【船木誠勝インタビュー】“初代タイガーマスクSSPW11・23大阪決戦!”50周年記念の藤原組長とタッグ対戦
初代タイガーマスク佐山サトル率いるストロングスタイルプロレスの11・23大阪コレガスタジオ大会に、“関節技の鬼”藤原喜明が久々の参戦、デビュー50周年記念試合をおこなうこととなった。
藤原組長はアレクサンダー大塚と組んで、船木誠勝&冨宅飛駈組と対戦。UWF、プロフェッショナルレスリング藤原組を復活させるような豪華カードに登場するのだ。そこで本欄では、弟子にあたる船木誠勝にインタビュー。当時の史上最年少でデビューした船木にとって、藤原組長は欠かせない存在。デビューから37年間、常に師匠を意識しつつ、現在もプロレス界のトップを走り続ける船木に、“73歳にして現役”藤原組長への思いを聞いてみた。
――船木選手は、前日のNOAH有明アリーナ(取材は10月31日時点)で桜庭和志選手に勝利、GHCナショナル王座6度目の防衛に成功しましたばかりです。
「いままでベルトと言えば全日本で三冠ヘビー級王座や世界タッグ王座を獲ったんですが、世界タッグの方は武藤(敬司)さんのヒザの手術のため返上、三冠も5回目の防衛戦で落としているので、6回というのはいままでの自分で最高記録ですね」
――長期政権になりました。
「そうですね。プロレスって定期的にタイトルマッチをしていくので、ホントに大変だなと、あらためて思っています」
――しかも桜庭選手とは、UWFの系譜を引き継ぐ者同士の対決でした。
「2007年(12・31)に自分が格闘技に復帰したときの相手でもあったので、節目として最高の形で終われたかなと思いますね」
――そして、もうひとつの主戦場であるストロングスタイルプロレスに参戦していますが、船木選手とUWFと言えば、やはり思い出されるのが藤原喜明選手です。11・23大阪、12・8後楽園で藤原組長の50周年記念試合がおこなわれ、大阪では船木選手とのタッグでの対戦も決まっています。藤原組長は久々のストロングスタイルマット参戦になります。
「半世紀ですからね、50周年ってすごいですよ。自分は15歳でプロレスを始めて、2025年の3月で40周年ですから、50周年までにはそこからあと10年。それを考えると、気が遠くなりますよね(笑)。藤原さんはいま73歳なので、自分がその年になるまであと20年ですか。ホントにすごい、現在進行形の現役選手だと思ってま
す」
――今年、船木選手は藤原組長と2回ほどタッグを組んでいますよね。
「そうですね。4月の両国(押忍PREMIUM)、5月の後楽園(ドラディション)で組みました。組むとわかるんですけども、藤原さんは、すごく試合する人なんですよ」
――「すごく試合をする」とは?
「当たり前ではあるんですけど、年齢を取ってくると、若いのと組んだときには若いのにやらせて自分はちょっと控えめになるんですよね。でも、藤原さんは全然違います。自分が先に出る感じです」
――試合に自ら積極的に出ていくということですね。
「そうです。年齢に甘えないというか、そういうところがすごく尊敬できます」
――船木選手と藤原組長の出会いとは?
「新日本に入ったときのコーチでした。長州(力)さんを(84年2・3)札幌で襲撃したじゃないですか。あのイメージがあったので、最初は怖い人というイメージがありました。自分は、あの年(3月)に入門してますので、ああいう人なんだなという、テレビで見たままのイメージがあったんです」
――テロリストのイメージですね。
「ハイ。ただ、当時の新日本では試合が始まる前に若手を集めて練習していた藤原教室というのがあって、自分も入るようになったんですね。それからは、すごく優しい人だなと思い始めました。しかし、藤原さんはその年に新日本を出て6月にUWFに行ってしまうんです。その前に、若手全員に報告があったんですよ」
――というと?
「合同練習が終わる頃に、藤原さんが『みんなで走りにいくぞ』と、若手だけ連れてランニングに行ったんですね。ずっと走るのかと思いきや、ちょっとしたらベンチがあって、『この辺でいいや』と、藤原さんが座って『ちょっと聞いてくれ。オレは来月には新日本にいないから。前田(日明)のところ(UWF)で一緒にやっていく』と。そこで蹴りと関節技だけの試合をするというふうに宣言したんです。『もしも来たいヤツがいたら夜12時までに髙田(伸彦=当時、現・髙田延彦)の部屋に行け』と。そう言って道場に帰ったんですね。そのとき、ついていく選択がなかった自分は寂しくなっちゃって、藤原さんはもういなくなっちゃうんだと思い、その場で泣いてしまったんです。そのとき、『泣くなよオマエ』と藤原さんに言われました。『道場で泣いてたらバレるから』って(笑)」
――なにかあったのではと疑われるから?
「そうです。それで道場に戻って藤原さんがシャワーを浴びた後に、『山田(恵一)と船木、ちょっと来い』と2人が呼び出されました。『とくにオマエらがほしいから、来てくれ』って誘われたんですよ。自分はそのとき、誘われたらそれはそれで行くという選択もあるんだなと思って、山田さんが行くんだったら自分も行くと決めました。すぐに荷物をまとめて出れる準備をして。自分の部屋の前の山田さんの部屋のドアが開いたら自分も行こうと思ってたんですけど、そのまま朝が来てしまいましたね。結局、行かなかったです。その2年後に藤原さん(らUWF勢)が新日本に戻ってきて、そこからはまたマンツーマンで毎日毎日、1年くらいですかね、藤原さんと練習をやったと思いますね」
――海外遠征はその後ですよね。
「そうです。19歳で海外に出て、20歳で帰ってきたときに、自分はUWFに誘われてましたので(第二次UWF入り)、帰ったら藤原さんもちょうどUWFに来たと。そこで再会して、(89年5・4)大阪球場での凱旋帰国の相手が藤原さんでした」
――そういう意味でも、藤原組長は非常に縁の深い方ですよね。
「そうですね。一番稽古をつけてもらった先生ですよ。一番の原点ですよね。ほかの先輩もいますけど、あれだけ毎日マンツーマンでやってくれたのは藤原さんです」
――第二次UWFが解散した後に藤原組が旗揚げされ、船木選手もそちらに行きました。
「そうです。UWF解散後、どこで試合していこうか悩むじゃないですか。若手だけで集まってやる話もあったんですけど、ちょっと心細かったですね。そんなときに藤原さんから話をいただいて」
――新団体をやるぞと。
「ハイ。『オマエたちが来るんだったら団体にしてもらう』という感じでしたね。メガネスーパーのSWSがバックにいるからということで、自分も一緒に入りました。とにかく早くまた試合がしたかったので、どんな形でも藤原さんが言うのであれば100%信じて行こうという感じです。最初は、UWFが解散したときの若手全員を引き取るとの話だったんですよ。だけど、UWFというものを捨てられないという選手もいて、そこから分かれたのがUWFインターですね」
――UWFが三派(リングス、UWFインターナショナル、藤原組)に分裂する形になってしまいました。
「そうです」
――その後、船木選手はパンクラスを旗揚げします。
「ハイ。SWSが解散という形で、(藤原組が)独自でこれからやっていかなければならないとなったときに、プロレスという(純)プロレスもしなければならないこともあると言われたんですね。自分はそのとき、ちょっと抵抗してしまったんですよね。UWFがあって、その延長で格闘技の方向に来ていたのが、また(純)プロレスになると。当時はまだ若いですし、そのときは後戻りするような感じがあったので、それに対して受け止められなかったですよね。それで別れてしまったんですけども」
――それがパンクラスのスタイルに進化したわけですよね。
「そうです。ただ、出ていったものの、なにをやるかとなったときに、格闘技の方向に近づけることしかなかったんですね。いざそれをやってみるといろいろと大変なこともあったので、藤原さんも大変だったんだなと思いました。そういう形で出ていったものですから、藤原さんの前にはもう出られないと思いながらやっていましたね」
――それが時を経て、巡り巡って再会となりました。
「そうなんです。自分が(2000年に)引退するとき来てくれたんですね。武道館で引退式やってくれたときも、青森での引退興行にも来てくれて。それでも、自分が22歳のときに藤原さんと別れた話はできなかったんです。それでも、ちょうど自分が(09年にプロレス復帰し)フリーになってから、確か16年のどこかの興行で一緒になったんですよ。そのときの打ち上げで一緒にまたお酒を飲む機会があって、ちょっと酔いも手伝ったこともあって、藤原さんに謝ったんです。すいませんでしたと。すると、『オマエがずっとそういうふうに思っていたのか』と藤原さんも泣いて、自分をビンタしたんです。ビンタしてビンタして、最後にキスをして(笑)。それで許してもらえたって感じですね」
――そこで空白を埋めたと。ただ、14年(7・2後楽園でのストロングスタイルプロレスでは藤原組長と船木選手はタッグで対戦していますが。
「ええ。それはリング上での再会でした。まだわだかまりが消えていなかったと思います」
――藤原組長と話す機会はその後に持ち越されていたと。
「ハイ。そのときは、ただ試合をしただけでしたね。後ろめたさだけしか残っていなかったんで、ホントにやりづらかったです。あまり触れてないような気がします。積極的にはいかなかったと思います」
――いけなかった感じですか。
「そうですね」
――それが16年の再会ですべてが解けたと。その後、お二人とも現在に至るまでずっと現役です。
「さっきも言ったように、若い選手と組んだとき、自分から積極的に出ていく姿というのは自分も勉強しなきゃいけないと思います。藤原さん、たぶん死ぬまでやるんじゃないですかね。生涯現役という形になると思いますよ。自分は1回引退しているので、2度目はないですから、よほど大きなケガとか体調を崩さない限り、できる限り続けていこうと思ってます」
――自分から引退を選択する意思はないと。
「ないですね。あれだけ盛大な引退式をしてもらいましたから」
――藤原組長とは、次回のストロングスタイルプロレス11・23大阪大会で対戦します。藤原組長50周年記念試合。藤原喜明&アレクサンダー大塚組vs船木誠勝&冨宅飛駈組です。
「まさしく藤原組ですよね。なので、そういう試合になるんじゃないかと思いますね。つまり、関節技の試合です。日本でここまで関節技を極めたという人は藤原さんしかいないですから。あの時代に関節技をあそこまで研究したのはすごいと思います。正直なところ、アントニオ猪木さんよりも技が多かった気がします」
――実際、猪木さんのボディーガード的立場で海外遠征にも帯同していましたからね。
「そうですね。猪木さんが一番すごかったときの付き人だったと」
――今年は2度ほど師弟タッグを組んでいますが、対戦となると、いつ以来になりますか
「3年前(19年8・4グランメッセ熊本)に熊本でシングルをしています。『熊本プロレス祭り』。自分が勝ちました。蹴って蹴って、ものすごく蹴りました。蹴って蹴って痛めつけて、最後にアキレス腱を取ったらギブアップしてくれました(笑)」
――いかがでしたか。
「なんか、やっと勝てたなって思いましたね。シングルでの勝利は2回目でした。21歳のときにダウンで勝ってるんですよ。ただ関節技でギブアップ取ったのは初めてで、こんなに時間をかけないとギブアップって取れないんだなと思いましたね。そのくらい長くかかりました」
――そのとき、敗れた藤原組長の姿を見て、船木選手はどう感じましたか。
「許してくれた、みたいな。免許皆伝じゃないですけど、やっともらえたなと(笑)。ホントそんな感じですよ。3年前ですから自分が50歳ですよ。15歳で始めて、50歳でようやく認めてもらえた感じでしたね」
――今度の大阪大会で対戦するということで、今後は師弟タッグから対戦モードになっていくのでしょうか。
「ハイ、そうなると思います。あと何年できるかというのがあるので、そういう意味ではホントに貴重な時間になると思いますね。藤原さんとあと何回できるかと、そう思いながらやると思いますよ」
――12・8後楽園でも藤原組長の50周年記念試合が組まれる予定です。さらに石川雄規選手の30周年記念試合も併せておこなわれます。
「石川も、もう30年なんですね。彼は、UWFが解散するちょっと前に道場に来ていたんですよね。しかしUWFが解散してしまって、藤原組に来たと。藤原組で、約2年の付き合いですね」
――石川選手はその後、バトラーツを旗揚げします。
「そうですね。石川もバトラーツという団体のスタイルをそのまま続けていて、えらいなと思いますね。みんな師匠の下から独立したり枝分かれして一度は離れるんですけど、どこかで再会する。不思議ですよね。きっと、エネルギーが有り余ると人は外に出ていくんだと思います。ただ根本は同じなので、また徐々に原点に戻ってくるんじゃないかと思いますね」
――そこで原点を確認し合うと。
「そうですよね」
――ところで、ストロングスタイルプロレスを主戦場のひとつとしている船木選手ですが、今年のストロングスタイルプロレスでの闘いはいかがでしたか。
「やはり関根“シュレック”秀樹選手との試合が一番手応えありました」
――タッグで対戦し、シングルで闘い、タッグを組みましたね。
「ハイ。(22年は)シュレックに始まり、藤原さんで終わるみたいな」
――今後も続いていくかと思いますが、シュレック選手との関係を振り返ってみていかがでしょう?
「彼、格闘技やってるじゃないですか。彼も元々はUWFが好きで、憧れてきたらしいんですよね。結果的に源流、流れは同じだなと、実際に触れてみて感じました」
――現在、ストロングスタイルプロレスでは船木選手も3度獲得したレジェンド王座がスーパー・タイガー選手から真霜拳號選手に移り、団体の至宝が流出した形になっています。
「ベルトを獲れる人というのは限られていると思います。ただ、真霜選手もそういう(UWFの)流れを汲んでいる選手のひとりだと思ってるんですよね。格闘技の大会にもかつて出ているし。ホンモノの武器を持ってるひとりなので、獲って当然かとも思いました。いま年齢的にもノッているので、スーパー・タイガーのいいライバルなんじゃないですか」
――近い将来、再びレジェンド王座獲りに動く気持ちはありますか。
「そうですね。自分もまだ衰えてる気持ちはないので、いつでもそれ(レジェンド王座挑戦)はやってみたいなとは思いますね」
――12・8後楽園では藤原組長、石川選手の記念試合もありますから、そこに絡みたいとの気持ちもありますか。
「もちろん。やるのであれば石川選手とも久しぶりに闘ってみたいとも思います」
(その後11月18日記者会見にてカードが発表)
――もしかしたら11・23大阪で藤原組長と船木選手との間で新しいなにかが生まれるかもしれません。そこから後楽園のカードに影響を及ぼす可能性もあるのではとも思います。
「そうですね。(藤原組長との)スパーリングの再開です。スパーリングをまた稽古つけてもらうというか、リングの上で」
――それでは最後にあらためて、11・23大阪への意気込みをお願いします。
「アレクサンダー大塚と冨宅飛駈がいる。それこそホントにストロングスタイルなプロレスになるとしか思えないメンバーだと思います。藤原さんは50周年ということで、すごく張り切ると思います。なので、そこに負けないように。自分は藤原さんよりも20歳若いですから、その勢いに負けないようにしたいと思います。とにかく呑まれないように。20歳も先を行ってるというのがとにかく驚きです。自分が20年後どうなっているか見当がつかない。それを考えたらホントにすごいんだなと思いますよ、73歳(で現役)」
――船木選手でさえ、あとを追う後輩からしたら雲の上の存在なのに…。
「そこからさらに20年上ですからね。でも、昨日のことのようにおぼえてますよ。自分が20歳で凱旋帰国して、藤原さんが40歳で。その頃、『年寄りをなめんじゃねえぞ』ってインタビューで言ったんですね。自分は自分で『若いけど、なめてもらっては困ります』って言ってるんですよ。そんなことを言い合った記憶があります」
――そのときから現在まで、藤原組長は気持ちが変わっていないんでしょうね。
「そうでしょうね。そのときは自分が20歳で藤原さんが40歳じゃないですか。そこからもう33年経ってるんですよね。でも全然変わってない。いまの自分は、あのときの藤原さんよりも10歳以上年上になってる。藤原さん、頑張ってたんだと思います、いまも頑張ってると思いますし、これからも頑張ると思います。ホントに藤原さんって引かないんですよね。みんなどこかで線を引くんですけど、全然引かない。長州さんも天龍(源一郎)さんも引退されましたが、藤原さん、藤波さんが、現在も闘っている。やっぱり、長く続けてる人間が勝ちかなと。そう思います」
11・23大阪でおこなわれる藤原&アレク組vs船木&冨宅組のタッグマッチは、ストロングスタイルのリングで実現する藤原組の同窓会でもあり、Uを原点とする者たちの邂逅だ。また、船木にとって藤原組長はプロレスのなんたるかを教えてくれた絶対的な師匠でもある。実に8年ぶりとなる藤原組長のストロングスタイルプロレス参戦で、初代タイガーマスク欠場の団体を守り抜いてきた船木が迎え撃つというのもまた興味深い。はたして、11・23大阪でなにが起こるのか、年内最終戦12・8後楽園に向けても、見逃せない大会だ。
(聞き手:新井宏)