく伝えるために、イメージをどんどん手繰り寄せながらより豊かな形で表現していることがすごいなと思って。逆にその、身近な部分の方にすごみを感じるようになりました。

ノゾエ (笑)いやあ、まずい!と今、思いました。そんなに語れないぞと(苦笑)。僕、三島作品を読破したことがなかったんです。いくつか読んでみたものの、何か、とっつきづらくて、よくわからなくなってしまい。試食しただけで、中に入っていけなかったというか。もともと本を読むとき、すぐ脱線しちゃう方なんですけれど、その中でも、とりわけ脱線させられまくったという記憶があって。今回『命売ります』で初めて三島作品を読破し、お仕事だからということではなく、普通に自然とサクッと最後まで読めましたね。文学寄りというよりは、すごくエンターテインメントの本だなと思いました。これも三島さんなんだという印象がありました。瞬間的にすごくきれいな文体とか出てくるんですけれども、何か、ポップというかパンクというか。しかもこれが、かなり晩年の方に書かれたと知ると、より不思議な気持ちになったというか。『命売ります』と言った二年後に何か、そんなこと(割腹自殺)が、ねえ。にしてはこの作品はあまり陰なものがないというか、もしかしたら、内面はそうだったのかもしれないけれども、それが、逆の形で表出されているというか、そんな印象を受けましたかね。

――そんな三島作品に今回お仕事で関わることになり、最初に思ったこととは?

ノゾエ さっき言った言葉と同じ、まずい!と思いました(笑)。僕知らないっす、いいんでしょうか、という気持ちがあって。だけど知らなかったが故っていうか、相容れられなかったが故のおもしろさっていうか、そういう興味は湧きましたね。多分、最初は、反発から始まるんだろうな、みたいな。と思ったら意外とおもしろかったんですが。

長田 私はまず、三島作品だからというよりは、物理的に、四部作である『豊饒の海』を一本にして上演する、その作品の大きさにたじろいだというのが一番大きかったですね。四夜でやるんですか、みたいな(笑)。一冊に圧倒的なボリュームがあって、それが四冊ある。それを一夜の、しかも、オムニバスではなく、一本の話に仕立てて上演するということが、もう、物理的にどうするんだろうという思いが。だから最初は驚きだったり、とまどいだったり、単純に自分の実力としてそんなことができるのかというところが強かったですね。ただ、そんな体力と気力が必要な仕事って今しかできないかもしれないと思って(笑)。

ノゾエ (笑)

長田 あとは、これまで自分がやってきた仕事のちょっと集大成のようにも思えたというか。どちらかというと文学者の評伝を書くことを自分の劇団(てがみ座)で好んでやってきたことも多かったし、文学作品、文章に独特の匂いがあるものをどう立ち上げるかということを過去に何本かやらせていただいてきていたので、いろいろな経験が、この作品を書くために必要だったんだろうなと思える種類のお話だったから、やってみようと思ったというのが強かったですね。

――三島由紀夫に、人物としてはどんなイメージがありましたか。

ノゾエ 三島さんって何か、「昭和」という漢字二文字が妙にしっくりはまるようなイメージがある。それを置き換えるとどういう言葉になるのか、難しいところなんですけれども。「硬派」って言っちゃっても何だか安易だなという気がするし。「昭和」、ですよね(笑)。

長田 私、大田区の馬込という、昔文士村があった地域の出身なんですね。それで、家の近所に三島さんの家があって。

――篠山紀信が写真集『三島由紀夫の家』におさめた、あのすごい家ですね。

長田 あの家と“自殺”という言葉が、学生のころ、思春期のころはまったくうまく結びつかなかったんですね。“自殺”っていうのも何か、ポーズというか、メッセージ性が強いというか、アクションとしてそれを選んだ感じがしていて。だから、文学者っていうよりも、今で言うと、存在それ自体がエンターテイナーであろうとしたのかなという感じで見えていたんですよね。だけど何だか今回、『豊饒の海』と向き合って変わったのは、この作品の場合、死について、命の一つの状態としてとらえていて、だから死が決して終わりではないんですよね。三島があの死に方をしなければ、三島作品はこれほどの力をおそらく持たなかっただろうなと思うし、昭和という時代を考える上で、あの死は必ず一つのアイコンとして浮かび上がってきますよね。あの死以前、あの死以降みたいな感じで。後世への影響の与え方が絶対違っていたと思うんですよ。だから三島は、もしかしたらあの死があったからこそ、今の三島になれたという可能性もあって。死によって命を延ばした可能性もある。死を選べたということは三島のすごさだと思うんですけれども、単純にその死は悲観であるとか、何かのエンドマークとしての死ではなくて、もう一つの欲望であるとか野望の始まりとしての死だったんだなと思って。それでまた一つ、ちょっとすごい人だなというのを改めて思いましたね。文学者というカテゴリーにまったくおさまっていない人だったんだなと感じています。

そういう意味では、総合芸術家みたいなものだったんじゃないですかね。文章だけでは足りなかったんじゃないかな。マッチョな肉体を作り上げるというのも、今の私たちから見ると、あのマッチョさって、自分の弱さを覆い隠すための、却って弱さを際立たせるものに見えてしまったりもするけれども、多分、そのときの日本という状況の中で、そういうアイコン的に自分を作り上げていくことが必要だったのかもしれないし。だから、文学者とか小説家ではなくて、総合芸術家であろうとしたんじゃないかと。

■三島小説をいかに戯曲化するか

――今回脚本化にあたってどんなところに苦労されましたか。

長田 膨大な美しい文章で書かれているので、最初のうちはそれに圧倒されて、美術作品を傷つけたらいけないみたいな恐れがまずあったんです。でも演出家(マックス・ウェブスター)がイギリスの方なので、三島という存在にいっさいとらわれず、テキストだけにプレーンに向き合われていたんですね。それで、舞台化にあたってやるべきことは、とにかく登場人物の心情を強く一本通していくこと、舞台上で変化の連続であること、つまり、アクションだったり、モチベーション、動機が起こるのがすべて舞台上であるということ、シンプルに言うと、登場人物を、最初から最後まで、どの瞬間も活かしきる、つきつめるとそれしかない。そうすると、文章の美しさをどうやって感じさせようとか、そういうことは全部よけいなことになってくるんですね。やるべきことはプレーンでシンプルで、だからこそ強いということが求められる、そんなテキスト作りの場になっていて。だから、文章上で表れている効果を舞台上で行なうためには、別のアクションだったり、別の何かに置き換えて、似たようなことが舞台で起こるように書き換えていくとか、そういう作業でしたね。

最初にお話をいただいてから、一年以上取り組んできました。プロットを書き、準備稿を書き、それで今年5月にイギリスに行ってマックスと打ち合わせをして、プロットと準備稿はちょっと置いておいて、まず、すべての登場人物の心理を最初から最後まで洗う作業をしようということで取り組んで、あとどうやって組むかは君に任せるよということになり、振出しに戻った……という、けっこう絶望的な思いで帰りの飛行機には乗ってたんですけれども(笑)。そこからまた新しくリスタートしたっていう感じですね。稽古場に入ってからもまだ書き直していて、毎日変わってはいますし。

ノゾエ じゃあ、今(10月9日)もまだ稽古場についてらっしゃるんですね。

長田 全シーンをあたり終わっていないので、それが終わったら一回離れようと思うんですけど。出てきた問題点をその都度クリアにしてということをやっているんですが、日本の演出家と組むのと違って、いっさい、迂回している暇がないんです。自分が書いたテキストが翻訳されて確認をとらなきゃいけないから、どうしてもタイムラグが発生して、その間、俳優を待たせてしまう。だからマックスの方も何が問題なのかをクリアに私に言うようにしていて、私もその問題を割とシンプルにすぐ返すようにしていますね。

問題点を言葉にするのがうまく行かないことって、現場によってはあるじゃないですか。何が問題かわからないけれども、問題があるような気がするということで、探る時間があったりする。でも今回は翻訳を挟むから、そういった時間をとるという遠回りはしていられない。マックスもやはり、イギリスの現場感覚なのか、すべての問題点をすぐクリアにしようとするし、あとは、全員がその方針になっていて、キャストたちも何が問題なのか、今何を感じているのかを明確に言語化してる。日本の現場だと、ふわっとさせておいて、あとでわかってから戻ろうということがあると思うんですよね。ちょっとやっていて、様子を見ようかとか。それが絶対ない。

ノゾエ なるほど。

長田 ちょうど、日本で「様子見ようか」の部分が、翻訳の時間という感じですね。

ノゾエ いやあ、大変だな。

――ノゾエさんは、ふわっとさせる、迂回することってありますか。

長田 ノゾエさんは作・演出を兼ねていらっしゃるから。

ノゾエ そうですね、両方同時にやっているときは、やむを得ず迂回するのではなく、いかに豊かな迂回をするか、みたいな。迂回したくて敢えてするというところはありますよね。

長田 可能性がいろいろ孕まれていたりもしますしね。

ノゾエ 『命売ります』は小説のテンポ自体がすごくよかったので、いかによりそのテンポを維持できるかみたいなのはあったんですけれども、けっこう内面的なセリフ、言葉が多かったりもするので、そういうところは、生きた人間の言葉にする上で苦労したところもありましたね。内面的な言葉をつらつらと舞台上で言ったところで、あまりおもしろくないなというのがあって。でも、小説の中ではそういった部分がおもしろかったりもするので、そこはちょっと苦労したかな。ただ、長田さんが言っていたように、いかにシンプルにできるかっていうところだった気はしますね。けっこう瞬発力で書いた気がします。このホンに限ってはあまりとどまって考えてもよくないかもしれないと思って、書いていったときに、まず止まらない、止まってしまったところは飛ばしていく、みたいな。そんな感じでひとまずざーっと書いてという感じで。初期衝動だとこんな感じです、ということで「ラクガキ稿」を書いたり。

長田 「ラクガキ稿」、おもしろい名前ですね。

――最近読ませていただいたバージョンではそこにさらに仕掛けが入ったりしていましたね。

ノゾエ やっぱり、いかに戯曲にできるか、生きている人間の言葉にできるかというところに尽きてくるんです。けっこう言葉をいじったなとは思っています。テンポよく軽やかな小説なんですけれども、それでいて根っこに強いものがずっとあるので、僕が多少いじったり何かしたところで、彼の何かが穢されるとかそういったことはおそらく起きないだろうという、そういう信頼はありましたかね。割と遠慮なく、三島の言葉と遊ばせてもらったというか。それも、彼の本が豊かだからですよね。奇しくも、同い年なんです、彼が当時書いた歳と、今の僕と。同い年同士でみたいな感じで、お邪魔させてもらってますけれども。

――そして今回、お二人の関わる作品が相次いで上演されることとなりました。

ノゾエ ちらしがね、あまりにもね、テイストが(笑)。

長田 おもしろいなって見てました。

ノゾエ こんなに違う、っていう(笑)。

長田 むしろ、プロデューサー対談https://spice.eplus.jp/articles/199137をおもしろく読ませていただきました。すごい企画を立てるなって。プロデュース集団だからこそできることだなと思って。

ノゾエ 共に三島で、『豊饒の海』の東出昌大さんと『命売ります』の東啓介さん、共に主演に「東」が入っているっていう。

長田 今、パルコ劇場がないから、かわりにいろいろなところで上演されていて、私、『命売ります』をサンシャイン劇場でやるって、とってもおもしろい気がしたんですね。三島作品がサンシャインで! っていう、そのおもしろさ。『豊饒の海』が紀伊國屋サザンシアターっていうのはすごく相性がいい気がして。三島由紀夫が生きていたら、サンシャインで自分の作品が上演されるって考えたことがなかっただろうなと思って。

――もともと巣鴨プリズン(旧・東京拘置所)があった場所ですしね。

ノゾエ (笑)サンシャイン劇場にどういうイメージが?

長田 キャラメルボックスとか。

ノゾエ ああ、そうですよね。

長田 エンタメの牙城という感じ。エンターテインメントといえばサンシャインというイメージですね。紀伊國屋はどっちかというと、文学作品とか、そういう匂いをどこかまとっている感じがするというか。手堅い感じ、でも、サザンシアターだとそこにちょっと現代性が加わる感じで、イメージがすごくしやすかった。『命売ります』のちらしを見て受けたインパクトと同等のものを、サンシャイン劇場で上演すると聞いたときに思いました。それにしても、作・演出と同時に出演もされていて、すごいですよね。

ノゾエ 出るのはちょっとだけですけれどもね。何か逆に、僕的にはバランスとれるというか。一個だと何かちょっと重すぎて、食らいすぎるというか、だからどこかでばらけさせることによってバランスをとれるところがあって、自分は。『豊饒の海』は、ちらしを見ていても、上質、という感じで、何かすごくきれいで、美しさや残酷さといったものを感じますね。それとこの『命売ります』のどこかパンクな感じ、三島さんにある多面性の中のそれぞれの面が、二つの作品に分けられているのかなという印象がありますよね。

■互いの印象

――本日お二人は初顔合わせでいらっしゃいますが、これまでの印象は?

ノゾエ 僕はてがみ座の演出をしている扇田拓也くんとか、てがみ座の石村みかさんと交流があって、舞台を観させていただいたことがあります。感心したというか、すごく丁寧で、僕にはたぶん一生できないかもしれない(笑)くらいの、行き渡っている感じ、そういう印象を受けたのを覚えていますね。感心して、ずっと見ていました。

長田 私は実際には拝見したことがないのですが、岸田國士戯曲賞を受賞された『○○トアル風景』を書籍で読みました。舞台写真が挟まっているから、どんな風になるんだろうと思いながら読みました。昔自分が一番コンプレックスに感じたことは、演出をやらないということだったんですよ。自分で敢えて最初からそういう選択をしたんですけれども。学生のころは、演出もやっていましたが、もともと、小説家になりたいという思いから劇作家になったので。そういう意味で言うと、自分は、どの演出家に上演されるかわからないという大前提でいつもいるから、書いて伝えるしかなく、抜けがあんまりないんです。空気感の抜けが。でも、ノゾエさんの場合、演出も込みでの作品になっているから。

ノゾエ そうですね。

長田 だから、空間に余白とか抜けがたくさんあって、風通しがよく、空気が何かを孕んでいる感じがすごく魅力的です。それって、言葉にできない部分なんですよね。言葉にできない部分が、残されている言葉たちから感じられるようになっていて、それは逆に私には絶対書けない言葉たちだと思い、すごく憧れました。書籍でしか接していないので、どうやって上演されたんだろう……と想像をかきたてられる部分もたくさんあって。私の努力ではここには絶対至れないという、だから、同じ努力じゃだめだなっていう(笑)。

ノゾエ でもね、僕、この対談のずっと最初っから思ってたんですけれども、なんでそんなにちゃんと言葉にできるんだろうという(笑)。僕はたぶん言葉にできない部分をそのまま言葉にしていないだけで、うーん。長田さんの場合、ちゃんとそれを全部言葉に、言葉にできるんだなっていう。だから、始まった瞬間から、まずいと(笑)。すごいです。でもそれは作品を観ていてもすごく思いましたよ。緻密で。

長田 最初はコンプレックスだったんです、それが。言葉にできないことの方がおもしろいことをたくさん孕んでいるし。だけど、向きあっているのが作家なんだからしょうがないというのがまず大前提としてあって。それと、今は、本当にいろいろな演出家と組ませていただく機会があって、今回もこうやって海外の方と組ませていただいていますし。日本でも、憧れだった演出家たち、この人と組みたいと思っていた演出家たちと組む機会を与えていただけているので、そういう意味では、どの演出家と出会って作品が立ち上がっていくか、それによってまったく作品が変わる可能性があるということは、それはチームで作る演劇としては新たな可能性だなと感じています。

あとは、言葉一つとっても、数年前の自分からはまたちょっと変わってきていて。前はもうちょっと戯曲の言葉自体に価値を置いていたように思うんです。数年前、劇団を旗揚げして間もなくのころ、井上ひさしさんに憧れをすごく強くもって、戯曲が文学として感じられているところがありました。でも今は、戯曲の言葉が俳優にとって武器になればいいと思って書いている。その武器を私が用意するんで、どうやって戦いますかという。結局、演劇のテキストは俳優が生き生きとするための材料だと感じているので、そういう意味では、俳優が生きない言葉は舞台の上では何の価値もないと開き直っています。だから、どちらがすばらしい文章ですかということが問われるのではなくて、どちらがよりその俳優を輝かせることができますかということしか問われない。それが、劇団をやりながら、外でこういうプロデュース公演に声をかけていただくようになり、初対面の俳優たちと4、50日過ごして解散していく現場に初めて入るようになってわかるようになったことですね。自分の中ではここ数年で、いろいろなものが刷新されている感じですね。

――三島由紀夫作品には小説も戯曲もありますが、その違いをどう感じられていますか。

長田 戯曲の場合は、観客が問題なんだなと思っていて。結局、その時代の中で書いているし、その時代の観客に向けて書いているというのがあるから、私は、三島は、戯曲の方がペースがスローだと感じるんですね。たぶん、歌舞伎とか見慣れている観客が大前提としてあって、そういった観客に届ける言葉として、戯曲はすごくわかりやすくて、心理とかも行き届いているし、プロットも丁寧に組まれている。小説の飛躍力から比べると、より地に足のついたやり方を選んでいるように感じますね。それは、そのときの観客がそのスピードを求めていたんだろうなと思いますね。今、三島が戯曲を書いたら、全然違うものを書いたはずだと思いますね。

ノゾエ すごいですね、分析(笑)。

長田 ノゾエさんの方のお稽古は?

ノゾエ あと一週間くらいで始まります。いかに稽古場で集まった役者たちの身体でもって引っ張っていけるかというところが大事だなと思っていて。これは脚本と演出の両方一緒にやっているからできることでもあるんですけれども、僕が机の前で一人で書いたものがどんどん裏切られていくといいなと思っています。たぶん、その現場にいる生きた人間たちから生まれるものたちが絶対的に真実だと思うので、現場でどんどん変容していくことを僕は望んでいますね。

――三島の言葉に遊ばせてもらったとさきほどおっしゃっていましたが、その過程を楽しまれているような脚本に受け取れました。

ノゾエ そうですね、楽しかったと思います。遊びやすかったかもしれないですね。まだちょっと、文学的な部分もけっこう残っていたりとか、言葉に頼っている部分がすごくあるので、そこら辺を……もちろん、どこかではこだわるラインというのは絶対必要なんですけれども、そのラインを見誤らないようにしないといけないとは思ってます。もちろんそれによって敬意というものが薄れるということは絶対ないと思っているのですが。やっぱり、小説だった言葉たちを、いかに立体的な言葉にしていけるかに尽きると思いますね。でもホントわかんないです。稽古に入ってみないと。だいたい、ホン書いて稽古に入ったときに、ああ、しょせんやっぱり一人で机の前に向かって書いたものに過ぎなかったというのはよくぶち当たるんですよ。僕が一人で考えていることなんて、ちっちゃいんだなあとかって突きつけられるのが、まあ、いつもけっこう楽しいんですけどね。

■稽古場から生まれるもの

――『豊饒の海』の稽古の方はいかが進行中ですか。

長田 立ち稽古が始まって一週目が終わるくらいで、まだ全シーンあたりきれていないのですが、まず、四部の作品を一本にするので、たくさんシーンがあるし、時間も流れていく、だから舞台はすごく抽象空間になるということは予想されています。その中で、どういう風にそのシーンに真実味をもたせていくかというと、そこに出てくる登場人物の関係性に真実味があるかどうかでしかない、だからすごくプレーンなことをやっているんじゃないかと思います。小道具にも頼らない、美術にも頼らない、保証するのは何かといったら登場人物だけです。場面も変わるし時間も流れるし、しかも四本分の話がオムニバスではなくて、どの作品のどの場面が来るかわからず展開するから。だからマックスは徹底的に、今向かい合ってやりとりしている登場人物に対して、お互いに何を抱いているかとか、この関係性の中に何があるかクリアにしていくということをずっとやっているように思いますね。

――取材でうかがったのですが、主演の東出さんは三島由紀夫が非常にお好きだとかhttps://spice.eplus.jp/articles/207268

長田 そうなんです。東出さんとは3年前に、初舞台だった『夜想曲集』でもご一緒しているんですが、そのときに比べると座長としての存在感がものすごくビルドアップされています。若手の俳優たちの先頭に立って、この作品を導く道を自ら示そうとされていますし、やはり三島作品に携わるということ、しかも、松枝清顕という有名な登場人物の役をやるということに対しての覚悟をすでに固め終わっていらっしゃる。稽古時間以外でも、長時間、この役に向かい続けていらっしゃることがわかります。それがあるからチームの全員が安心して向かっていけるんじゃないかなと思います。

ノゾエ ステージングで小野寺修二さんが入っていらっしゃいますが、ステージングと演出のバランスってどうなっているんですか。

長田 演出はマックスが全部やって、小野寺さんに依頼するシーンは個別にお願いするという感じで。今はパーツパーツを作っている作業中なので、今後はシーンのつなぎや転換に小野寺さんのステージングが入ってくるんじゃないかな。

ノゾエ じゃあそこはもうはっきり分かれてるんですね。

長田 そうですね。今はとにかく一つずつのシーンをまずは最初から立ち稽古してみようということで。通してみるのはパーツパーツをあたり終わってからですね。

ノゾエ いつまで書き直されるんですか。

長田 実は、今も執筆しなければならないホンを抱えていまして…(苦笑)。

ノゾエ なるほど(笑)。

長田 でも全シーンあたり終わるまでは脚本がまだ動いているので、ブラッシュアップが求められる限り、稽古場にいなくてはなと。

ノゾエ 普段も割と、稽古場にいて、様子を見て、修正する感じなんですか。

長田 そうですね、普段は立ち稽古一週目あたりまでは稽古場にいて、二、三週目あたりから抜けて、通し稽古あたりで帰ってくるみたいな。演出家もずっと劇作家に張り付かれているとやりづらいかなって。

ノゾエ まあ、そうですね。それで、演出家から要望があるときもあれば、劇作家のほうで判断するときも。

長田 両方ですね。演出家からの要望もあるし、何が問題かということを、稽古場で見ていて、自分でも共有できているんで、こうしたらどうでしょうという提案をすることもあるし、俳優たちの方からもっとこういう風にしてみたいというのがあったら、じゃあこうしてみるのはどうですかとその場で変えたり。

ノゾエ 脚本を提供されるとき、演出家に対して、言葉を多少いじってもいいですよとかはあるんですか。

長田 それはやっぱり、稽古場で生まれることが一番いいと思っているんで。

ノゾエ じゃあ、語尾とか変わっても?

長田 普通に見ていて、語尾が変わるとかそういうのは全然。こっちの方で俳優に合わせて拾っていくこともありますし。ただ、ここはどうしても崩さない方がいいよというところだけは言ったり。あとは、どこかへ向かうためのプロセスの可能性があったりするから、そこら辺の行方を見ていたりはします。結局、一回崩してはみたものの、元のセリフに戻ってきたりすることもあったりするので、それはもうやっぱり現場で臨機応変という感じですかね。だから、そういう意味では、丸投げということはあんまりしないです。自分も現場にいつつ、何が最善か、その場で一緒にやっていくという感じですかね。やっぱりセリフって武器だという考え方でいるから、一度その武器を作っても、武器のメンテナンスは必要で、この武器をもう少し最新のものに変えてくれと言われたらそうするし、状況がこうなるからこういう機能をつけてくれと言われたらそう作りますという感じで。ちょっと職人的な感じかなって。

――長田さんが演出家とそうやって作業されているのを、ノゾエさんはご自分の中で一人でやっていらっしゃるわけですよね。

ノゾエ 作・演出を兼ねるときはそうですね。

長田 アドリブでどんどん楽しいことが起こっていきそうですよね。俳優たちのアイディアの持ち込みはどのくらい受け入れるんですか? 放牧みたいにするんですか。ちらしを見ていると、皆さんアドリブしそうで(笑)。

ノゾエ 雰囲気を見てラインを決めていくということはありますね。

長田 その場でおもしろいものをチョイスする感じ?

ノゾエ 遊び方にも、遊んでいるときの気持ちにもよるというか。

長田 稽古場でおもしろいって受けるものが、本番で何度も繰り返される本当におもしろいものになるかどうかって、どうやって判断するんですか。

ノゾエ 鮮度の問題ですね。それは、勘ですね。今おもしろくても、舞台上に上がっておもしろいかとなるとそうではないよなって思いつつ、でもしばらく、役者はどう判断するかなって見てみたり。ときには、僕がそう思っているだけで実際はそうじゃないかもしれないという場合もあったりして、そういうときは一度役者を信頼してみたり。

長田 稽古が始まると、作家としての自分はいなくなって、演出家だけの自分でテキストに改めて向かい合う感じですか。切り分けられる?

ノゾエ そうですね、脚本書いたノゾエと闘うみたいな感じ、そんなところは少しありますね。

長田 脚本を書いているときは、たぶんこうなるんだろうなと思っていて、稽古場に来たら、それは全然違う、みたいな?

ノゾエ ちっちぇよ、脚本ノゾエちっちぇなあと思います、よく(笑)。

長田 その感覚はすごくわかりますね。演出だけされることもありますけれども、人のホンをやるときと自分のホンをやるとき、どちらがやりやすいですか。

ノゾエ 人のホンはね、シンクロするまで時間がかかるので、そこの難しさはあるんですけれども、逆に、交われたときの喜びはそっちの方が強かったりもして。複雑ですよね。脚本だけを提供するときもありますけれども、そのときは僕はもう逆にノータッチにしていて。

長田 どう変えられてもいいよっていう?

ノゾエ そうですね、やっぱり、現場で生まれるものが一番大事と思うので。

 

取材・文=藤本真由(舞台評論家)
写真=荒川潤

公演情報

2018 PARCO PRODUCE “三島 × MISHIMA”『豊饒の海』
 
■原作:三島由紀夫
■脚本:長田育恵
■演出:マックス・ウェブスター
 
■音楽:アレクサンダー・マクスウィーン
■ステージング:小野寺修二
■美術:松井るみ
■衣裳:宮本宣子
■音響:井上正弘
■照明:佐藤啓
■ヘアメイク:川端富生
■舞台監督:本田和男
■プロデューサー:毛利美咲
■製作:井上肇
■企画製作:株式会社パルコ
 
■出演:
東出昌大 宮沢氷魚 上杉柊平 大鶴佐助 神野三鈴 初音映莉子 大西多摩恵 篠塚勝 宇井晴雄 王下貴司
斉藤悠 田中美甫 首藤康之 笈田ヨシ
 
<東京公演>
■公演日程】
2018年11月3日(土)~5日(月)プレビュー公演
2018年11月7日(水)~12月2日(日)本公演
■会場: 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA
■料金:9,000円 プレビュー料金:6,000円(全席指定税込)
■問合せ】パルコステージ 03−3477−5858 (月~土11:00~19:00/日・祝11:00~15:00)
■公式サイト:http://www.parco-play.com/web/play/houjou/
 
<大阪公演>
■公演日程:2018年12月8日(土)~12月9日(日)
■会場: 森ノ宮ピロティホール

公演情報

2018 PARCO PRODUCE “三島 × MISHIMA”『命売ります』 
 
■原作:三島由紀夫
■脚本・演出:ノゾエ征爾
■美術:深沢襟
■照明:吉本有輝子
■音楽:田中薫
■音響:井上直裕(atSound)
■衣裳:駒井友美子
■ヘアメイク:西川直子

■演出助手:神野真理亜
■舞台監督:榎太郎
■プロデューサー:田中希世子/藤井綾子
■製作:井上肇
■企画製作:株式会社パルコ

■出演:
東啓介 上村海成 馬渕英里何 莉奈 樹里咲穂 家納ジュンコ
市川しんぺー 平田敦子 川上友里 町田水城 ノゾエ征爾 不破万作 温水洋一 

 
■公演日程 :2018年11月24日(土)〜12月9日(日)
■会場 :サンシャイン劇場
■入場料金 :S 席 8,500 円 A 席 7,000 円(全席指定・税込)
■前売開始 :2018 年9月8日(土)
■問合せ :パルコステージ 03-3477-5858(月~土 11:00~19:00 日・祝 11:00~15:00)
■公式サイト:http://www.parco-play.com/web/play/inochi/​

<大阪公演>
■公演日程:2018年12月22日(土)
■会場: 森ノ宮ピロティホール
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