誰かにとっての日常を写す写真家・フジモリメグミ インタビュー 笑顔で語る「写真家で生きていくこと」への覚悟とは
フジモリメグミ
震災をテーマとしたシリーズ「after311」や、当たり前の日常を映し出そうと試みる作品が注目を集める写真家、フジモリメグミ。アーティストとしての活動のみならず、ギャラリーの運営や写真学校での講師など幅広く活躍する彼女にインタビューを行った。キュートな笑顔で人を惹きつけながらも、ちょっと不思議な魅力に溢れたフジモリ。内に秘めた写真への思いやアートシーンへの考えなどを通じ、写真家としての決意にあふれた彼女の人となりに迫る。
©フジモリメグミ
――まずは、写真を始められた経緯をお聞かせいただけますか。
高校が美術系の学校で、油絵を描いたり彫刻をやったりしていました。ある時、学校の廊下に『世界報道写真展』のポスターが貼ってあるのを見て、それにすごく心惹かれたんですね。その時に展示を見に東京都写真美術館に行ったのがきっかけです。そこから興味を持って、写真の勉強をしようと思いました。
――なぜ『世界報道写真展』がそこまでのインパクトを与えたのでしょう?
あの頃って、9.11のテロがあった年だったので、過激な写真が多かったんです。でも私はそこから、過激さだけではなく力強さを感じました。ダイレクトじゃないですか、写真って。「真実を写している」という感じが当時の私にはすごく新鮮でした。絵画にちょっと飽きてきていたっていうのもあって、写真をやってみようと切り替えたんです。
――その後進学された専門学校では、女の子の格好にコスプレした男性、通称”男の娘”の写真などを撮っていたそうですね。
はい。当時在籍していた学科がドキュメンタリー写真系だったので、社会的な背景をテーマにするのが正しいという教育を受けていて、そのことにかなり影響を受けて作品製作をしていました。あの頃はジェンダーの問題などで悩んでいる時期で、よくそのことを考えていたので、それが"男の娘"の作品に直接繋がっていますね。
――現在も撮影される際は社会的なテーマから掘り下げている?
そうかもしれません。関東近郊でみられる震災の爪痕を撮影した「after 311」というシリーズは、東日本大震災の直後に撮り始めた作品です。そのシリーズを撮り始めたすこし後に、津波で流された写真を洗浄するボランティアに通っていたんですが、そこで、ごく普通の家族写真をたくさん見ているうちに、「写真そのものが持つ本来の力ってなんだろう」ってすごく考えるようになりました。そこから、日常の景色とか、なんでもない出来事を残すっていうことは、とても大切なことなんじゃないかと考え始めて、「日常」をコンセプトに写真を撮ることにしたんです。
――洗浄ボランティアに参加したきっかけは?
写真学校の先輩がTwitterで「東北のボランティアにカメラを使いたいから、いらない機材がある人はくれ!」っていうようなことを書いていて。「機材はあげられないんですけど、何かできることありますか?」って言ったら、「じゃあ一緒に東北いけばいいじゃん」って言ってくれたんです。それから、毎週東北へ行くようになりました。
――見つけた写真はどのようにしてご家族に返すのでしょうか。
洗浄しても、そのままだと海水に浸かってしまっていたので、腐ったり、イメージが溶けて無くなっちゃうんです。なので、複写して、データにして、町の施設を借りて展示したり、仮設住宅とかに行って、返却会を開いたりしてました。あとはいろんな企業のサポートが入って、顔認証システムを使って見つけ出すということもしていましたよ。顔認証技術ってすごくて、顔認証した人の親戚の写真なんかが見つかることもありました。
――「after 3.11」を撮られていた震災直後と、ボランティアとして現地に行ってきた後では、意識することは変わりましたか?
ビジュアルの作り方として、単なるドキュメンタリーの作品の様にはしたくないと強く思うようになりました。見た目はなるべく美しいもの、なんとなく目を引かれるようなビジュアルを目指していて、そこから「これなんなんだろう」って興味を持ってもらえればいいなと思って制作しています。
©フジモリメグミ
――地割れの写真などは、遠目からだと珊瑚のようにも見えます。震災に対してのアプローチとしては、一歩間違えると批判される可能性もあるかと思いますが。
それはボランティア活動に対しても言われたことがありました。でも、自分が正しいと思ったことをやるべきだと思っています。
©フジモリメグミ
――作品の雰囲気や、スクエアの作品ということもあってガーリーフォトの様にカテゴライズされてしまうこともあるかと思いますが、そこに対してのジレンマなどはありますか。
「ゆるふわ系」とか、「女流写真家」みたいな言われ方をすることは多いです。でも、私はいろいろな経験の中で、この手法を選択しているつもりです。女性の写真家でプライベートな写真をたくさん撮られる方などもいらっしゃるかと思うんですけど、私の写真はプライベートなところとは意識的に切り離して撮っていますので、似ているねと言われても「そう?」っていう感じです。あんまり気にしないですね。パッと見の印象では似ているかもしれないですけど、ちゃんと見てもらえればわかっていただけるかなと思います。
――意識的に家族や友人などのプライベートな部分を排除しているのはなぜ?
今やっている作品だと、自分にとっての日常ではなくて、誰かにとっての日常を写したいという感覚の方が強いからだと思います。それは東北での家族写真の洗浄ボランティアの経験が、強く影響していると思いますね。
――撮影はすべてフィルムですよね。なにかこだわりがあるのでしょうか。
「なんでフィルムなの?」ってよく聞かれるんですけど、フィルムで教育を受けた世代だからっていうのが大きいですね。フィルムだと始まりと終わりがあるじゃないですか。取れる枚数に限りがあって、フィルムをチェンジすることで気持ちの切り替えができるんです。あと、現像を出している間の待っている時間が、私は結構好きで、輪廻転生的というか、それが人生っぽくていいなと思っています。私はたくさん枚数を撮るほうですけど、「あ、いい」と思って撮ろうとしたけどフィルムがない時が結構あるんです。そういう時はそこで諦める。「ご縁がなかったんだな」ということで諦められるのがフィルムのいいところなんですよ。そういう姿勢って一番誠実な撮影との向き合い方なんじゃないかなと思っています。
――以前は油絵や彫刻をやられていたとのことですが、それと比較して写真を撮るのが難しいと思うことはありますか?
今の時代、誰でもきれいな写真が撮れてしまうし、ハイアマチュアみたいな人もたくさんいるので、プロとアマの境目が曖昧ですよね。作家とカメラマンの境目もそうだし。写真の本は売れないですし、プリントも日本人相手では売れない。売れてるのは一部の超有名なスター選手ばかりで、カメラマンでも作家でも、そこに入り込むにはあと人生50年じゃ足りないんじゃないかなと思ったりしますね。私は作家一本でやろうとしているけど、活躍の場が限られているっていうのも感じます。私がTAPギャラリーの運営に携わっている理由はそこにあります。このギャラリーは作家が7~8名、自分達で出資してスペースを共有しているんですけど、そういうインディペンデントな場っていうのを若い作家が大切にし続けていけば、少しは写真の現実的な難しさの打開になるんじゃないかと信じてやっています。
――それはご自身のためですか? それともアートシーンのため?
両方ですね。アートシーンが変わらないと自分達には還元されないと思っているので……。教育とか、いろんな問題があるかとは思いますが、いまの日本にはこのたった一枚のプリントに価値を見いだせる人が少ないと思っています。なので結果的にマーケットが欧米とかに寄っていってしまう。インテリアとしてでもいいから、日本の家庭にもどんどん写真が置かれるようになればいいなと思っていますね。
――写真家一本でやっていこう、というフジモリさんの覚悟やモチベーションは、どこからきているのでしょうか。
とにかく小さいころからアートに触れてきて、生活の中に常にアートがありました。だから何かものづくりをする生活は当たり前のことなんです。でも、一つ思い出にあるのは、中学校の卒業アルバムに担任の先生が「自分で選んだ自分の道、全力で進んでください。目指せビッグアーティスト!」って書いてくださって、その時の言葉で決意したのかもしれないですね。
――影響を受けたアーティストや写真家の方は?
最初に買った写真集はナン・ゴールディンです。高校の時に授業で初めて見たんですが、先程お話しした報道写真展の時期とも重なっていて衝撃を受けやすかったのかな。写真以外だと、モディリアーニなどを学生のころによく模写していました。あとはライアン・マッギンレーやアラーキー(荒木経惟)も好きですね。また、村上隆さんにも結構影響されています。『芸術闘争論』とかあの辺を10代の終わりころに結構読んでいましたので。
――最後に、今後予定されている活動を教えてください。
10月18日(火)~10月30日(日) 東京都江東区のTAP Gallery(http://tapgallery.jp)にて、フジモリメグミ写真展 notos を開催します。期間中はトークイベントなども開催予定です。詳しくはフジモリのHP(http://fujimorimegumi.com)やSNSをみてみてください。来年には写真集も出版予定です!
©フジモリメグミ
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【インタビュー後記】
フジモリメグミの写真は形容し難い。正確な理論もなければ、作者の感傷的な風景でもない。ガーリーな優しいイメージでもなく、メッセージもわかりづらい。しかし、そういった自立するための根拠を奪われた写真達はそれぞれに、明らかなプライドを携えてそこに立っている様に見える。
日常とは、私たちが決して「生きようとしない」時間――視線が点と点を行き交う間、息を吸うことも吐くことも忘れた時間に訪れる。フジモリはそのことに、震災という未曾有の非日常の到来によって気付いたという。取り立てて意味のない毎日が、いかに貴重なものであるかを示そうとしているのだ。誰かにとっての日常を写真によって表すことで、生きることについて一緒に考えるように、鑑賞者を静かに促しているのではないだろうか。
日常の素晴らしさとは何だろう。私たちはスパイスの効き過ぎた多国籍料理を毎日口にして、あまりにも覚醒しすぎているのかもしれない。日常とは、生きることそのものを支える逆説的な生の表出なのだということを、フジモリの写真は語っている。個別的な視点を排除し、普遍的な価値を見い出すフジモリの詩的な視線は、非日常に支配されたこの時代において、とても重要な眼差しであるといえよう。
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