演出家・丹野郁弓氏に聞く──奈良岡朋子・岡本健一主演『二人だけの芝居 クレアとフェリース』
『二人だけの芝居』の翻訳をてがけ、演出をする丹野郁弓さん
テネシー・ウィリアムズの到達点のひとつ、『二人だけの芝居─クレアとフェリース』に奈良岡朋子と岡本健一が挑戦する。「…これは非常に私的な、心の叫びである」とウィリアムズ自らが書き残し、『叫び』というタイトルで幾度となく推敲を重ねられた作品である。日本初上演。演出を手掛ける丹野郁弓氏に話を聞いた。
そもそもの上演のきっかけ
──テネシー・ウィリアムズの戯曲で『二人だけの芝居』を選ばれた理由を聞かせてください。
2013年に、ニューヨークのニュー・ワールド・ステージズで見たんですよ。
──ブロードウェイの舞台の役者は、誰と誰でしたか?
クレア役はアマンダ・プラマー、フェリース役は、映画『カッコーの巣の上で』(1975年)で精神病患者を演じたブラッド・ドゥーリフです。たしか、アカデミー賞の助演男優賞にもノミネートされてたと思う。
──調べたところ、ブラッド・ドゥーリフは『カッコーの巣の上で』でゴールデン・グローブ賞新人賞を受賞してました。
アマンダ・プラマーは前からすごく興味がある女優さんで……だけど、テネシー・ウィリアムズの後期作品がぐちゃぐちゃなのはわかってたし、二人だけの芝居だから、どうしようか思って。だけど、役者がよさそうだし、千秋楽で半額が手に入ったから見たんです。
それと以前より、岡本健一さんから、奈良岡朋子さんと芝居をやりたいというお話があったので、気にかけて戯曲を探していたんですけど、設定が、たとえば、お祖母さんと孫とか、お母さんと息子では、お二人に似合うと思わなかった。でも『二人だけの芝居』を見たときに、これならできるかもしれないと思って。きょうだいの話で……
──クレアとフェリースの設定は、きょうだいとなってますね。
芝居を見てると、本当は兄と妹だろうと思うんです。だけど、英語の戯曲には「ブラザー」「シスター」と書かれているので、実際には兄か弟か、設定が判然としない。そこで、テネシー・ウィリアムズがお姉さんのローズにトラウマを持っているとすれば、姉と弟という設定でもいけるんじゃないかと思ったのがひとつ。それから、見ているうちに「これ、年齢関係ないな」と思いはじめて、奈良岡さんと岡本さんで成立しそうだと思ったのが、そもそものきっかけです。
テネシー・ウィリアムズの新たな試み
──テネシー・ウィリアムズの作品をこれまでに演出されたことは……
これが2本目です。前には『青春の甘き小鳥』(1995年)が1本だけですね。
──『二人だけの芝居』には、いろんな仕掛けがしてあります。トリッキーな芝居といってもいいくらい……
おっしゃるとおり、トリッキーだと思いますよ。
──題名ですが、初演は『二人だけの芝居』だったのに、4年後、書き直して『アウト・クライ』、つまり『さけび』に改題しています。今回上演されるテキストは、いつのものですか?
いちばん最後のです。『アウト・クライ』をまた、さらに書き直したもの。
──作中で、フェリースが戯曲を書けなくて、これまでの台本に手を入れつづけるように、テネシー・ウィリアムズも『二人だけの芝居』を書き直しつづけたようですね。
興行的には当たらなかったけれど、執着して書き直したのは、この世界がテネシー・ウイリアムズの精神世界とぴったり符合するからだろうと思うんですね。
それから、『二人だけの芝居』は、彼にとっては新しい試みなわけです。それまで当たりをとった『ガラスの動物園』にしても『欲望という名の電車』にしても、ちゃんとストーリーがある。だから、そういうものとは切り離して、新しい演劇を構築するんだという意欲があった。それでこの芝居を何度も書き直している。
──複雑な設定になっていて、クレアとフェリースはきょうだいであると同時に、俳優同士でもあり、俳優と劇作家、俳優と演出家という関係にもなっている。
フェリースは劇作家ですよね。この劇団の座付き作家でもあるわけで、劇団員たちが、この二人を狂人と決めつけて逃げちゃったから、二人だけでやる芝居しかできなくなるわけです。
だから、この芝居がトリッキーじゃないかと思うのは、まず、クレアとフェリースが劇団員に置き去りにされて、とある寒い劇場に二人きりにされちゃう。にもかかわらず、これから観客が来る予定になっている。そこで二人芝居しかやれないから、それをおこなう。ところが、二人芝居の内容が、クレアとフェリースが幼かった頃の両親の暴力事件というか、両親の自殺・殺人行為を元にしているために、かれらの現実と二人芝居の中身とが、ごっちゃになってくるんです。そういう仕掛け、そのごっちゃになりかたが、非常にトリッキーと言えると思うんですけど……
年齢を超えた役者同士のぶつかり合い
──複雑な設定、トリッキーな仕掛けが見どころのひとつですね。
キャストのふたりは、すごく混乱したみたいですけど、実際に演技したり、読み稽古をくり返していくうちに、だんだん自分たちもわかってくると同時に、これは読むよりも見たほうがわかりやすいと。意味はよくわかんないけど、見てるとなんか面白い。
でも、過去を二人で解き明かすとか、謎を二人で繙(ひもと)いて結末に持っていくとか、そういう努力がいっさいないんですよ(笑)。じゃあ、何が面白いのかというと、やっぱり生(なま)の人間、この場合、奈良岡さんと岡本さんなんだけど、お二人が生で格闘しているさまが、このふたりが役者であるという設定と一(いつ)になって、夢か現(うつつ)かわからないものを、わたしたちが見ているという、その面白さだと思うんです。
役者という設定で、ただでさえ奇妙な性格設定なのに、そこに劇中劇が入ってきて、その劇中劇のあいだに、ときどき現実が入り混じって、ときには台本を勝手にカットしたり、飛ばしたり、忘れたり……そういういろんなものがない交ぜになってるから、なおのこと、役者としての技量というか、テクニックがはっきり見えてくるんです。そういう面白さは、たしかにありますね。
──二人の役者について伺いますが、大女優である奈良岡さんに対して、岡本さんは稽古場でどのように接していますか。
劇団のなかだと、奈良岡さんは大御所ですから、若い役者が奈良岡さんと対等に芝居することは、精神的にかなり大変だと思うんです。ですけど、岡本さんは奈良岡さんを怖れないところがいちばんいいですね。
──物怖じしない。
物怖じしないというか、怖がらない。精神的には対等に、奈良岡さんに対峙しているところがすごいなと思います。
──逆に、奈良岡さんから岡本さんに対しては、どんな感じでしょうか。
怖れないので、奈良岡さんも安心して、割と身を委ねるみたいなところがありますね。
──じゃあ、もう本当のきょうだいみたいな感じですね。
そうですね。だから、本当に岡本さんでよかったなと思います。二人には40歳という年の差があるわけだけど、それに関しては、この芝居を見てると違和感がないですね。
監禁された状態、劇場という牢獄
──ピアノや電話の音という聴覚的な要素、ティアラやオパールの指輪という小道具、マッチの炎という視覚的な要素が、舞台では重要な役割を果たします。そして「監禁」という言葉。
「監禁」という言葉、閉じ込められることに対する恐怖は、ものすごく大きな意味を持ってます。テネシー・ウィリアムズには精神病院に入っていた過去がありますから。『二人だけの芝居』を書いた時点では、最近の記憶としてあるでしょうし。
──テネシー・ウィリアムズのお姉さんはロボトミー手術を受けていますね。
お姉さんは人生のほとんどを精神病院で過ごして、精神病院で亡くなってますよね。さっき話題に出た映画『カッコーの巣の上で』でも、ジャック・ニコルソンが演じるマクマーフィーは、最後にはロボトミー手術を受けさせられて、廃人みたいになってしまう。だから「監禁」という言葉は、非常に大きな意味を持っています。
ただ、この二人は同時に演劇人でもあるので、劇場というものが自分たちの牢獄であるとはっきり認識していながら、そこから一歩も抜け出すことができないという宿命を背負っているわけです。だから、最終的には「監禁」されることをすごく怖れているのに、結局、監禁されることでしか、自分たちの居場所がないという認識にたどりつく。実際、本当に監禁されてしまうわけですよね。劇場を……
──劇場の楽屋入口にも正面玄関にも、すべて外から鍵をかけられてしまう。建物には窓もない。電話も外部とはつながっていない。
そうなったときに、じゃあ、もう一回、芝居をやろうと二人で始めて、殺しあいをするところまで行くわけですけど、本当に監禁された状態になったときに、殺す、もしくは死ぬということでしか、そこから逃れる術はないわけです。けれども、そのことにも二人は失敗してしまう。
殺しあうことができない二人は、最後は抱き合いというところにいくわけですが、この二人は、生と死とか、聖と俗とか、いろんなものの象徴だと考えられます。理性と情とか、愛と憎しみといった、相反するものがひとつに溶け合う。そんな感じなんだろうなと、今は思っています。
先入観なしに舞台を見てほしい
──ひさしぶりのテネシー・ウィリアムズの作品。しかも日本初上演になります。
劇団民藝では、アーサー・ミラーとテネシー・ウィリアムズの作品は、翻訳劇では上演数が多いんですが、アーサー・ミラーは社会派で、常にそこには社会に対する目がある。でも、テネシー・ウィリアムズからは、社会に対する目をそれほど感じたことがないんです。それよりも精神性が強い作家なので……
──圧倒的なイメージや幻視みたいなものに誘(いざな)われていきますね。
だから、筋を追ったり、社会的な意義は何かと考えながら芝居を見ると、なんだこりゃって言われるんじゃないかと思うんですけど、そうではなく、空っぽの状態で、先入観なしに見にきていただきたい。そうすると、生の役者が精神的にも肉体的にもぶつかりあっているという状況が、面白く見ていただけるんじゃないかなと思います。
──芝居についての芝居みたいなところもありますね。テネシー・ウィリアムズが、現実と芝居との関係を、頭のなかで芝居にしてみたという。
思うのは、やっぱりテネシー・ウィリアムズは徹頭徹尾、演劇人なんだな、芝居が好きなんだなって。だから、ふたつの要素がひとつになることで、テネシー・ウィリアムズ自身が統合されてるんだと思うんですね。彼自身も狂気と正気、男性性と女性性に引き裂かれているわけですが、そういうものが、彼のなかで統合されていく印象があります。だから、わたしはこの芝居をテネシー・ウィリアムズ自身だと思っているんです。
作家の頭のなかを覗きこむような楽しさもあります。だから、もうね、テネシー・ウィリアムズが芝居を好きなんですよ。この人はほんとに、他には生きていく手段がないんです。
(取材・文:野中広樹)
■日時:2016年4月4日(月)〜21日(木)
■会場:東京芸術劇場シアターウエスト
■作=テネシー・ウィリアムズ
■訳・演出=丹野郁弓
■出演=奈良岡朋子・岡本健一(客演)
■公式サイト=http://www.gekidanmingei.co.jp