エンタメ業界の今に切り込む新企画【ザ・プロデューサーズ】第二回・相馬信之氏
ザ・プロデューサーズ/相馬信之氏
編集長として”エンタメ総合メディア”として様々なジャンルの情報を発信していく中で、どうしても話を聞きたい人たちがいた。そう”エンタメを動かしている人たち”だ。それは、例えばプロデューサーという立場であったり、事務所の代表、マネージャー、作家、エンタメを提供する協会の理事、クリエイターなどなど。すべてのエンタメには”仕掛け人”がおり、様々な突出した才能を持つアーティストやクリエイターを世に広め、認知させ、楽しませ、そしてシーンを作ってきた人たちが確実に存在する。SPICEでも日々紹介しているようなミュージシャンや役者やアスリートなどが世に知られ、躍動するその裏側で、全く別の種類の才能でもってシーンを支える人たちに焦点をあてた企画。
それが「The Producers(ザ・プロデューサーズ)だ。編集長秤谷が、今話を聞きたい人にとにかく聞きたいことを聴きまくるインタビュー。そして現在のシーンを、裏側を聞き出す企画。
連載第二回目はサザンオールスターズ、福山雅治も所属するプロダクション株式会社アミューズ 常務取締役であり、ONE OK ROCKやflumpoolが所属するレーベル株式会社A-Sketch 代表取締役社長でもある相馬氏に聞いた。様々な事業を手掛ける革命児の言葉を聞け!
――まず相馬さんがエンタメ業界を目指そう、アミューズに入ろうと思ったきっかけから教えてください。
出身が熊本県で、大学まで熊本にいました。大学でバンドをやっていて、プロになれたらいいなと漠然と思っていたのですが、大学三年生の時に自分に才能がないとわかり、バンドやめ、大学の隣にあった山小屋みたいな喫茶店が大好きで入り浸っていたんです。その喫茶店には当時アナログレコードが2500枚くらいあって、夜はバーになって、ジャズとかを流すところで、ここの物置みたいなところに住み込みでアルバイトをしていました。ある時、ちょうど僕の10歳上のマスターが店を辞めると言って、僕が卒業後に店を引き継ぐことになったんです。アナログレコードを置いていってくれるというし、喫茶店のマスターもいいなと思っていましたので。大学4年の夏休み、周りは就職活動しているのに僕は喫茶店を引き継ぐ予定になっていたので暇だったのですが、マスターが「若いんだから旅して来いよ」と言ってくれました。それもありかなと思って、どこに行こうかと酔っぱらって地図を広げて、行くなら南に住んでるから一番北でしょとなり、北海道の礼文島にしました。それでマスターに寝袋だけ借りて、餞別に5000円貰って、貯金と合わせて3万円持っての出発でしたね(笑)。
――破天荒ですね(笑)。
酔った勢いで行先を決めてしまって、次の日、しまった!と思ったんですけど、礼文島に行くってマスターに宣言して寝袋も借りた後だったので、後には引けずにヒッチハイクで礼文島を目指しましたが、着くまでに1か月くらいかかりました。
――礼文島では何をしていたんですか?
ようやく礼文島に着いて2日ほどぶらぶらと島を探索して、思い出した様にマスターに電話をしたら、「実家から何回も電話がかかってきてる」と言われ、連絡をしたら、埼玉に住んでいる祖母が亡くなっていて、でももうその時点では葬儀も終わっていました。「就職活動もせずに何してるんだ!」と、親にすごく怒られて、すぐに埼玉に向かったのですが、お金もないのでまたヒッチハイクで、10日くらいかかりました(笑)。着いたら着いたでまた親戚にボロクソに言われ、頭に来て、ちょうど千葉の市川にいた大学の先輩のところに向かって、しばらくお世話になりました。先輩のところで遊んでいて、たまたま新聞を開いたらアミューズが社員の募集をしていたんです。
――ようやく入口が見えてきました。
「きみがほしい!」というダサいキャッチコピーで社員募集していました(笑)。なんだ?と思って読んだらサザンオールスターズ、富田靖子、三宅裕司が所属って書いてあり、おもしろそうだなと思って、冷やかし半分で履歴書を書いて代官山の事務所に持っていきました(笑)。そうしたらすぐに「明日面接受けられますか?」という連絡をもらい、面接を受けました。その後二次面接にも受かって、筆記試験を受けてくださいと言われ、三次面接までいって、それが終わって、またヒッチハイクで一週間くらいかけて熊本に帰りました。熊本に着いた日にアミューズから最終面接に来て下さいと書かれた封筒が届きました。東京までの旅費もないですし、断ろうと思ったら航空券が一緒に入っていまして、それまで飛行機に乗ったことなかったので、乗りたくて(笑)、日帰りでアミューズの最終面接を受けに行きました。
――色々なタイミングが合致して、導かれるようにアミューズに入社した感じです。
最終的に合格通知が届いて、今度こそ断ろうと思ったら喫茶店のマスターが、親御さんのこと考えると大学まで行って喫茶店のマスターはないだろうと思ったらしくて「2年くらい東京で頑張ってこい。2年東京で社会人をやったら、人の人生に対してマスターとして、アドバイスできるだろうし、その間俺が店をやっておくから」と言ってくれまして、何となく納得して上京し入社しました。そうしたら、半年後にお店がつぶれて、マスターもいなくなり、熊本に帰れなくなったんです。それでアミューズで頑張らなきゃならなくなったのです。僕はどちらかというと洋楽のロックとかジャズ・フュージョンとかが好きでしたので、J-POPとかニューミュージックとかにはあまり興味がなかったんです。ところが、新人研修で、桑田さんのレコーディングスタジオに行った時に、この人すごいなぁと思ってしまい、喫茶店も潰れたし、面白そうなのでこのままがんばろっかなぁ!という感じで、志とか熱い思いとか全くない人でした(笑)。
ザ・プロデューサーズ/相馬信之氏
――(笑)。で、研修を終えられて、最初の担当がサザンオールスターズだったんですか?
そうですね。といってもとにかく、桑田佳祐凄い!ってそこにしか目がいってなくて、他の研修の現場はボイコット気味な感じになっていました(笑)。
――……許されてたんですか?(笑)
だから先輩たちからは恐らく嫌われてましたよ(笑)。で、例えば他のセクションに研修に行っても、夜7時に終わったら、毎日そのまま桑田さんが作業しているスタジオに行っていました。それでまあ仕方ないなぁという感じで、サザンの現場に配属された感じです。
――いきなりあの桑田佳祐さんの現場に配属されたというのも、言ってみればラッキーですよね。
1987年で、ちょうど桑田さんがKUWATA BANDも終わり、新しいトライアルをソロでやりはじめていた時で、おもしろかったですよ。自分にとっても色々と勉強ができる一番いいタイミングだった気がします。
こう言うと誤解を生むかもしれませんが、僕はうちの会社の誰からもきちんと仕事教えてもらったと思ってないんですよ(笑)。というのも当時桑田さんはレコーディングを中心に朝から真夜中まで仕事浸けで、その上、飲みにいくのにも、たまのオフにもずっと同行させてもらっていたので、事務所の先輩達との距離は遠くて、仕事の接点もほとんどない感じでした。そういう意味では仕事の僕の師匠は桑田さんですね(笑)。桑田さんからはアーティストとしてマネージャーに期待する事を前提に「お前違うじゃん、お前こうじゃん」とか言ってもらえて、「最近、飯食ってる?疲れてない?」みたいな何気ない一言をかけてくれてマインドの部分でもケアをしてもらいましたし、「お前、そういうことをここで言うなよ、辛いときには嘘でも良いから元気なふりするんだよ」とか、スタッフとしての心構えを、すごく細かいところまで教えていただきました。
――まさに師匠と弟子の関係みたいですね。
いろんな失敗をして迷惑もたくさん掛けましたし叱られもしましたが、桑田さんがいなかったらこの仕事を続けていなかったと思います。
――サザンをずっとやられている間は、もうここに骨を埋めようって気持ちになっていたんですか?
うーん……。とにかく休みがなかったのでそんな事をくよくよと考える時間もありませんでした(笑)。当時ローディー(ミュージシャンの使用する楽器の運搬やセッティング等をするスタッフ)がいつもいるという概念がありませんでしたから、僕のマイカーはアミューズの4トン機材車でした(笑)。サザンのレコーディグ用の楽器積んで家に帰っていました。サザンはずっとビクタースタジオの401スタジオでやっていたのですが、たまに301になったり、違うスタジオの時もあって、その時に一人で機材をばらして、一人で積み込んで、次の日の朝からまた全部セッティングして、ドラムやパーカッションを組み立てて、エフェクターをセットしてアンプもつないで、それが終わったら、タバコを買いに行ったりコーヒーを淹れたり、丁稚奉公みたいなことをずっとやっていました。楽器のチューニングもやっていましたが、バンドをやっていたとはいえドラムのことはよくわからず、で、ドラムの弘(松田弘)さんがスタジオに入ってきて、自分でセットを直したりチューニングとかをやったら、その後自分でもそこに座ってみて、角度とかチューニングとか、ハイハットはこの辺で、トップはこの辺でとか全部感覚で覚えました。それで次にセッティングしてもやっぱり本人が直すんです。その時は「今日も直された~」って自分で悔しがってました(笑)。それと、いつもメンバーにコーヒーを入れていたのですが、コーヒーのおかわりを淹れるときに、捨てる前に残っているのをちょっと味見するんです。砂糖とかミルクとかどれくらい入ってるかメンバーの好みの味を覚えました。それで「美味しいじゃん!」って言われるとガッツポーズ、みたいな、そんなスタートですよ。とにかく気に入られたかったんです。当時はサザンしか見えてなかったので、サザンのメンバーにNG出されたり、桑田さんにNG出されていたら、多分アミューズにいなかったと思いますね。
――そしてそんな経験を重ねて来てマネージメントの仕事とは一言でいうと何であると思いますか?
マネージャーという仕事は、この歳になってもわからない事だらけですが、アーティストの価値を上げることが全てだと思っています。つまりその人の才能の価値を上げるということです。その価値のある人が作り上げるのが、音楽や映画、舞台だとしたら作品ってプライスレスじゃないですか。価値がある人の作品はみんなが欲しがるから高く売れます。だからマネージャーの仕事は、そのアーティストの才能の価値を上げていくために、どれだけの刺激とか人脈とかを集めて与えられるかということが、一番大きいことだと思います。
――アーティストにネタや刺激を与え続けて、新しい人脈を繋いでクリエイター魂をくすぐり続けて、いい作品を生み出してもらうお手伝いですよね。
そうです。アーティストはやはり吸収力がすごいです。レコーディングやCM撮影で海外に行っても、例えば桑田さんがニューヨークの街を一日歩くだけでも、とんでもなく様々な事を吸収するんです。当たり前ですが、ものの見方とか感じ方とかが完全に僕達とは違うんです。夜、お酒を飲みながら話をしていると、なるほど!という話をいつもしていましたね。海外とか日常と違う環境に身を置くとすごく“充電”してくるんですよね。ソングライターって、当然ですが毎回名曲を作れるわけではなく、コンスタントにヒット曲を作れるわけではないと思うんです。とにかくある程度続けていくことができるというのは、それだけ“充電”と“放電”をきちんとやってる人たちだと思います。“放電”しっ放しだと枯れちゃうじゃないですか。でも出来上がってくる新曲は今もどれも素晴らしく、そういう作品をずっと作り続けているところが凄いですし、 何十年も創作し続けるということは、やっぱそういうことだと思うんですよね。
――現場での実績を上げ、キャリアを重ねてくるとどうしても役職が付いたり、経営側に近くなっていきます。
そうなっていきますけど、うちの会社は優秀なマネージャーが多いので現場の仕事はどんどん任せていきました。それで、自分が最初にやらなければいけないと思ったのは、流れが速い音楽業界の中で、どうやって自分達とアーティストの収入を減らさないように売上げを上げていくか、権利をきちんと守るかということでした。2005年頃から急激にCDの売上げがシュリンクし初めていて、これから配信の時代が来るのであれば自分たちのレーベルを作り、そこから音楽を発信していかなければと思い作ったのがA-Sketch(エースケッチ)なんです。配信の印税をきちんとアーティストに他よりも多く分配できることを前提に。
――結局それがアーティストの創作活動の原資になります。
そうなんですよね。アーティストのモチベーション上げることは大切です。アーティストが作品のクオリティを上げていくためのことを、僕たちがどれだけできるかです。だからレーベルを作ったり、グッズの会社を作ったり 、東南アジアが面白そうだからツアーを組んでみたり……。
ザ・プロデューサーズ/相馬信之氏
――A-SketchはKDDIと作ったものですが、そのきっかけを教えて下さい。
CDが売れなくなってくるということは、CDショップに足を運ぶ人も少なくなるということで、危機感を持っていました。そうした時に、懇意にして頂いていた自動車メーカーの方と食事をする機会があり、その方が「今は車を売るというよりも、車に乗ったら楽しいんだという体験を多くの人にして欲しい。休日に販売店に人を集めて、試乗してもらう事が大切なんですよ」という話をしてくれました。その販売店は当時、全国に1000店くらいあって、車は家族のために買うという人が多く、メインターゲットは家族連れでした。ということは、サザンのCDを販売店に置いたら、普段CDショップに行かない人にもアピールできるのではと思いました。それで「サザンのCDを販売店に置いたらだめですか?」と聞いたところ「面白いねー、でも無理だねー」と言われました(笑)。絶対いいアイディアだと思ったんですよね。その後でKDDIの方と会った時にその話をしたら「auショップはもっと店舗数があるし、しかも駅から近い街の中心だし、そこにあったほうが面白いですよね?」と言って下さって、それで「レーベル作りませんか?」と相談しました。しかも配信メインで、CDはauショップだけで売るとか、今までにはなかった取り組みで面白いですねと盛り上がって、で、半年後にA-Sketchを作りました。
――発想もそうですが、おもしろいと思ったら即断即決でやるというところがすごいですよね、アミューズさんもKDDIさんも
そういう意味でいうと、やはりアミューズの社風は大きいです。この話を持って行った時も、大里会長も畠中社長も「やれば」って言って止めないんですよ(笑)。ありがたいです。いざA-Sketchを立ち上げるとなった時に、新しいレーベルだから、まずは新人をデビューさせようということになりました。