星野源、嵐、Kalafina、MIYAVI……強い個性を放つアーティストの作品に参加するキーボーディスト、櫻田泰啓。キャリアと音楽観に迫る【インタビュー連載・匠の人】
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櫻田泰啓
その道のプロフェッショナルへのインタビュー連載「匠の人」。今回登場するのは、キーボーディストの櫻田泰啓。3歳頃からエレクトーンを習いはじめ、20代からプロとしての活動をスタートさせ、30代を目前にした2010年頃から、嵐、Kalafina、星野源、MIYAVIといった個性的なアーティストのライブやレコーディングに参加。ボーカルを際立たせると同時に、圧倒的な個性を感じさせる演奏によって高い評価を得ている。ジャンルを超えて活躍を続ける櫻田に、これまでのキャリアや音楽観などについて訊いた。
――櫻田さんが最初に弾いた鍵盤楽器は?
エレクトーンですね。3つ上の兄が地元(札幌)の音楽教室で習い始めたんですけど、それを見ていて「僕もやりたい」って言い出したみたいで。両親が音楽好きとかっていう感じではなかったんですけどね。父親は若いときにフォークギターを少し弾いてたみたいですけど、弾いてるところを見たことがないし、レコードとかもビートルズの有名な作品が1、2枚あるくらいで。でも、エレクトーンを演奏するのは楽しかったんだと思います。
――櫻田さんは小学生のときから名を知られていて。きっかけは櫻田さんが作曲した曲を、フィギュアスケートの伊藤みどりさんがカルガリーオリンピック(1988年)で使用したことだったそうですが。
出ましたね、その話(笑)。確か音楽教室の課題で作ったんですよね。「羊蹄のまつり」という曲なんですけど、僕が作ったのはメインテーマとそれを展開させたメロディくらいで、アレンジなどは音楽教室の先生がかなり手を加えてくれて。まさかオリンピックで使用されるなんて大ごとになるとは思ってなかったので不思議だったし、恥ずかしかったです(笑)。ただ、それで結構名前を知られるようになって、音楽教室が主催するコンサートにも出演して、その準備のために学校が終わったら毎日のように練習して。それが割と大変でした(笑)。僕は曲を弾くのが好きなだけで、曲作りに興味があるわけじゃなくて。いわゆるポップスの曲をエレクトーン用にアレンジした楽譜を見て、好きな曲を弾いてるときがいちばん楽しかったんですよね。
――当時はどんな曲が好きだったんですか?
最初はTM NETWORKですね。小学校高学年から中学にかけてアニメ『シティーハンター』の「Get Wild」(1987年)、映画『僕らの七日間戦争』の「SEVEN DAYS WAR」(1988年)が流行って。小室哲哉さんがキーボードを弾く姿を見て、「カッコいい」と思ったんです。あとはX JAPANとか、ピアノが目立つ曲を弾いてました。ちょうどバンドブームだったので、友達に誘われてバンドをやったりもしてましたね。高校生からはジャズやフュージョンを聴くようになりました。友達に教えてもらったんですけど、カシオペアやT-Square、チック・コリアとかを聴いてカッコいいなと。ただ、めちゃくちゃ難しいんですよ。テンションコードの解釈も必要だったし、なまじっか弾けるぶん、「これを弾くのはとてつもない作業だ」ってわかっちゃうんですよ。もともと面倒くさがりですし、途中で挫折しましたね。
――やっぱり楽しく弾くことが大事だったんですね(笑)。プロを目指すという感じでもなかったんですか?
いや、高校生の頃は「いけるんじゃないかな」って思ってました(笑)。そこそこ弾けたし、学校のなかでも「ピアノが上手いヤツがいる」みたいな感じだったので。まあ若気の至りというか、調子に乗ってたんでしょうね(笑)。
――高校卒業後は都内の音楽系の専門学校に進学されます。仕事をはじめたのはいつ頃ですか?
全然仕事がなかったんですよ(笑)。卒業した直後にデビュー前の3人組バンド、The LOVEのサポートをやったんですけど、それくらいだったかな。その後はオールディーズ系のライブハウスで演奏してました。東京、千葉、神奈川とかで、20時から夜中の2時くらいまで1日5ステージくらいやって。それを90年代の半ばから2004年くらいまでやってたんですよね。バイトの延長みたいなものですけど。
――まさに下積み時代ですね……。その他の音楽活動は?
バンドもやってましたね。歌モノのバンドで、僕もちょこっと曲を作ってましたけど、お客さんは全然いなくて。
――ミュージシャンとしての将来像を描きづらい状況ですね、それは。
そうですよね(笑)。あまり深刻に考えてなかったし、その日暮らしみたいな感じだったと思います。もう20代後半だったし、親もすごく心配していたと思いますけどね……。ただ、変な自信はあったんですよ。いつかやってやる!みたいな。実際には何もなかったんですけど(笑)。しかもオールディーズバンドの仕事もやめて、全然音楽をやってない時期もあったので。
■30歳を過ぎて、「もう後がない。呼んでもらったらとにかく頑張ろう」と思い始めた
――アーティストのサポートの仕事をやるようになったのは、30代になってから?
はい。最初に関わらせてもらったのは、シンガーソングライターの東野純直さんですね。The LOVEのギターの内田敏夫さんが東野さんのバックバンドをやってたんです。東野さんは基本ご自分でピアノ弾かれるんですけど、そのときはピアノを弾かないライブをやろうとしていて、ピアニストを探していたみたいで。それが2007年くらいかな。東野さんと二人でスタジオに入ってリハーサルして。僕も久しぶりのライブだったし、ドキドキしましたね。
――そこから人づてで活動がつながった?
そうですね。東野さんのライブを手伝ったことをきっかけにして、ライブハウス界隈の方々から少しずつ声をかけられたり、紹介してもらえるようになって。今のマネージャーに会ったのもその頃ですね。初めてメジャーレーベルのアーティストと仕事をしたのは、aluto(Vo&Gの藤田大吾、バイオリンの佐藤帆乃佳によるユニット)というユニットで。それが32歳くらいだったかな。キャリアとしては全然遅いんですけどね。20代前半から現場に出られてる方が多いので。
――30代になって活動が軌道に乗ったのは、どうしてだったと思いますか?
たぶん意識が変わったんでしょうね。さっきも言いましたけど、オールディーズバンドを辞めてからは、ほとんど音楽の仕事をしてなくて何もない状態だったんですけど、東野さんのライブに参加させてもらったとき、すごく楽しかったんですよ。当時は目立ったプレイもできなかったし、大して弾けなかったかったんですけど、30歳を過ぎて、「もう後がない。呼んでもらったらとにかく頑張ろう」と思い始めた。それが良かったのかもしれないですね。
――そして2010年には嵐の全国ツアー「ARASHI 10-11 TOUR“Scene”~君と僕の見ている風景~」に参加されます。いきなり日本のエンタメの頂点に立つグループのツアーって、すごいですね。
本当ですよね(笑)。それもたまたまなんですよ。嵐さんはその何年か前のツアーではじめて生のバンドを入れたんですけど、「今回もバンドでやりたい」と。紹介してくれたのは、オールディーズバンドのときのドラムの人ですね。その方は若いときにジャニーズの仕事をやっていたことがあって、ジャニーズのバンドのコーディネイトしている人とつながっていて。連絡が来たときは、何を言われてるのかわからなかったですね。「嵐ですか? マジですか?」って(笑)。
――しかも国立競技場の4デイズから始まって全国のドームを回るという超大規模なツアーですからね。
ビックリしましたね。スタッフの人数、お客さんの人数、セットの規模を含めて、とにかくすごくて。当時のことは……あまりにすごすぎて、よく覚えてないですね(笑)。演奏に関しては割と完コピを求められましたね。もちろんまったく同じようにはできないんですけど、なるべく近づけるようにして。あと、とにかく曲数が多かったんですよ。曲をワン・ハーフくらいにしてメドレーでつなぐコーナーがあったり。あ、真夏の国立競技場はめちゃくちゃ暑かった記憶があります(笑)。
――(笑)なるほど。ちょうど同じ時期、2010年からはKalafinaのバンドメンバーとして参加されてますね。
嵐のツアーに参加する少し前ですね。Kalafinaは東野さんのバンドメンバーをやっていたドラマーの佐藤強一さんに紹介していただいたんですよ。プロデューサーの梶浦由記さんと長く音楽をやっているミュージシャンのみなさんが集まっていて、僕はいちばん下っ端ですね(笑)。
――Kalafinaのライブはかなり高度なスキルが求められそうですね。
そう思います。難解なことをやっているわけではないんですけど、リズムが特徴的だったり、民族音楽的な要素があったり。曲の尺も長めで転調も多いし、最初は苦戦することもあったけど、先輩のミュージシャンにいろいろ教えてもらいながら勉強して。現場で得られることもすごく多いですね。
――世界観も独創的ですからね、Kalafinaは。
ライブ中は緊張しっぱなしです(笑)。ピアノではじまる曲、ピアノで終わる曲も多いし、メンバーが衣装を着替えるときに「ピアノで2分つないで」ということもあって、気が抜けないんですよ。Kalafinaのライブに参加して12年くらい経ちますけど、今も勉強中ですね。
■星野源さんはすべてにおいて明確なんです
――そして2016年からは星野源さんのツアーにも参加。きっかけは何だったんですか?
ちょうど星野さんが事務所を移籍されてバンドメンバーを探していたみたいで。まず星野さんとお手合わせさせてもらったんです。「〇時にスタジオに来てください」と連絡をもらって、星野さんと二人で音を出して。
――オーディションみたいなものですね。そのときに演奏した曲は?
あらかじめ5曲くらい資料を送ってもらってたんですよ。「Crazy Crazy」「くだらないの中に」とかがあって、そのなかに「地獄でなぜ悪い」もあって。あの曲、ピアノがすごく炸裂してるんですよ。ジャズ・テイストのかっこいいピアノなんですけど、「これはやばい」と思って、楽譜に起こして完コピしたんです。星野さんの側からは「好きなように弾いてください」と言われてたんですけど、「地獄でなぜ悪い」のピアノは何となく好きなように弾けるような感じではなかったし、しっかり練習したほうがいいなと思って。
それで最初に「地獄でなぜ悪い」をやったんですけど、今言ったようにできるだけ音源に近い形で弾いたら、星野さんが「完コピじゃないですか!」って喜んでくれて。それが印象に残ったみたいでツアーに呼んでいただきました。いちばん最初はライブではなくて、『ミュージックステーション』で「SUN」を演奏したんですけど、Mステも初めてだったので緊張しました(笑)。その後、アルバム『YELLOW DANCER』のホールツアーに参加して。ファイナルは日本武道館と大阪城ホールでしたね。
――星野さんが国民的スターに駆け上がった時期ですね。実際にライブで演奏してみて、手ごたえはどうでした?
それまで星野さんの音楽はあまり知らなかったんですけど、音楽性も声もすごく個性的で、演奏していて楽しかったですね。星野さんはこだわりもすごくあるんですけど、常におもしろいことをやりたがるんです。若い頃にスタジオで遊んでいたときのような感じというか、リハの最中に「こっちのほうがおもしろいから変えちゃおう」とか、誰かが弾いたフレーズを「今のやつを入れましょう」とか。もちろん「ここのキーボードのフレーズはこうしてください」ということもあるし、すべてにおいて明確なんですよね。メンバーのみなさんからも刺激をもらってます。長岡亮介さん(G)、カースケさん(河村“カースケ”智康/Dr)ですとか、みなさんすごく魅力的で。
――NHKの『おげんさんといっしょ』からも、バンドメンバーのみなさんの関係性が伝わってきます。
楽しくやらせてもらってます。最初は学生服を着るのが新鮮で「懐かしい」「俺、学生服来たことないんだよ」みたいな話をしてたんだけど、今はすっかり慣れちゃいました(笑)。
――最近はMIYAVIさんのライブにも参加されてますね。
2020年からですね。もともと予定されていたMIYAVIさんのツアーが中止になって、ビルボード東京でライブをやることになったときに、「いつもとは違う雰囲気で、ピアノを入れてやりたい」ということで声をかけてもらって。MIYAVIさんは何事も早いですね。いろんな活動をされているし、とにかくエネルギッシュに突っ走ってるというか、めちゃくちゃスピード感がある。無理矢理ではなく、明確に目標を見据えて進んでいるのがすごいなって思います。
――当然ですがプレイヤーとしても本当に素晴らしくて。技術と個性を併せ持った方だと思いますが、一緒にプレイしてみていかがでした?
ずっとセッションしているような感じなんですよね。どの曲もそうなんですけど、「こうしてほしい」みたいな指定があんまりなくて、全員が自由にやらせてもらっていて、それが自然に絡んでいくというか。リズミックな曲が多いんですけど、僕もリズムを刻むような演奏が好きなので、お互いのリズムをぶつけ合ってる感覚もあります。
――Kalafina、星野源さん、MIYAVIさんと、強烈な個性を思ったアーティストと関わることが多い櫻田さんですが、ジャンルに捉われないからこそ、幅広いアーティストから求められるんでしょうね。
一貫性がないのかもしれないです(笑)。自分としてはど真ん中の歌モノが好きなんですけどね。あとはR&B、ファンク、ソウル寄りのアプローチだったり。ライブの現場ではボーカリストが歌いやすこと、周りのミュージシャンが弾きやすいことを意識してます。僕も最近はみなさんの声をよく聴くようにしてますね、。もちろん「この人に弾いてほしい」と思われたいう気持ちもあるんだけど、まずは“歌いやすい”がいちばんなので。
――そういうスタンスになったのは、30代後半になってから?
そうだと思います。以前は周りが見えてなかったというか、やみくもに弾いてたところがあったかもしれないですね。隙間があったらすぐに埋めたくなってたんですよ。今は「ここぞ」というところを見極めて弾くようにしています。バランスやペース配分を掴んで、聴かせるところは聴かせるという術が少しずつ身に付いてるのかも。そうなってきたのは、ここ5年くらいかな。今まで培ってきたことがようやく出せるようになったというか。
――4月からはクリス・ハートさんの全国ツアーに参加されるとのことでさらに幅が広がりそうですが、この先、ミュージシャンとしてどんなビジョンを持ってますか? たとえばソロ作品とか。
音楽をやってる身としてチラッと考えることはありますけど、さっきも言ったように面倒くさがりなんですよ(笑)。曲が湧いて出てくるタイプではないし。ただ、これだけ長い間ピアノを弾いてるので、何か作れたらおもしろいなとは思いますけどね。
――“作るより弾くのが好き”というのも変わらないんですね。
そうですね(笑)。しかも人とやるのが好きなんですよ。一人で練習するのは好きじゃないんだけど、現場で演奏するのは本当に楽しい。それはずっと変わらないでしょうね。
取材・文=森朋之