過去と未来をつなぐカリオストロ――宝塚歌劇団雪組公演『ルパン三世―王妃の首飾りを追え!―』/藤原麻優子

レポート
舞台
2016.12.12

0)はじめに――なぜ宝塚歌劇版『ルパン三世』 か?

  2014年に劇団創設100周年を迎えた宝塚歌劇団により、『ルパン三世―王妃の首飾りを追え!―』が上演された。宝塚大劇場公演が2015年1月、東京宝塚劇場が2月~3月であるから、劇団101年目の最初を飾る作品である。タイトルからわかるようにモンキー・パンチによる漫画およびアニメ『ルパン三世』のアダプテーションではあるが、特定の作品を原作に据えた舞台化ではない。作・演出の小柳奈穂子はタイム・スリップという奔放な設定を持ちこんで自由な作品を作りあげ、音楽もアニメでおなじみの大野雄二によるテーマ曲と青木朝子による宝塚歌劇オリジナル曲とで構成されている。小柳が公演プログラムで述べている「自由」というコンセプトは、出演者たちに宝塚では珍しいアドリブを許す余地をも生みだした。早霧せいな(ルパン)、望海風斗(カリオストロ)らによる数多のアドリブを見逃さんとする熱心な宝塚歌劇のファンと、『ルパン三世』ファンと見受けられる男性客とで客入りは上々だったようだ。 

 しかし実際のところ、芝居としての出来はあまりよくなかったと思われる。『ルパン三世』と宝塚歌劇を接合する努力は認められる。ルパンら一行がタイム・スリップするという設定もそのひとつであるし、『ルパン三世』には欠かせないエロチックな要素をアクシデントとして処理する(姿勢を崩した男性の手が偶然に都合よく女性の胸を触るいわゆるラッキー・スケベ)演出も着地点としては適当だろう。一方で、大人数でルパンを追跡する場面に顕著なように、軽妙なドタバタ劇になりきれずにただのドタバタとした劇に終わっている場面が目立った。プロットの整合性も疑わしい。タイム・スリップには「王女の首飾り」「マリアの涙」「死にたての鼠」の3つが必要だという設定で、そもそもこれらが偶然揃ったことによってルパンらは過去のパリに行くことになるのだが、最後のタイム・スリップでは鼠については言及もされずにルパンら一行は現代に戻っていく。鼠はどこに消えてしまったのか。

 それでも本稿で『ルパン三世』を取りあげるのは、まず、この公演が宝塚歌劇の101年目に上演された新作のひとつであって、現在の宝塚歌劇のありようにおいて重要な作品だと考えられるからだ。さらに、現在流行するいわゆる「2.5次元ミュージカル」――漫画やアニメを原作とするミュージカル――と宝塚歌劇の交点にある作品であるという点からも、一考に値する作品であるように思われる。これを明らかにするために、本稿では劇中の登場人物カリオストロに着目する。カリオストロはなぜこの作品に登場するのか、何をしているのか、作品においてどのような存在なのか。これらの問いを通して同作についての一考を試みたい。

1)カリオストロはなぜそこにいるのか?――『ルパン三世』と『ベルサイユのばら』の架橋

  宝塚版『ルパン三世』の物語は現代のヴェルサイユ宮殿から始まる。銭形警部らが警備を固める宮殿にルパン三世、次元大介、石川五エ門らが忍びこみ、マリー・アントワネットの首飾りを盗もうとするが、なんと偶然に過去にタイム・スリップしてしまう。こうして、劇は一行が現代に戻るためのアイテム集めとその過程でルパンが出会うアントワネットとの関係を描いていく。

 ポイントは、タイム・スリップ先がフランス革命前夜の1785年というところにある。王宮の人々の会話によれば、アントワネットはどうやらフェルゼンを故国に見送る辛い別れの後らしい。メルシー伯爵やジャンヌといった『ベルサイユのばら』でおなじみの名前も次々と言及される。また、ルパンを追跡するダンス場面の振付、アントワネットの入る牢獄や処刑場面の舞台美術は明らかに『ベルサイユのばら』を意識したものだ。つまり、宝塚版『ルパン三世』でルパンらがタイム・スリップしたのはニュートラルな過去のパリではなく『ベルサイユのばら』を下敷きとするパリだということができる。

  宝塚版『ルパン三世』の舞台としてのパリ、すなわち『ルパン三世』と宝塚歌劇という一見予想外の翻案の着地点を用意するのがカリオストロという人物だと考えられる。もともとカリオストロは18世紀末のパリを生きた実在の人物で、彼が巻きこまれた首飾りをめぐる詐欺事件はアルセーヌ・ルパンの活躍を描くモーリス・ルブランの小説に登場している。『ルパン三世』シリーズではもちろんアニメ映画『カリオストロの城』の悪役だ。一方『ベルサイユのばら』も首飾り事件と無関係ではない。事件の首謀者ジャンヌは『ベルサイユのばら』では主要な登場人物ロザリーの姉として登場する。カリオストロは、もともと『ルパン三世』『ベルサイユのばら』それぞれのフィクショナルな世界に存在する人物なのだ。

  宝塚版『ルパン三世』は、『ルパン三世』の登場人物たちを『ベルサイユのばら』の世界に迎えいれることで同時に『ルパン三世』を宝塚歌劇に迎えいれている。カリオストロはこの2つの世界を架橋する存在として作品に呼びだされている。宝塚版『ルパン三世』という翻案コンセプトを実現する鍵はカリオストロにあるといえる。

2)カリオストロの錬金術とタイム・スリップ

  では、宝塚版『ルパン三世』の作品内においてカリオストロはどのように位置付けられるだろうか。確認するが、この物語世界はタイム・スリップの起きうる世界である。荒唐無稽な設定に脚本と演出が最低限の説得力を与えられていたかは疑わしいし、「どうやらタイム・スリップしてしまったようだ」の一言で異常な状況を受けいれてしまうルパンらもキャラクターとして真実味に欠ける。しかし、本稿で注目するのは作劇の巧拙や説得力の有無ではない。タイム・スリップという前提である。

  というのも、タイム・スリップを成立させるのもまたカリオストロであると考えられるのだ。タイム・スリップと同様に荒唐無稽に聞こえるかもしれないとはいえ、カリオストロは錬金術師である。史実のカリオストロも錬金術師を名乗っていたし、『カリオストロの城』のカリオストロは贋札作りを現代の錬金術と称した。宝塚版『ルパン三世』ではカリオストロの錬金術は時間を越えることができる。『ルパン三世』を宝塚歌劇において翻案するにあたって、つまりルパンらを『ベルサイユのばら』のパリに送りこむにあたって、宝塚版『ルパン三世』はタイム・スリップという設定を採用した。この設定はカリオストロの錬金術と不可分の関係にある。カリオストロは、錬金術師として宝塚版『ルパン三世』のユニークな物語世界の基盤を提供しているのだ。

  ここではひとまず、カリオストロを第三の存在と呼びたい。少なくともタイム・スリップという題材はカリオストロに2つの世界をつなぐ便利な接着剤という以上の役割を与えているし、物語の主人公であるルパン三世、彼の興味の対象であるアントワネットに次いで主要な登場人物でもある。なにより、ルパンが『ルパン三世』に由来する人物、アントワネットが『ベルサイユのばら』に由来する人物であるとき、カリオストロはどちらの世界のカリオストロ像にも依拠しない人物であるからだ。

3)カリオストロの物語――最後に笑う男

  さて、それではカリオストロは具体的にどのような人物なのだろうか。一言でいうならば、自由さを謳歌する人物ということになるだろう。彼は、同作が『ルパン三世』『ベルサイユのばら』のアダプテーションであることから課せられる人物造形の制約から自由だ。

 たとえばルパンであれば、ルパン三世という一定のキャラクターの枠から出ることができない。物語において何が起きようとも結末においては『ルパン三世』シリーズの人物像へと戻っていかなければならないということは、ひとつの劇の登場人物として変容の可能性を決定的に奪われているということでもある。対して、カリオストロには劇を通じて変容することが許されている。実際、カリオストロは偽の錬金術師から真の錬金術師へと見事な変容を遂げるのだ。劇が始まった時点ではカリオストロは錬金術風の詐欺で小銭を稼ぐ男にすぎないが、実は真の錬金術への思いを捨てきれずに貴重な本を書棚に忍ばせてもいる。自嘲をこめて自らを詐欺師と称するカリオストロは、未来からやってきたというルパンに錬金術の可能性をふたたび見出し、タイム・スリップを操る真の錬金術師となる。最終的にはカリオストロの技は錬金術を越えてほとんど魔術となっているのだが、それだけ自由にカリオストロが変容しているということでもある。

 カリオストロの自由さを別の位相から指摘することもできる。役と演技の位相である。ルパン(早霧せいな)や銭形(夢乃聖夏)では、あるときにはがにまたでいびつな漫画的姿勢、あるときには律された男役の姿勢が表れるといった具合で、『ルパン三世』に由来する2次元的身体と宝塚の男役としての身体がひとつのキャラクターとして統合されることがない。

 対してカリオストロには漫画的身体を再現するという制約がなく、さらに錬金術師を標榜する詐欺師といういささか胡散臭いキャラクターであるために、男役の誇張された演技を存分に発揮することができる。特に、詐欺の一環としてカリオストロがあやしげな未来予知を行う場面は、宝塚歌劇のレビューを思わせるミステリアスでエキゾチックな演出となっている。ルパンや銭形が2次元的な演技と男役の演技のはざまをさまようとき、カリオストロは男役としての歌、ダンス、演技を利用してキャラクターが構築されていく。宝塚版『ルパン三世』のカリオストロは演技のうえでも自由なのだ。

 これらの自由さの先で、最後にカリオストロは笑う。なんとか現代に戻ることができたルパンたちの前に、プロット上はお役御免となったはずのカリオストロが現れ、ルパンのものになりかけていた首飾りの行方をひっかきまわしていくのだ。すべてが一件落着したかにみえたタイミングに高笑いしながら登場するカリオストロのインパクトは相当なものだ。もちろん、宝塚歌劇の主役であるルパンにはこの後にエンディング・テーマを歌う場面が与えられているのだが、ここにいたってカリオストロは『ルパン三世』と宝塚歌劇を架橋するという役割を完全に逸脱している。

4)おわりに――第三の声を聞き取ること

 最後に、『ルパン三世』の結末でカリオストロが笑うことの意義を指摘して本稿の終わりとしたい。

 100周年の宝塚歌劇のラインナップは『風と共に去りぬ』『ベルサイユのばら』『エリザベート』などの大作・名作の再演に彩られていた。とはいえ、101年目の宝塚歌劇はけしてバラ色ではない。過去に目を向ければ、『ベルサイユのばら』が課題を投げかける。『ベルサイユのばら』といえば1974年の初演以来宝塚歌劇の代名詞となっているが、同作だけが宝塚歌劇ではない。むしろ、興行においても創作においても『ベルサイユのばら』頼みにならない状況をどのように作りだすかが大きな課題となっている。

 同時代のミュージカルの潮流も課題を突きつける。近年流行のいわゆる2.5次元ミュージカルは、『ベルサイユのばら』などと同じく漫画やアニメを原作とするものの、演者の芝居・歌・ダンスの実力よりも原作のキャラクターとの視覚的な同一性を重視し、男女の恋愛を排し、「キャラ萌え」を重視する。起承転結の明確な物語によって男女の恋愛を描く宝塚歌劇とは、作品作りが大きく異なるのだ。

 過去の遺産のマンネリに陥らず、かつ流行の後追いにもならずに宝塚歌劇の未来をどのように切り拓くのか。このような状況で上演されたのが宝塚版『ルパン三世』である。

 本稿の分析からは、原作『ルパン三世』のキャラクターたちを『ベルサイユのばら』の世界へと迎えいれることで成立する宝塚版『ルパン三世』という見取り図を描くことができる。さらに、この見取り図には101年目を迎えた宝塚歌劇のありようを重ね見ることができる。つまり、『ベルサイユのばら』という宝塚歌劇の過去の遺産、『ルパン三世』という同時代の2.5次元ミュージカル、そして第三の存在カリオストロという宝塚歌劇の未来の模索である。実在の人物にまでさかのぼることのできる翻案の産物でありながら、翻案と翻案の重なる地点でカリオストロはたしかに自身の声を獲得し、宝塚版『ルパン三世』のオリジナリティの要となり得ている。だからこそ、最後に笑うのはカリオストロなのだ。

 そして本稿では、この声に過去と現在を引き受けながら宝塚歌劇としての未来を指向する作家の声もまた聞きとりたい。なぜなら、おそらくはこれこそが、100年の次へと向かう宝塚歌劇に必要な創作の態度なのだから。

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