二兎社『鷗外の怪談』新キャストで再演、作・演出の永井愛に聞く~苦悩する鷗外を通じ、普遍的な人間ドラマを
永井 愛 (撮影:鳩羽風子)
社会的テーマを日常の笑いでくるみ、時代を撃つ劇作家・演出家の永井愛が、主宰する二兎社の創立40周年記念公演に選んだのは『鷗外の怪談』。2021年11月12日(金)~12月5日(日)、東京芸術劇場 シアターウエストにて上演される(全国ツアーもあり)。思想弾圧と言論統制が強まる契機となった1910(明治43)年の「大逆事件」をめぐり、文学者と陸軍軍医総監のはざまに揺れ、家庭内では嫁姑バトルに悩む人間・鷗外を描きだした代表作の一つだ。2014年の初演ではハヤカワ「悲劇喜劇」賞に輝き、本作の成果で永井も文化庁の芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。7年ぶりとなる今回の再演では、鷗外役で主演する松尾貴史をはじめ、キャストを一新。貧困と格差が深刻化する今の社会に、日本人の生き方を問い掛ける。「苦悩する鷗外を通じて、より深く普遍的な人間ドラマを展開したい」と意気込む永井に今の思いをたっぷりと聞いた。
東京・千駄木の団子坂上にある森林太郎(鷗外、松尾貴史)の住まい「観潮楼(かんちょうろう)」が舞台。軍医トップの陸軍軍医総監、陸軍省医務局長に上り詰めた48歳の鷗外は、本格的な文学活動を再開して、嫁姑のいさかいに悩まされる自らの私生活を題材に短編小説「半日」を発表。このことに、18歳下の2度目の妻・しげ(瀬戸さおり)は激怒。「一日」という小説を書いて反撃してやると息巻いているところへ、鷗外の母・峰(木野花)が嫌みを言いに来て、言い合いになる。そこへ、社会主義者の幸徳秋水らが明治天皇暗殺を企てたとする「大逆事件」で、被告人弁護を引き受けた弁護士で文学者の平出修(ひらいで・しゅう、渕野右登)が、社会主義などのレクチャーを受けにやって来る。帰宅した鷗外が、平出と話し合っていると、鷗外の親友で、陸軍の医局に所属する賀古鶴所(かこ・つるど、池田成志)も、時の権力者、山縣有朋主宰の私的諮問機関とされる「永錫(えいしゃく)会」に参加するよう伝えに来る。その会合では、被告人たちの処罰について極秘の話し合いが行われ、鷗外は意見を求められる。国に忠誠を誓う軍人と、言論・思想の自由を守る文学者のはざまで苦悩する鷗外は、ある行動に出ようとするが…。鷗外を慕う若手作家・永井荷風(味方良介)や、謎の新人女中・スエ(木下愛華)も含め、さまざまな人々の思惑が絡み、事態は進んでいく。
――7年ぶりに向き合う『鷗外の怪談』はいかがですか?
再演はホン(台本)ができているので一から作るよりも楽だと思ったら、やっぱり大変でした(笑)。初演は初めての作品を世に出すことでウキウキしているけれど、再演はどうしても初演がライバルになる。初演を超えたいという思いが空回りしないように、と思っています。
観潮楼の書斎が素晴らしかった大田創さんの美術も、ホンも初演と同じで、人だけ違う。でも、初演をなぞらないようにしたいですね。初演の成果は生かしつつ、登場人物たちの新たな関係性に光を当てていきたい。稽古中に役者さんたちが随分発見してくれたので。初演とはだいぶ違う出来上がりになるのでは。例えていうと、初演が塩味なら、再演はコンソメ味かな。少しズッコケながらも、より深いドラマが展開できるのではないかと思っています。
――「コンソメ味のだし」になるのが、鷗外役の松尾さんですね。2018年の二兎社『ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ』で、総理のメシ友である保守系全国紙論説委員を、モノマネを交えて快演したのが記憶に新しいです。鷗外は観潮楼に出入りする人々や家族が投げ掛ける言葉を静かに受け止める場面が多いので、積極的に引っ張るイメージのある松尾さんは少し意外な配役でした。
確かに松尾さんは軽妙なイメージが強いので、文豪で重々しい感じの鷗外像からすると、ひねりの効いた配役かもしれません。でも、松尾さんは日本社会や人々の動向に対して関心が深く、鷗外的な大きな志を持っていると思います。それに、役者以外にも放送タレントもやるし、折り紙の手法で人の顔を造形する「折り顔」を提唱するアーティストでもあるし、コラムニスト。とてもマルチに活躍している人なので、軍人でありながら、小説を書き、翻訳もした多面体の鷗外ととても似ています。
――松尾さんの役作りはどんな感じですか?
面白いですよ、松尾鷗外は。初演で鷗外を演じた金田明夫さんも、とても良かったのですけれど。松尾さんは、役づくりのアプローチが新劇出身の役者とは違いますね。最初は役をどう広げていくのか、苦労されていたと思います。稽古場では、「(鷗外の)中心をつかんでください」と声を掛けていました。私たちがイメージする鷗外は、あるスケールの大きさ、重さ、巨大な知性がある。それがにじみ出るような歩き方や話し方で、身体表現をしなければいけない。その上で、松尾さんの持ち味である軽妙さが加わって、脱力した面白さが出てくると思っています。
――他の主なキャストはどうですか?
しげを演じる瀬戸さおりさんも、すごくいいですよ。瀬戸さん自身はとても感情のバランスの取れた方だけど、すぐに泣いたり怒ったりする、しげの心情を生きてくれています。怒り方もすごいですよ(笑)。木野花さんの峰は、もう出てくるだけでおかしい。池田成志さん扮する賀古とのシーンは、すごく息があって爆笑ものですね。味方良介さんの荷風もどんどん多面体になってきて、当時の苦悩を表してくれています。
――劇中で、しげは鷗外のことを「本心がどこにあるのか、分かりにくい」と評していますね。永井さんにとって、鷗外はどんな存在ですか?
我ながら、鷗外の芝居をよく書いたなと思っているんです。大それたことをしたなって(笑)。鷗外の作品を愛読していたわけではなかったので。多くの人たちにとって、鷗外といえば、高校の国語教科書に掲載されたことのある短編小説『高瀬舟』という印象が強いのではないでしょうか。
『鷗外の怪談』を着想したのは、森鷗外記念館(島根県津和野市)館長で日本近代文学研究者・山崎一穎(かずひで)さんの著書『森鷗外 国家と作家の挟間で』(新日本出版社)を読んだのがきっかけです。鷗外は文豪のイメージが強かったけれど、そういえば軍医でありながら作家だったのだと。軍医といっても軍人ですから、国家に対して絶対的忠誠を誓っている。でも、作家は、表現の自由を懸け、時として国に抗う存在。実際に鷗外は国の方針に怒り、雑誌で意見を発表している。軍人と作家を両立させるのは、かなり無理があったと思うんですよ。しかも、妻はやんちゃな人で鷗外の母と折り合いが悪く、家庭内はグチャグチャ。その様子を暴露した鷗外の短編小説『半日』を読んでびっくりしました。
――当時は世間からどう見られていたのですか?
当時から批判されることもありましたね。2つの頭脳があるとされて、「(前後2つの顔を持つ古代ローマ神の)ヤヌスみたいだ」と言われて。鷗外を嫌う人は、矛盾や欺瞞(ぎまん)を感じていたようです。それならば、私も鷗外に近づけるかなと思いました。それで関連の書物や鷗外の作品を読むようになったのです。特に、「大逆事件」をめぐる4ヵ月間に、鷗外が実際に書いたものは非常に面白かったです。
――「大逆事件」をめぐる4ヶ月とは、事件を公判にかけるべきか決める予審が終盤を迎えていた1910(明治43)年10月から、幸徳秋水や彼の愛人だった管野スガら12人が死刑に処された後の11年2月までのことですね。『鷗外の怪談』では、この期間を2幕5場で描いています。ここに焦点を当てたのは、どうしてですか?
鷗外は、大逆事件の被告人弁護を務めた平出の相談に乗る一方で、被告人の処罰を話し合う山縣有朋の私的諮問機関の極秘会合に、参加していました。これは私の創作だと思った人も、初演のときにいましたけれど、実際にあったことです。このことで鷗外は窮地に立たされ、これまでの自分の生き方がこれでいいのか、試される4ヶ月を過ごすわけです。鷗外が偉大だから、こういう悩みを抱えたというよりも、本音と建て前、義理と理想の間で揺れたり、結局、力関係で負けたりということは、私たちと同じ。普遍的な人間ドラマが、ここにあると思います。初演のとき、既に手応えを感じていたので、どこかで再演したいと思っていました。この芝居はいつ上演してもタイムリーだけど、今はまさにタイムリーだと思います。
――初演の2014年は、特定秘密保護法が施行された年。私が愛知公演を見たとき、大逆事件の裁判が非公開だったとか、山縣の会合は他言無用で日記にも書いてはいけないというせりふが心に残りました。今回、台本を読んだとき、また違うせりふが浮上してきました。永井さん自身は、初演から7年が経った2021年の今の日本社会をどのようにとらえていますか?
歴代最長の安倍内閣、その流れを継承した菅・岸田内閣という「一強政治」がこれだけ長く続くと、政府の権力が強まって、いろいろな問題が起きてきますよね。鷗外が直面した問題と変わらないことが、今起きていると感じています。なので、このタイミングで再演したかったのです。特定秘密保護法の後、犯罪の計画段階から処罰する「共謀罪」(改正組織犯罪処罰法)や、集団的自衛権行使を一部容認する安全保障関連法も施行されました。全部セットされた気がしています。今は何も起きていないので、「まだ大丈夫」と言っているけれど、将来は分からない。いつの世でも、政府というのは、方針に反対を表明する人たちがうるさいので、活動させないようにしたいのが常ですから。また、日本のメディアも、国民に真実を知らせるという本来の使命というよりも、政府とどううまくバランスを取ってやっていくかにエネルギーを割いているように見えます。今回の衆院選でも、いろいろな問題があったのに、すべてみそぎが済んだとされてしまうのは嫌ですね。
――日本人の気質を言い当てた荷風のせりふが、『鷗外の怪談』に出てきます。
ロシアのゴーリキーが書いた芝居『どん底』が『夜の宿』というタイトルで1910(明治43)年に、小山内薫の訳・演出で日本初演された舞台を見た荷風が、感想を語る場面ですね。この芝居は、貧しい宿に集まった、落ちぶれた酔いどれの役者や元男爵、泥棒や売春婦たちが、どん底の境遇に怒りながらも、自由を求める姿を描く話。荷風は、「『夜の宿』に出てくるような人物を描きたくても、まず日本には見当たらない。あれほど深い絶望も、苦悶も反抗心も日本人は抱かない。あれほどに自由を求める心もない」とこぼす。つまり、日本にはそういう民衆がいないんだと。政府への抗議活動をする代わりに、「こうなったのは前世の因縁だから仕方ねえ。来世はよく生まれてこようや」と言うと。私も本当にその通りだと思って。その心根は変わらないですよね、今でも。
――「世の中のすべてのことを軽く見て、その成り行きにまかすという、極めて日本的な態度がある」という荷風のせりふもありますね。とても耳が痛いです。
これらのせりふに似たようなことを、荷風は随筆で書いています。彼自身は、芸者さんと恋愛をして、遊び人だと言われていましたけど。
――劇中には、「危険思想」と言われるものの出発点となる社会的欠陥とは、「貧しさ、不平等」だと喝破するせりふも出てきます。日本の平均年収は30年間ほぼ横ばいで、先進国の中でも低水準。カプセル玩具が無作為に出てくる自販機になぞらえて、選べない親次第で人生が決まる「親ガチャ」という新語も流行していて、格差と貧困が深刻化しています。
「親ガチャ」という言葉には、私もびっくりしました。才能を発揮できるのは、個人の能力のせいというよりも、親から受け継いだ環境や文化などの土壌や条件がそろっているから、なんですよね。最初から恵まれている人とそうではない人とでは、もう最初から違うのは本当ですよね。
――最近起きた小田急線や京王線での切りつけ事件の犯行動機にも、深い絶望が潜んでいるような気がしてなりません。
ああいう事件が起きるのは、やっぱり世の中の何かがおかしくなっているからだと思いますね。今回の衆院選で、女性議員の割合は1割を切りました。前回と比べて増えるどころか、逆に減ってしまった。本当に、女性たちはいかに選ばれないか。候補者も少ないですし。これでは、アジアの国々にも追い越されてしまうのではないでしょうか。
――どの時代にも呼応する要素が詰まっている『鷗外の怪談』。今回の再演では、どんな言葉が響いてくるのか、楽しみです。次は余談になりますが、初演の時から不思議に思ってきたことをお伺いします。『鷗外の怪談』の「怪談」とは何でしょう?
初演のとき、まだホンを書き終わらないうちに、チラシをつくり、宣伝をしなければならない時期が来てしまったわけです…。タイトルがないと困るわけです。これは私の責任なんですけどね(笑)。鷗外が書いた怪談話を、芝居のどこかに入れようと思って、このタイトルをつけました。その話は『鼠坂』といって、ある屋敷に招かれて泊まった男が、中国でレイプした女性のお化けに祟られて死ぬという短編小説です。軍紀粛正を部下に厳命していた鷗外のヒューマニズムと結びついている作品です。でも、全然入る余地がなくて、お化けは全然出てこない芝居になってしまいました(笑)。こうなったら、鷗外という人間の中のミステリアスな話ということで、何とか解釈してもらえないでしょうか(笑)。
――「怪談」の謎が解けてスッキリしました! 最後に、読者の方へメッセージをお願いします。
鷗外というと、どうしても文豪のイメージが強いので取っつきにくいと感じる人もいるかもしれませんが、この芝居は鷗外の家が舞台で、彼自身が自分の母親と妻との壮絶なバトルの真ん中にいて、常に右往左往している話でもあるので、楽しんでほしいですね。いい感じで仕上がり段階を迎えました。ベースはできたので、あとはお客さんの反応という最後の味つけで、作品がどこまでジャンプできるか。劇場でお待ちしています。
取材・文=鳩羽風子