日本で17年ぶり、新たな視点で魅せる待望の回顧展『アンドリュー・ワイエス展』レポート

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レポート
アート

『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』展示風景、東京都美術館、2026年

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20世紀のアメリカ具象絵画を代表する画家アンドリュー・ワイエス(1917-2009)の、国内では没後初となる回顧展『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』が2026年4月28日(火)から7月5日(日)まで、東京都美術館にて開催中だ。企画・構成したのは豊田市美術館館長・高橋秀治氏。日本のワイエス研究の第一人者である。本展では、これまでにない「境界」という視点のもと約100点を紹介、そのうち10点以上が日本初公開だという。17年ぶりの日本での開催とあって、意気込みの大きさが伝わってくる。

父の死と、画面に潜む死生観

1章「ワイエスという画家」では、文字通り、ワイエスがどのような画家だったかに触れることができる。

《自画像》1945年 ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン

病弱で学校に通えなかったワイエスは9歳で水彩画を始め、15歳頃から著名なイラストレーターだった父親の手ほどきを受ける。ところが1945年、28歳の時に突然父親が他界。強い衝撃と喪失感はワイエスの心に影を落とすが、その一方で、彼が抱いた死への意識や無常感は作品に深みと高い精神性をもたらした。ワイエスは生涯にわたって生まれ故郷のペンシルヴェニア州とメイン州を描き続けた。この2カ所を描き始めた時期も父親の死と前後している。

《鷹の木》は、ペンシルヴェニア州を象徴するアメリカスズカケノキの巨木をモチーフにしている。夏はメイン州で過ごすため、ワイエスがペンシルヴェニアで描いたのは、晩秋から春にかけての光景である。落葉し、外皮がはがれて白い木肌をさらしたアメリカスズカケノキの枝々は、まるで骨のようで痛々しい。

《鷹の木》1973年 成田ゴルフ倶楽部

ワイエスの自宅があるペンシルヴェニア州チャッズ・フォードにはドイツ系住民が多く、またアフリカ系の人々のコミュニティもあった。《マザー・アーチーの教会》はアフリカ系住民の拠り所をモチーフにした作品で、学校へ行かず、自宅周辺を散策して近隣の人々と交流したワイエスの日常の一端を伝える。聖霊を象徴する白い鳩が窓から光と共に入り込む光景は、教会にふさわしく、本展のテーマ「境界」にもかなっている。

《マザー・アーチーの教会》1945年 フィリップス・アカデミー附属アディソン・ギャラリー、アンドーヴァー

本章には死そのものを描いた作品もある。《冬の野》は、自宅近くで拾ったカラスの死骸を冬枯れの野原の風景と組み合わせたもの。ワイエスはカラスの羽の美しさに魅了されていたという。知人の死を受けて描いた《クリスマスの朝》は幻想的で、シュルレアリスムの影響をうかがわせる。物語の挿絵のようなデザイン性は、父親の仕事から学んだに違いない。

《冬の野》1942年 ホイットニー美術館

《クリスマスの朝》1944年 マイロン・クニン・コレクション、ミネアポリス

身近な風景に織り込まれた生と死の連続性

2章「光と影」には、光と影の間にあって両者をつなぐドアや窓などを浮き彫りにした作品が主に集められている。光と影は「生と死」の象徴だが、両者を対立するものとせず、一続きと捉えるワイエスの感覚は、日本人の死生観と通じるところがある。そして彼のこのような精神世界は、抑えた色彩や乾いた絵肌の質感、精緻な描写と相まって、メランコリックな詩情漂う画面を作り上げている。それは「もののあはれ」を呼び起こす雰囲気といって構わないだろう。

ワイエスの絵の多くは水彩とテンペラで描かれている。彼は細密な描写に適したテンペラのザラザラとした質感を特に好んだ。そして「私はこれらの色の感じが好きだ。例えば、土色、モスグリーン、オーカー、インディアンレッド」(高橋秀治著・監修『アンドリュー・ワイエス作品集』、東京美術、2017年、13頁から引用)と語ったように、画面はそうしたシックな色彩で占められている。

『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』展示風景、東京都美術館、2026年

猫が目を引く《うたた寝》は水彩画である。猫の後ろ、納屋の奥には暗い空間が広がっている。かたや《三月の嵐》は水彩と、水彩の一種で水気を絞って描くドライブラッシュという技法を併用している。こちらは納屋の扉を開けた瞬間だろうか。暗い納屋の扉の向こうはまぶしいくらいの雪景色。《うたた寝》と対照的な構図である。

《うたた寝》1963年 ファーンズワース美術館、ロックランド

《三月の嵐》1960年 デラウェア美術館、ウィルミントン

また、《松ぼっくり男爵》はテンペラ画で、緻密な表現が際立っている。光と影のコントラストは印象的だが、ごく自然に融合している。本作に描かれているのはペンシルヴェニアの重要なモデル、カーナー夫妻の農場だ。ワイエスはこの絵の中にカーナー家の豊かさのすべてを注ぎ込もうとしたという。

《松ぼっくり男爵》1976年 福島県立美術館

メイン州に焦点を当てた3章「ニューイングランドの家ーオルソン・ハウス」は、本展最大の見どころといえる。展示作品も、他章が10点前後であるのに対し50点に及んでいる。

アメリカの原風景が残るメイン州は、ニューイングランド地方に位置する。この場所で夏を過ごしたワイエスは、1939年から30年間にわたってオルソン家をテーマに作品を制作した。本章の最初に展示された《オルソンの家》は、オルソン家を初訪問した直後に描かれた水彩画である。

《オルソンの家》1939年 丸沼芸術の森

オルソン姉弟はこうして出会って間もなくモデルとなり、ワイエスはとりわけ姉のクリスティーナをモデルに数々の名作を生み出した。その一つが、台所の戸口に腰かける彼女を捉えた《クリスティーナ・オルソン》である。メイン州は風が強い土地。クリスティーナの髪がなびくさまは、《海からの風》(習作)のカーテンとオーバーラップする。風は家の内外をつなぐ役割を担っていて、クリスティーナのいる世界は暗いが閉ざされているわけではなく、明るい外の世界とつながっていることを示唆している。

《クリスティーナ・オルソン》1947年 マイロン・クニン・コレクション、ミネアポリス

《海からの風》(習作) 1947年 丸沼芸術の森

『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』展示風景、東京都美術館、2026年

しかしながら見方を変えると、彼女に死が迫っていることを暗示しているようにも思えてくる。右奥の白い木々は、強い海風のせいか夏なのに枯れ、上述した《鷹の木》と似通っている。クリスティーナのやせて骨ばった腕と共鳴し、死の気配を増幅させている。明るい生の世界にも死が潜んでいることが感じ取れるのだ。

クリスティーナは、進行性の病気のため脚が不自由で歩けなかったが、車椅子を使わず自力で移動し、身の回りのことも自分でこなした。そういう自立した誇り高い生き方に惹かれたワイエスは、敬意をもって彼女を描き続けた。だが、1968年にクリスティーナの命は尽きる。そして、その翌年に手がけた《オルソン家の終焉》をもって本シリーズは終わりを告げた。

《オルソン家の終焉》1969年 クリーブランド美術館

オルソン・ハウスの模型も!『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』展示風景、東京都美術館、2026年

別れと新たな出発

長年モデルにしてきたカーナー家とオルソン家の人々を失ったワイエスは、自分の周りから新たなモチーフを探した。4章「まなざしのひろがり」に登場するのはその新しい作品群で、なかでも筆者は椅子を描いた作品に注目した。

《隠れ場》(習作)は、<ヘルガ・シリーズ>で知られるヘルガ・テストーフを描いた本展唯一の作品である。ヘルガはカーナー家、オルソン家と同じく重要なモデルである。おそらく《ハイ・スツール》に描かれたスツールに、彼女も座ったのではないだろうか。横に並ぶ《モデルの椅子》《乗船の一行》のモチーフも椅子である。どれも人物を描かないことで存在を意識させる作品となっている。つまり椅子は存在と不在の境界である。境界はドアや窓に限らない。ぜひ会場でいろんな境界を見つけてほしい。

《隠れ場》(習作) 1985年 個人蔵

《ハイ・スツール》1985年 医療法人社団 景翠会

《モデルの椅子》1982年 ユニマットグループ

《乗船の一行》1982年 フィルブルック美術館、タルサ 

『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』展示風景、東京都美術館、2026年

ワイエスにとって「境界」とは

「境界あるいは窓」と題する終章では、境界を暗示するモチーフを改めて取り上げ、深堀りしている。《ゼラニウム》は家の中のクリスティーナを窓越しに捉えた作品だ。彼女がいる部屋の奥にも窓があり、陽光が差し込んでいる。《クリスティーナ・オルソン》と同様に、クリスティーナのいる部屋は暗いものの、外とつながり、開かれていることを暗示している。

《ゼラニウム》1960年 ファーンズワース美術館、ロックランド

境界としての窓には二つの側面があるようだ。一つはこれまでみてきたように、生と死、彼岸と此岸を分かつと同時に連続させる装置としての窓。もう一つは、社会的・経済的・文化的な格差だろう。ワイエスは裕福な家に生まれ、画家としての成功も若くして手に入れた。かたやクリスティーナは障害をもち、つましい暮らしを強いられている。ワイエスは彼女に敬意を抱いていたが、二人の間にいわば階級の違いのようなものがあることは感じていたに相違ない。

《薄氷》は一見したところ、抽象画に見える。実は薄く氷の張った水面を真上から描いたもの。氷の下には枯葉が折り重なっている。よく見ると、氷上に葉が一枚はみ出ている。氷は境界。この凍りかけの葉は、氷上の世界(此岸)と下にある世界(彼岸)をつないでいるのである。

《薄氷》1969年 株式会社三井住友銀行

アメリカの「国民的画家」と評されるワイエスは、日本でも長らく愛されてきた。ワイエス作品の所蔵数がアメリカに次いで世界第2位だった時代もあったという。そんな画家の人気の秘密を探しに足を運んでみてはいかがだろうか。『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』は7月5日(日)まで、東京都美術館で開催中。

『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』展示風景、東京都美術館、2026年

文:NATSUKO、撮影=SPICE編集部

イベント情報

『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』
会場:東京都美術館
会期:2026年4月28日(火)~7月5日(日)
開室時間:9:30~17:30 ※金曜日は20:00まで、入室は閉室の30分前まで
休室日:月曜日 ※6月29日(月)は開室
観覧料:一般 2,300円/大学生・専門学校生 1,300円/65歳以上 1,600円
・18歳以下、高校生以下は無料。
・毎月第3土曜日・翌日曜日は家族ふれあいの日により、18歳未満の子を同伴する保護者(都内在住、2名まで)は一般通常料金の半額(住所のわかるものをご提示ください)。販売は東京都美術館カウンターのみ。
・身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方とその付添いの方(1名まで)は無料。
・18歳以下、高校生、大学生・専門学校生、65歳以上の方、各種お手帳をお持ちの方は、いずれも証明できるものをご提示ください。
主催:東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団)、東京新聞、フジテレビジョン
協賛:DNP大日本印刷
特別協力:丸沼芸術の森、ユニマットグループ
協力:ワイエス財団、日本航空
後援:アメリカ大使館、ビーエスフジ 
お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)

【巡回情報】
豊田市美術館
会期:2026年7月18日(土)~9月23日(水・祝)
あべのハルカス美術館
会期:2026年10月3日(土)~12月6日(日)