亀井聖矢、鮮やかなテクニックとドラマティックな表現力に磨き 3都市を駆け抜けた凱旋公演をレポート
去る5月、ベルギーのブリュッセルで行われたエリザベート王妃国際コンクールピアノ部門で第5位に入賞した亀井聖矢。その凱旋公演として、名古屋、大阪、横浜の3都市でリサイタルが開催された。
2025年9月9日(火)に横浜みなとみらいホールで行われた公演は、あっという間に完売。亀井が曲間のトークで尋ねた時の反応によると、彼の公演に足を運ぶのは今回が初めてという方も多かったようで、ますますその人気が広がりを見せていることが窺える。
この日のプログラムは、亀井がエリザベートコンクールのために丹念に準備をした作品を集めたもの。同コンクールは、幅広いレパートリーを持つ成熟したピアニストを求めていることから、例えばセミファイナルなど、プログラムを2種類提出し、本番前日にどちらを弾くか指定されるというようなハードな規定で知られている。この日の公演ではそんな、完璧に磨き上げながらステージで演奏できなかった楽曲も披露。「もう一つのプログラムも聴いてみたかった」というファンの要望を叶えてくれる形となった。
冒頭に演奏されたのは、セミファイナルの新作課題曲だったアナ・ソコロヴィッチの「Two Studies for Piano」。「この曲は2つの部分からできていて、1曲目は《霧》。何が起きるかわからない靄の中、鋭い光や何かの声が聴こえ、やがて消えていくような前衛的作品。2曲目は《ダンス》。びっくりする演奏法が出てくるので、初めて聴く方は驚くかもしれません」という亀井の解説トークに続き、まさにそんなミステリアスな空気が会場を満たす第1曲、ピアノの鍵盤下の板を叩く動作を挟みながら、力強いステップを感じる第2曲を演奏。
その他前半に並んだのは、セミファイナルで選択されなかったほうのプログラム。鐘をテーマにつないだものだ。
ラヴェル「夜のガスパール」は、特に第2曲「絞首台」について「無機質な鐘の音がゴーン、ゴーンと響き続ける。それをピアノで表現したラヴェルはすごい」と話していたが、まさにその予告の通り、刻々と変化する情景を不気味な美しさとともに表現していたのが印象的。
ミュライユ「離別の鐘、微笑み〜オリヴィエ・メシアンの追憶に」は、輝かしい音で鳴らされる無数の“鐘”の音に、空間に点在する大小の鐘が次々と響く様子……ヨーロッパで鐘楼に登り、真下から鐘を見上げた時の光景が思い浮かぶような絢爛な演奏。そして亀井の十八番レパートリー、自由自在で躍動感にあふれる「ラ・カンパネラ」で前半の最後を飾った。
後半はブリュッセルで披露して高く評価されたほうのプログラム。亀井はベルクのピアノ・ソナタについて、「時代背景も相まって、不穏でどこに行くのかわからないようなハーモニーがうずまく、その美しさを感じてほしい」、細川俊夫「俳句〜ピエール・ブーレーズのための」については「激しさと静の対比が詰まった作品。そこから何を感じるかは聴き手に委ねられている」とそれぞれに紹介。いずれもシリアスさと緊張感が漂う作品だが、持ち前のクリアな音とタッチ、起伏をわかりやすく見せてくれる音楽づくりが生き、しっかりと聴衆の耳を引きつけた。亀井は近現代の作品をおもしろく聴かせる能力に秀でていることを改めて感じる。
そして最後はもう一つの十八番レパートリー、「ノルマの回想」。目まぐるしく変化してゆくシーンを鮮やかに描きわけ、例によって、難曲だということを忘れさせるのびのびとした演奏。ブラボーの声と盛大な拍手が贈られた。
「すべてのエネルギーを使い果たしました」と言いながらも、アンコールとして嬉しいサプライズが。
エリザベートの1次予選は、提出したレパートリーのうちどの作品を弾くかが、楽屋入りの後、本番1時間前にようやく知らされる規定がある。亀井は準備していた中でリゲティとアルカンのエチュードが選ばれず、しかし彼の鮮やかなテクニックで聴いてみたかったと思っていた聴衆は多かった……というわけで、それらを演奏してくれることになった。
リゲティのエチュード第9番は、「眩暈」というタイトルの通り、「どこかに頭をぶつけたかのような、弾いていてフラフラしてくる曲」「本当に眩暈がしてくるような音楽を書いたのだからリゲティはすごい」と亀井。暗譜をすることも大変そうな作品だが、それをすみずみまで丁寧に細やかに奏で、脱力するように弾き終えると、客席からも共感の笑みが漏れる。
「もう1曲弾いていない曲があるので……」と言いかけると、客席から「わー!」と喜びの声があがる。そして自ら卓越したピアニストだったアルカンのエチュードOp.39-7を、亀井がキレの良い粒立ちの良い音で駆け抜けるように演奏。客席はスタンディングオベーションでその興奮を伝え、ホールに熱気に満ちる中で終演となった。
今回のプログラムは現代曲も含むチャレンジングなもので、亀井のコンサートが初めてだという方はもちろん、彼のファンにとっても、今まで生で聴いたことのなかった作品がたくさんあったはずだ。しかしその鮮やかなテクニックとドラマティックな表現力、そして曲間の親しみやく、曲のおもしろさを実感していることが伝わる熱のこもった解説も手伝って、作品の美点が十分に伝わっていたのではないだろうか。
知らない曲でも、亀井が弾くなら聴いてみようという人々がこれだけ増えたということも改めて感じられた。これからますますいろいろな挑戦をできる自由を手に入れたといえるだろう。次はどんなステップを踏み出すのか、この先の活動がますます楽しみになる凱旋リサイタルとなった。
取材・文=高坂はる香