『分島花音の倫敦philosophy』 第八章 倫敦で楽になった「マイノリティな自分」
シンガーソングライター、チェリスト、作詞家、イラストレーターと多彩な才能を持つアーティスト、分島花音。彼女は今ロンドンに居る。ワーキングホリデーを取得して一年半の海外滞在中の分島が英国から今思うこと、感じること、伝えたいことを綴るコラム『分島花音の倫敦philosophy(哲学)』第八回目となる今回は分島花音が倫敦で感じる「日常の楽しさ」の理由について自己解析しますー
ロンドンに来て、いろいろ驚くことや発見がありましたが、特に大きかったのが気持ちの変化でした。
以前のコラムでも「なんてことない日常が楽しい」と書いていましたが、どうしてそう感じるのか、今回はその理由を考えてみました。
一時帰国で日本に帰国していた時、音楽やエンターテイメントの“トレンド”というものを常に意識させられる様な事がありました。どこのお店に入っても同じ音楽が流れていて、まるで世界にはその数曲しか存在しないかの様な気持ちになりました。私の家にはテレビがなく、情報はツイッターかインターネットが主ですが、自ら探しに行っていないのに“トレンド”の情報を至るとこで与えられ、少し気持ちが滅入ることもあったのです。
日本にいると自分がマイノリティ側の人間である事が悪であるかの様な錯覚に陥ってしまう時があります。「こうあらねばならない」というマジョリティ側の無言の圧力をストレスに感じてしまうのです。「自分はどうでもいいや」を許してくれない、常にマジョリティを投げかけ続けられる感覚から、どうやって逃れたらいいのかその術がわかりませんでした。
そしてマジョリティの型にはまれない自分をどんどん否定してしまうのです。その時はこれが「生きづらさ」なのかなとぼんやりと感じていました。
私はテレビの代わりにyoutubeをよく見るのですが、動画と同時にコメント欄も見る事が多いです。大概は動画に対しての感想などですが、その中に「〇〇って思われてそう」「〇〇って思われるのが嫌だからやりたくてもできない」などの意見を結構見かけることに気づきました。
人からどう思われるか。皆さんできれは変な人だとか、嫌な人だと思われたくない筈です。当たり障りなく、目立たず生きていきたい人が多い筈。好印象なら尚良いでしょうし、人の目を気にすることは他人に対しての思いやりなのかもしれません。
以前友人との会話の中で「日本人は、他人に優しくしなさいと教えられる。でもこっちの人(ヨーロッパとか)は自分に優しくしなさいって教えられるんだ。他人を優しくするのは間違いじゃないと思うけど、それは自己犠牲という意味ではないんだ。まず自分を大切にできなければ、他人に優しくする余裕も無くなってしまう。自分を犠牲にしてまで誰かを気遣っていると、意識してなくても相手も同じくらい自己犠牲の上で自分を大切にしてくれるだろうという期待を抱いてしまったりする。その期待に沿っていない結果になった時、裏切られたと思ってしまう。」と言われました。
確かに日本では空気を読んだり相手の考えを察して優先する事が美徳とされています。しかし、相手の気持ちなどエスパーでもない限り読むのはなかなか難しいです。それは相手の気持ちを想像した自分が出した答えにすぎません。
見方を変えれば、自分が嫌われるのが怖いからというエゴにも捉えられます。こうして常に相手の考えや人の目を気にしながら自分の言動に制限をかけて生きるというのは、それを好んでやっている人以外はなかなか大変なのではないでしょうか。しかし自由に、好きに生きようと思っても「誰かにこう思われるかもしれない」という不安をなかなか拭い去る事が出来ずに、結果いつも自分を押し殺したまま生きることになってしまう。それは、とても悲しいことだと感じます。
別の友人との会話では「受けが良さそうだからこのヘアスタイルは変えない。服装も、言動も、常に好感を意識している。こういう服が好かれそうだなと思って着ている。」と話していました。芸能系のお仕事をされているので自分のキャラクターを見た目で作っていくことは大切なことだと思いますが、自分の好き嫌いややりたいやりたくないに関わらず誰かの好感を優先して自分を成形できることに感心しました。
誇りを持って自分を柔軟に相手に合わせる事ができる人も中にはいます。でも、自分の気持ちが伴っていない人が同じ様にすると、自分がした自己犠牲の分、相手への期待をしてしまうかもしれません。もしその相手が思った様な反応をしてくれなかったとき、また苦しい思いをすることになります。自己犠牲は、他人への依存にもつながります。幸福や生きる価値を自分自身ではなく他人に委ねてしまうのは、あまりいいことではありません。
BEACHY HEADにて
私は、やはり自分の表現に嘘はつけません。周りの目より、自分がどうしたいか、どうなりたいか、何が大切かを優先したい人間です。そして、それがすでに自分の中で明確であると感じています。
ロンドンのお店はどこも違う時代、違うジャンル、違うミュージシャンの曲がかかっています。お店の人が好きな曲を、好きな様にかけています。ネイティブの人だけじゃなくアジア人もいればエスニック系の人、ラテン系の人、様々な言語でみんな違った肌の色をしていて、比較しようのないそれぞれの文化が街を作っています。この土地で、私は日本人という時点ですでにマイノリティです。
でもマイノリティな私を誰も気にしない。ロンドンいるほとんどの人は、みんながそれぞれ違っていることを知っているから。自分の意思を大切にしています。でもそれは、他人の気持ちを鑑みない訳ではありません。周りの目を気にする人も、日本の人より少ない印象です。
ロンドンの、“トレンドを押し付けられる感覚がない”こと、“いい意味で他人に興味がない”こと“自己犠牲のプレッシャーがない”ことが、私の気持ちを楽にしている大きな原因なのかもしれません。
自分を大切にすること。忙しい日々の中では難しいことかもしれませんが、重要なことだと感じます。自分を大切にした上で、周りの人も大切にできる様な、そんな気持ちを常に保てたら素敵ですね。
文:分島花音