解剖学者・養老孟司が語る“人がアートを求めるワケ” 『ヨコハマラウンド ラウンド1』レポート前編
養老孟司氏
日本各地で様々な現代美術の国際美術展が行われるようになった昨今。アート好きにとって喜ばしい状況ではあるが、一方で、とりわけ現代アートに関しては「よく分からない」と言う人々が未だ多く存在するのも事実だ。そして、アートに自然と親しんできた人にとっても、なぜ自分はアートに惹かれるのか、または、自分にとってアートの持つ意義とは何なのかと考えた時に、論理的な形で答えるということはなかなか難しいだろう。
1月15日に横浜美術館レクチャーホールにて行われた公開対話シリーズ『ヨコハマラウンド ラウンド1』は、アートの持つ意義というものに対して一つの視点をあたえてくれる有意義な機会であった。
『ヨコハマラウンド』は本年8月4日(金)から11月5日(日)まで開催される『ヨコハマトリエンナーレ2017』開幕に先立ち、美術関係者のみならず幅広い分野から専門家を招き、今後約10回にわたり開催されるトークイベントだ。
第一回目である今回は、解剖学者であり東京大学名誉教授である養老孟司氏による基調講演「0と1の間にあるアート」、さらに養老孟司氏と美術評論家・解剖学者の布施英利氏による対談が行われた。本プログラムの様子を前・後編の2回にわたって詳しくお伝えする。前編では、養老孟司氏の基調講演『0と1の間にあるアート』の模様を紹介しよう。
社会におけるアートの役割とは
養老孟司氏(以下、養老氏)は、解剖学者というのみならず、著作『バカの壁』や『唯脳論』などでも知られるように、現代社会および人間のコミュニケーションについての洞察を提示してきた存在だ。
同氏は『ヨコハマトリエンナーレ2017』において9名からなる構想会議のメンバーの一人として招聘されており、コンセプト開発から携わっている。本基調講演では、養老氏から見たアートの社会における意義について語られた。養老氏によると、アートとはいわば「都市の解毒剤」ともいうべき存在だという。ではそもそも、現代社会とはどのような社会なのか。
現代は「0,1」の社会
現代は「0,1」で構成された社会であると養老氏は指摘する。デジタルテレビやスマートフォン、パソコンなど、我々が日常でよく利用するデジタル機器は「0」と「1」という、二進法の考え方にのっとってプログラミングされている。養老氏は、我々がそのようなデジタルの画面の中で見ているものは全てコピーであり、0と1で構成された社会というのはコピーの世界だというのだ。
アートは0と1の間にある
そしてそれに対して、アートというものは明らかに「コピー」ではなく、「それしかない、たった一つのもの」ということ、それこそがアートがアートである大きな理由であると語る。だからこそ、本基調講演のタイトルにあるように“アートとは『0と1』の間の存在”である、と。
人間の「同じにする」という能力が生んだ現代社会
また、このような現代の形に至った理由は、現代人が他の動物にはない特徴を持っていることからだという。それは、養老氏によると「同じにする」という能力なのだそう。
例えば、我々が周囲を見渡した時、隣人は一人一人違って、誰一人同じ人はいないわけだが、これを「人」という言葉で一括りにする。一人一人が違うにもかかわらず、「人」という概念でくくった時に、すべての人間が「同じ」存在になる。
感覚的に物事を捉えるとすべてのものは違うにもかかわらず、「同じにする」という行為で頭の中に入れてまとめていく。この特徴は「言葉」を使えない動物にはない特徴であると養老氏は語る。
「心の理論」の働きが人間の社会を形作っている
また、人間が持つもう一つの大きな特徴として、認知科学者らによって「心の理論」と称される特徴があるという。
養老氏によると「心の理論」とは、つまるところ「相手の立場を理解する」ということだ。「相手の立場になって考える」ということは、自分と相手を交換しているということで、つまり、「相手と自分は同じ」という考え方が根本にないとできないという。養老氏は、人間の社会は、この「同じにする」ということと「心の理論」ですべて説明がつくと語る。
「同じにする」ことの先にあるものとは
また、「同じにする」という行為を突き詰めていくのが現代人の「無意識のモチベーション」であり、それがすなわち世界中を同じにするというグローバリゼーションを生む。そしてその行き着いた先がデジタルで構成された「0,1」の社会であるという。なぜならば、デジタルの世界であれば正確な「コピー」が作れるからだ。
こうして現代人は「0,1」の社会にたどり着くのだが、そこで「なぜこのようにコピーを一所懸命になって作るのか」「なぜ我々はそれぞれ“世界に一つだけの花”にもかかわらず、コピーばっかり使っているのか」とふと立ち止まってしまうのも人間の特徴であると養老氏は語る。
「同じにする」という行為は論理のなせる技であり、物事を「違う」と捉えるのは感覚の所業である。論理でもって物事を「同じ」にしてきたにもかかわらず、ふと感覚の力が戻ってきた時に「すべての物事は同じではない」と考えるのだ、と。
「人はなんで生きるか」に向き合う時、アートの力が必要になる
また、現代では人間の仕事がコンピューターに置き換わってしまうのではないだろうかと危惧する声も聞こえてくるが、かつて肉体労働が機械に置き換わってきたのと同じように、恐らくこれから徐々に、「理屈で考えて決まった手続きでやる」ような類いの事柄は、すべてコンピューターに置き換わっていくだろうと養老氏は語る。
そこで人間はいったい何をするのか。「人はなんで生きるか」という、以前なら若者特有の悩みとされきた事柄が、老若男女すべての人の問題となる時代になってきており、このような時にこそ「アート」の力が必要になる、と養老氏は見解を述べる。
養老氏はさらに、歴史的に見ても、文明が発達してくると都市が形成され、また都市が発展すると必ずアートも発達してきているという説を唱える。したがって、「同じ」であるという世界がどんどん進んでくると、それに伴いアートが求められきたのであるし、このようにして「都市の解毒剤」としてアートが存在してきたのではないか、と語るのだ。
アートは作品そのものだけでなく鑑賞者の意識で完成する
また、「同じ」とみるか「違う」とみるかは、すべて個々人の意識の中で行われていると養老氏は述べる。つまり、私たちがアート作品を目にする時、芸術というものは、作品そのものはもちろん、鑑賞者の意識がそこにあることで成立するのだと締めくくった。
取材後記:養老氏の講演から、我々がアートを求める時は「論理」と「感覚」の均衡が崩れていることに無意識のうちに気づいていて、その均衡をアートによって取り戻しているのかもしれないと感じさせられた。そして、今後の現代社会において、アートの役割というのはますます重要になってくるだろう、とも。また、言ってみればアート作品を目の前にして「よく分からない」と思う時というのは、論理と感覚のバランスが論理側に崩れてしまい、感覚の力を取り戻せていないことに起因しているのかもしれない。そのような時こそ、作品と対峙する時間を設けることで、自分の論理と感覚の均衡を取り戻すことができるのではないだろうか。
※後編では、養老氏と布施英利氏の対談の模様をレポートする。
会期:2017年8月4日(金)〜11月5日(日) ※第2・4木曜日休場 開催日数88日間
主会場:横浜美術館(横浜市西区みなとみらい3-4-1)、横浜赤レンガ倉庫1号館(横浜市中区新港1-1-1)
公式サイト:http://www.yokohamatriennale.jp/2017/