ブルース・リウ「《皇帝》の第2楽章はベートーヴェンの作品のなかでもっとも好きな曲です」
2021年のショパン国際ピアノ・コンクールの覇者ブルース・リウは、コンクール以後世界各地のオーケストラと共演を重ねているが、今回はアラン・アルティノグル指揮、ドイツの名門フランクフルト放送交響楽団と共演し、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」を演奏することになった。フランクフルト放送交響楽団は長い歴史と伝統を誇るオーケストラ。豊かにうたう弦楽器とダイナミックな管楽器の響きが特徴である。
ブルース・リウの演奏は、明朗で率直でおおらか。ショパンに関しては、これまでのショパン像とは一線を画すのびやかな演奏が特徴で、「新しいショパンを提示している」と称されている。そんな彼のベートーヴェンに対する思い、「皇帝」に寄せる気持ちを聞いてみた。
「ベートーヴェンのピアノ協奏曲はいずれも有名で、さまざまなピアニストが演奏し、録音も数多く存在しています。ですから、僕も子どものころからいろんな演奏を耳にしてきました。でも、弾きたいと思ったのは第4番と第5番で、当時師事していたリチャード・レイモンド先生に相談したところ、第5番《皇帝》を勧められました。その後、ダン・タイ・ソン先生に師事してからもまったく同じように《皇帝》が向いているといわれたのです。実際に演奏を始めたのは18歳のときです。でも、ふたりの先生から第4番ではなく、第5番が僕に向いていると同じことをいわれたのには驚きました。理由は、第4番は叙情的で“陰“の部分がある、僕は性格的に“陽“だから、第5番の方だといわれました」
ブルース・リウは、2011年から18年にかけてリチャード・レイモンドに師事している。10代の多感な時期で、基礎的な奏法、解釈、表現法を彼から伝授されたという。
「10代のころは基礎を学ぶ時期でしたので、先生から受けた影響は非常に大きく、いまでもその教えが生きています。その後、ダン・タイ・ソン先生に師事するようになってからは、技術的なことではなく、音楽全体の表現や演奏家としての姿勢なども学んでいます。先生は僕が正しい方向に進めるよう、道筋をつけてくれます。僕はみんなと同じではなく、妥協も嫌い。いつも新しいことをしたいと考えている。その気持ちを理解し、誤ったことは訂正し、新たな方向性へと導いてくれます」
ベートーヴェンの「皇帝」は3楽章ともに個性が際立ち、聴きごたえがある。
「第1楽章は、とにかく長大。楽章全体を俯瞰してとらえ、オーケストラとの呼吸を合わせ、ベートーヴェンの傑作と称される作品の内奥に迫って行かなくてはなりません。今回は、指揮者のアラン・アルティノグルもフランクフルト放送交響楽団も初共演ですので、リハーサルからしっかりコミュニケーションをとっていかなければと気を引き締めています。でも、指揮者はパリ出身ですので、フランス語で会話できるでしょうから楽しみです。オーケストラはドイツの名門として知られ、そこでベートーヴェンを演奏するわけですから緊張しますよね。でも、僕は自分の《皇帝》を存分に表現したい。第2楽章は、ベートーヴェンの作品のなかでもっとも好きな曲で、よくピアニストがあまりにも美しい旋律なので弾きながら泣いてしまうといっていますが、僕も最初のころは練習するたびに泣けて困りました。もちろん、いまは本番ではもう泣きませんよ(笑)。その馨しく美しく情感あふれる音楽を聴いてくださる方たちと分かち合いたいと思っています。第3楽章はベートーヴェンがさまざまな経験をして困難を乗り越えた、その強さや葛藤などが静けさあふれる曲想に現れています。この楽章はごく自然に、フィナーレに向かって“いろいろあったけど、人生はよかった¨と思えるような感覚を前面に押し出したい考えています。今回はこれまで演奏した響きのいいホールや初めてのホールもあり、新しい聴衆との出会いも楽しみです」
子どものころからアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリに魅了されている。ジャズを聴くのも大好きで、キース・ジャレットとオスカー・ピーターソンのファンだ。
「コロナ禍で何もできない時期に、毎日ミケランジェリの録音を聴き、そのピアノに救われました。ジャズは自分ではお遊びで弾いていますが、このふたりは最高です!」
ブルース・リウは多趣味で知られるが、それに関しては一家言をもっている。
「僕は音楽を職業としている身ですが、一日中音楽のことばかり考え、必死で長時間練習していると、何かが失われていくような感覚に陥るのです。そういうときに、趣味的なことに没頭したり、だれかとチェスをしたり、プールに行ったりすると、人生が豊かになる気がします。僕にとって、音楽以外のことをする時間は必要不可欠。料理も好きですよ。そうしたことで人生のバランスをとっているのです」
今後の録音に関しては、チャイコフスキーの作品を予定しているという。
「まだ詳細は決まっていませんが、コンチェルトとソロ作品を収録したい。自分ならではの新たなチャイコフスキーを生み出したいのです。期待していてくださいね」
取材・文=伊熊よし子(音楽ジャーナリスト) 撮影=千葉秀河