描かれた窓から“目に見えない世界”へ――「境界」をたどる没後初の回顧展『アンドリュー・ワイエス展』大阪レポート
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『アンドリュー・ワイエス展』 撮影=SPICE編集部(大西健斗)
会場風景
10月3日(土)より、大阪・あべのハルカス美術館にて『アンドリュー・ワイエス展』が開幕した。20世紀アメリカ美術を代表するアンドリュー・ワイエス(1917〜2009)は日本でも大人気の画家。国内で17年ぶり、そしてワイエスの没後初めての回顧展となる本展では、日本初公開の15点を含む100点の作品が国内外から集結。本展ではワイエスの画業を紐解きつつ、作品に数多く登場する窓や扉などのモチーフを通して「境界」という概念にも光を当てる。東京・豊田(愛知)会場を経て、最後の巡回地となった大阪展から展示される作品もあり、会期中には展示替えも行われる。ぜひ何度でも足を運び、ワイエスの手とまなざしから生まれた境界を味わってほしい。本記事では、開幕に先駆けて行われた記者内覧会の様子をレポートする。
ワイエスが愛したバッハの名曲をフルート演奏
フルート演奏家・須崎成美
記者内覧会では、最初にあべのハルカス美術館 浅野秀剛館長が挨拶。館長が初めてワイエスの絵を見たという1970〜80年代のアメリカ美術は、ポップアート全盛期。「ワイエスの絵を見たとき、俯瞰の視点と全体に流れる哀愁を感じ、『アメリカ絵画にこういう作品があるのか』と深い感銘を受けた」と懐かしそうに振り返った。
学芸員による作品解説の前には、なんとサプライズが。生前ワイエス本人とも交流があった、フルート演奏家・須崎成美氏によるフルート演奏が行われた。ワイエスの妻・ベッツィから「毎朝あなたの演奏をアンドリューと一緒に聴いているのよ」という言葉をかけられたというエピソードも明かし、ワイエスが愛したバッハ作曲の「サラバンド」を、《クリスティーナ・オルソン》(1947年 テンペラ、パネル マイロン・クニン・コレクション、ミネアポリス)の絵の前で演奏した。
本作品は「第3章 ニュー・イングランドの家ーオルソン・ハウス」の章に展示されており、フルートの美しい音色に乗って、ワイエスも暮らしたオルソンハウスの空気や、彼が敬愛したオルソン姉弟(姉のクリスティーナ、弟のアルヴァロ)との日々の営みがふわりと浮かび上がってくるようだった。
第1章 ワイエスという画家
展示風景
ここからはあべのハルカス美術館 浅川真紀上席学芸員の解説をもとに、各章の展示内容を紹介しよう。
本展は全5章で構成される。英語の副題は「Boundaries or Windows」=「境界あるいは窓」。ワイエスの絵には窓や扉のモチーフが多く描かれるが、「生と死」のような確固とした境界線や、「外と内」という物理的な境界線だけではなく、実に多様な解釈がある。浅川氏はその解釈を鑑賞者に委ねる。絵から想像して読み取り、判断してほしいと語っていた。
アンドリュー・ワイエス
1917年にアメリカ・ペンシルヴェニア州・チャッズ・フォードで5人きょうだいの末っ子として生まれたワイエスは、身体が弱く学校に行けなかったものの、大自然と移民コミュニティとの交流の中で育った。15歳の頃、父であり超人気挿絵画家のニューウェル・コンヴァース・ワイエス(N.C.ワイエス)の手ほどきを受け、めきめきと画家としての頭角を現した。戦後アメリカ美術の前衛的な動きからは距離を置いて、故郷のペンシルヴェニア州と、家族で夏を過ごした避暑地のメイン州を拠点に、自身の身近な世界を描き続けた。
メイン州とペンシルヴェニア州は、アメリカ建国の歴史に深く関わる州。「アメリカの気候風土も含めた風景、人々の暮らしをこれほど肉薄して描いた画家はなかなかいない。そういう意味ではアメリカを描いた国民的画家だと言って差し支えない。アメリカ建国250周年の今年、日本でワイエスの絵を見られることは本当に意味がある」と浅川氏は語る。
アンドリュー・ワイエス《自画像》(1945年 テンペラ、パネル ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、ニューヨーク)
本展覧会は、1945年に偉大な父を不慮の事故で亡くしたワイエスが同年に描いた《自画像》からスタートする。野原で小脇にスケッチブックを抱え、険しい表情をしたワイエスの表情からは、喪失の悲しみと同時に「ここから自分で荒野を行かねば」という覚悟や決意も読み取れる。以来、生と死を強く意識した作品を描き、独自の画風を築いてゆく。
「第1章 ワイエスという画家」では、メイン州とペンシルヴェニア州の風土や生命の営みを色濃く描く作品や、挿絵画家の父の影響を受けたと思われる初期の作品などが展示されている。ベッツィ婦人、クリスティーナの死後にいくつかの作品でモデルをつとめたシリ・エリクソンの交際相手デイヴィッド・エームズといった、彼の身近な人が丁寧に描かれる。全体的に色数が少なく寂しげな印象を受けるが、光へと視線を誘う構図や色遣いは計算されており、その緻密さに舌を巻く。
第2章 光と影
展示風景
ワイエスの作品の大事な要素は「光と影のコントラスト」。光と影を巧みに描き分け、ときに大胆な構図を作り、そのコントラストを描き出す。ワイエスの絵を見た際心が打たれる感覚があるのも、この光と影が大きく影響しているだろう。
室内、屋外、強い光、おぼろげな光、冬の雪の中の反射する光、灯台の光。作品の中で、さまざまに描かれる光と影。「光と影は、私たちの人生や生活の中に常にあるもの。ワイエスの絵には、自然と人間の両方の営みが交錯し合う様子が光と影に表れている」と浅川氏。窓や扉といったモチーフは空間をわかつ境界でありながら、両者を繋ぐものでもある。
アンドリュー・ワイエス《粉挽き場》(1962年 テンペラ、パネル フィラデルフィア美術館)
《粉挽き場》は、ワイエスが家族で引っ越したペンシルヴェニアにある自宅。荒涼とした風景ながら、描かれた鳩には新しい生活への期待と希望が託されているようだ。この場所がかつて戦地だったことから過去との境界を表し、また手前に描かれた有刺鉄線からは自分たちの新生活のテリトリーを守る境界線と捉えることもできる。鑑賞者がどんな境界を見出すのかは自由なのだ。
さらに、本展で注目してほしいのが「テンペラ」なる技術だ。これは、卵と水と顔料というシンプルな材料を混ぜ合わせて描く、中世からルネサンス期に発展した伝統的な絵画技法。乾くのが非常に早く描き直しができないが、経年変化に強く、緻密で重厚な表現が可能。ワイエスは、自身にとって大切な作品は大体テンペラで描いたという。加えて、平行線や斜線を重ねる技法「ハッチング」で描かれる緻密さにも驚くだろう。展示室で流れているテンペラ技法の紹介映像もぜひ見てみよう。
そして、いくつかの作品の近くに貼られている「ファインディング・ワイエス」の企画もチェック。絵の中に隠れたモチーフを探すヒントが書かれている。子どもも大人も一層作品鑑賞が楽しめるはずだ。
「ファインディング・ワイエス」
第3章 ニュー・イングランドの家ーオルソン・ハウス
展示風景
浅川氏が「この展覧会のハイライト」と述べたのが、「第3章 ニュー・イングランドの家ーオルソン・ハウス」だ。海風にさらされ、代々改築と増築が繰り返されたオルソンハウスに住んでいたのは、ワイエスの妻・ベッツィの長年の友人である、クリスティーナ、アルヴァロ姉弟。足が不自由ながら社交的で気高く優しい姉クリスティーナと、寡黙だがその姉を献身的に支える弟アルヴァロ。2人の人間性を愛したワイエスは、30年にわたり姉弟とオルソンハウスを描き続けた。
ワイエスが30年にわたり描き続けた「オルソンハウス」の扉を再現
オルソン家の扉を完全再現したドアに導かれて中に入ると、そこにあるのはクリスティーナが主役の部屋。
アンドリュー・ワイエス《海からの風》習作(1947年 水彩、紙 丸沼芸術の森)
中でも筆者が忘れられないのは、《海からの風》習作だった。今回は展示されていないが、ワシントン・ナショナル・ギャラリーに所蔵されている《海からの風》のために描かれた作品群で、浅川氏は「《クリスティーナ・オルソン》と《海からの風》には密接な関係がある」と説明。
ワイエスが、ずっと閉め切られていたオルソン家の3階の部屋の窓を開けたとき、海からの風がさっと吹き込んで、ボロボロにちぎれかけたレースのカーテンがはためいた。カーテンには鳥の模様がしつらえられていた。その瞬間、鳥たちがパッと飛び立ったように見えた。まさに海からの風が鳥たちに息を吹き込んだかのように、生命を取り戻すーー。ワイエスは、人生が変わるようなインパクトを受けて、髪の毛が逆立つような想いで、それを素描した。その興奮がありありと感じられる筆致、生命力を感じる画面から目が離せなかった。
アンドリュー・ワイエス《クリスティーナ・オルソン》(1947年 テンペラ、パネル マイロン・クニン・コレクション、ミネアポリス)
「それを知った上でこの絵を見ていただきたい」と浅川氏が言うのが、《海からの風》習作。クリスティーナの横顔の上に、窓とカーテンが重ねて描かれている。海からの風の鮮烈な体験を描き留めようと手元の紙を取ると、たまたまクリスティーナを描いた下絵だった。偶然の産物かもしれないが、偶然は必然だった。クリスティーナと海からの風は重なり合う。ワイエスはのちに「《海からの風》はクリスティーナの肖像画である」と語っている。何という美しさ。浅川氏は「風は人間に生命を吹き込むもの。この絵の前に立つ人に、クリスティーナが感じている風を間接的に感じてほしい」と想いを伝えた。
展示風景
展示を進んでいくと、オルソン家の模型と間取りが描かれたパネルが登場する。ありとあらゆる角度からオルソン家を描いたワイエス。台所、納屋、壁、窓、煙突、寝室、いつもクリスティーナがいる青い扉。ワイエスの絵に象徴的に登場する鳥も、やはりたくさん描かれている。
展示風景
そして、朽ちてゆく家と生命。ヒトデが飾られた白い窓(宝塚の舞台を手がける職人による渾身の再現!)を挟むのは、クリスティーナとアルヴァロが存命だった時のオルソン家《オルソン家の朝食》と、2人が亡くなった後のオルソン家《オルソンの家》。この展示方法はとても印象的で、白い窓を隔てることでオルソン家の時間と場所の境界に立ったような感覚になり、作品に深く想いを馳せることができた。
展示風景
《オルソン家の終焉》は、姉弟が亡くなった翌年に描いた作品。かつて煙突から聞こえてきた姉弟の話し声を思い出しながら描いたという。画面には2羽の白い鳥がいる。その鮮やかな存在感からは、追悼の意と愛情が伝わり、死が「終わり」ではなく「生と死の循環」であることを感じることができる。
アンドリュー・ワイエス《オルソン家の終焉》(1969年 テンペラ、パネル クリーブランド美術館)
第4章 まなざしのひろがり
アンドリュー・ワイエス《そよ風》(1978年 水彩、紙 福島県立美術館)
何度も同じ対象を描き続けたワイエスだが、クリスティーナの死後、幾人かのモデルを描いた後は、より幅広いモチーフに目を向けて作品を描くようになる。
《そよ風》は大阪展からの出展作品。モデルのシリ・エリクソンが窓辺に佇んでいる。やわらかな光、繊細な髪の流れ、肌の質感の美しさに息を飲む。クリスティーナの死の喪失を埋めるようにシリを描いたというワイエス。風になびく髪はクリスティーナを彷彿とさせる。シリの最愛の人であるデイヴィッド・エームズが描かれた《サンド・ダラー》とのリンクもじっくり見てみよう。
アンドリュー・ワイエス《花びら》(1991年 水彩、紙 ボストン美術館)
日本初出展のひとつが《花びら》。チャッズ・フォードにある自宅の夫婦の寝室を外から描いたもので、庭の姫りんごの木が満開の花を咲かせている。開かれた窓からは、姫りんごの良い香りが流れこんでいたことが想像できる。
個人的に印象的だったのは《納屋の猫たち》だ。納屋の中に描かれているはずの猫を探すが見当たらない。浅川氏は「これは不在の中の存在」だと説明。猫の餌ボウルが置いてあることで、猫の存在を感じられる。
第5章 境界あるいは窓
アンドリュー・ワイエス《ゼラニウム》(1960年 ドライブラッシュ・水彩、紙 ファンズワース美術館、ロックランド)
存在、空間、時間。ここまでワイエスの絵に描かれたさまざまな境界を通して、その意味合いの豊かさと複雑さを感じてきた。ワイエスが描いたのは自分がよく知る人物や風景だったが、それは単なる記録ではなく、自分の心に響いた瞬間だった。
《ゼラニウム》は、オルソンハウスの窓を描いたもの。窓の後ろに窓があり、その向こうには海が見える。部屋の中には敬愛するクリスティーナがいる。窓は閉じられているが、抜け感があるため閉じられた空間ではない。浅川氏は「クリスティーナは身体は不自由かもしれないけど、精神が開かれていることをこの絵から感じる。境界は一筋縄ではいかないし、とても多義的。私はできることならポジティブに捉えたい」と述べた。
アンドリュー・ワイエス《薄氷》(1969年 テンペラ、パネル 株式会社三井住友銀行)
薄く張った氷の下に沈む枯れ葉が描かれた《薄氷》は、日本で初めてワイエスのテンペラ画として公開されたもの。ワイエス自身が「『死』そのものをイメージした作品ではなく、自分が出会った人や重ねてきた経験を表現した」と語る作品だ。氷から1枚だけ顔を出す葉、たちのぼる気泡からは生命を感じ、絵の中で生と死の境界は「繋ぐもの」として描かれている。
目に見える世界だけを詳細に描くことが写実ではない、と浅川氏。「目には見えないがそこに宿る真実を写すのが“写実”だとすれば、ワイエスは目に見えるものと見えないものの境界線を取り払って絵を描くことができた人」と総括した。
アンドリュー・ワイエス《ヒトデ》(1986年 水彩、紙 フィルブルック美術館、タルサ)
本展を締め括るのは、初来日の《ヒトデ》。双眼鏡を持って海を覗くベッツィを、ワイエスはヒトデが飾られた窓越しに描いている。鑑賞者は絵の前に立ち、そのまなざしをたどる。一方、鑑賞スペースの背後には、絵の中の窓枠を再現した白い窓があり、第3章の通路からは、作品とそれを見つめる鑑賞者の姿を窓越しに眺められる。見る側が、見られる側にもなる。再現された窓から絵の中の窓へ、さらにベッツィが見つめる海へと、視線が幾重にも重なっていく。大阪展ならではの仕掛けを通して「境界」を体感できるのが面白い。
展示風景
作品を包む黒からグレー、白へと移ろうオーガンジーの布は、風に揺れながら、観る者を静かに作品の中へ誘ってくれる。ちなみに会場入口の布は、反対に白から黒のグラデーションになっているそう。入口と出口の呼応にも目を留めたい。
鑑賞後は、ワイエスが繰り返し描いた身近な人々や暮らしへのまなざしが、境界を超えて自分の心の中に入り込んできたことをしっかりと感じられるのではないだろうか。作品が放つ余韻にいつまでも浸っていたくなる、素晴らしい展覧会だった。
スヌーピーとのコラボグッズも登場
ミュージアムショップには、図録をはじめ本展オリジナルグッズが多数登場。「ピーナッツ」の作者、チャールズ M. シュルツは、作中でスヌーピーが自分の犬小屋にワイエスの絵を飾るほどの愛好家であることを描いている。そのコマを使った本展コラボグッズも登場しているので、ファンはお見逃しなく。
ミュージアムショップ
ミュージアムショップ
取材・文=久保田瑛理 撮影=SPICE編集部(大西健斗)
イベント情報
会場:あべのハルカス美術館(大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43 あべのハルカス16F)
会期:2026年10月3日(土)~12月6日(日) ※会期中、一部展示替えがあります
開館時間:火~金 / 10:00~20:00、月土日祝 / 10:00~18:00 ※入館は閉館30分前まで
主催:あべのハルカス美術館、産経新聞社、関西テレビ放送
協賛:DNP大日本印刷
特別協力:丸沼芸術の森、ユニマットグループ
協力:ワイエス財団、日本航空
後援:アメリカ大使館