175R活動再開記念インタビュー! SHOGOがすべて語る「止まってから動き出すまでの6年間」
175R・SHOGO 撮影=西槇太一
活動休止から6年、175Rが活動再開した。2016年12月に幕張メッセの『骸骨祭り2016』、ポートメッセなごやで行われた『MERRY ROCK PARADE』、インテックス大阪の『RADIO CRAZY』の3本のフェスに出演。年が明けて1月には神戸・太陽と虎で旧友ガガガSPと2マンライブ。そして4月5日には7年ぶりのニュー・アルバム『GET UP YOUTH!』をリリースし、4月8日には日比谷野外大音楽堂、4月15日には大阪城野外音楽堂でワンマン。再始動後の活動の発表は3月28日現在は以上ですべてだが、春から夏にかけて、各地のフェス等にも出て行くのではないか。
って、実際はどうなのか知らずに書いているので、もし外れたらごめんなさい。でも、出るんじゃないかなあと思う、『GET UP YOUTH!』を聴いていると。これほんとデビューの頃以来じゃないかと思うくらいバンドのコンディションとかバイオリズムとかがとてもいいことが、作品そのものに表れている。でありながら、原点に戻ったのではなくて、デビューの頃もデビューから5年の頃も10年の頃も決して出せなかったであろう音を出している、あきらかに。
以下、休止から再始動までをSHOGO(Vo)に話してもらった。昔から「それ言っていいの?」って心配になるくらい本音でインタビューに臨む人だったし、それは今回も変わっていないが、重たい話をする時であっても、口調も表情も、以前よりもすっきりしているように感じた。本人は「一周したんですよ」と言っているが、ただ一周しただけではないことが伝わると思う。で、それ、『GET UP YOUTH!』を聴けば、もっともっと伝わると思う。
ロンドンでの生活は「こんなところで175Rに助けられるとは思わなかったな」っていうスタートだった
──活動休止する時は、理由を「ロンドンに行くので」とおっしゃってましたよね。
はい。まあ、ざっくり言うと、一度音楽から離れたかったっていうのがデカくて。175Rの後期は、ずーっとデビューから転がり続けて、つっ走っていく中で、やっぱり疲れてたんですよね。疲れてたんだけれども、活動休止をするっていうことはものすごく大きな決断なので。日本にいると音楽から離れられないんじゃないかとも思ったんで、自分の心の余裕が生まれない場所に行きたくて。175RのSHOGOとしての人生と、個人としての人生を見た時に、今このタイミングじゃないかと思った。
ロンドンにちょこちょこ遊びには行ってたんですけど、ある時「ああ、やっぱロンドンいいな、住みたいな」って言ったら、ロンドン在住の友人に「それ2年前もおんなじこと言ってたよ」って言われて、その時にハッとしたんです。2年前も2年後も同じようなことを思ってるんだったら、もう住んじゃえばいいじゃんと思って。それで日本に帰ってすぐ、175Rを休止したいっていう話をして、すぐに引っ越したっていう感じですね。
──それ、少なくとも2年間はずっと疲れてたってことですもんね。
そうなんでしょうね。175Rも本当にいろんな、いい時悪い時があって。それってリスナーには見えない部分も、僕らの場合はすごく大きいので。レコード会社も事務所も一度つぶれたりとか(レーベルとマネージメントの両方を行う会社に所属していたが、そこが事実上倒産したような状態になった)、それで移籍して事務所も変わったりとか。そういういろんなことも含めて疲れてたし。
──バンドが活動休止する時って、いつか活動再開しようと思っている場合と、実質解散なんだけどそう言うと周囲のショックが大きいから活動休止という言葉を使う場合があると思うんですけれども。
いや、僕の頭の中に、もともと解散ってないんですよね。いつかやりたくなったらやろう、みたいな感じで。もともと誰かに「これをやれ」と言われて始めたバンドではないし、自分の人生を見ても、こんだけ好きなことで長く続いてるのって音楽だけだから、そこをメシの種にしたくないっていう気持ちも昔からあって。
──食うためにやりたくないのにバンドを続ける、ということはしたくないと。
そうそう。そこだけは正直にいこうぜっていうのを、メンバーに昔から言っていて。今は歌いたくないと思えば歌わなくていいと思うんですよ。けど、そこにはいろいろ関わってるものが多すぎて、止めることができない、休むことができないっていうのは、よくあると思うんですけど。それを本当に決断したのが、デカかったですね。
あと、メンバーがここから始まる休止期間をどう使うか見たかった、というのもあって。一番最初にバンドを組んだ時と、175Rの後期では、個々の音楽に対しての関わり方とか思いに、どんどん差ができてきていたと思うんです。それに嫌気がさしていたし、これ以上この同じメンバーで175Rで活動していると、本当に音楽が嫌いになるんじゃないか、というのもありましたしね。
それで、荒療治ではありますけど、175Rと関係ない場所に住みたい、そのタイミングは今しかない、と思ったのが、29歳の時でしたね。よくも悪くも、175Rがメジャーデビューしてブレイクしたことだったり、お茶の間に届いたことっていうのが、やっぱり原因にもなってたりするんだろうし。ありがたいことなんですけど、外を歩いていて気がついてもらったりとか、声をかけてもらったりとかすることが、今でもすごく多い。「今そんなテレビ出てねえのにな」って思うけど、あの当時が出すぎていた、ってことなんでしょうね。そういう状況から一度離れたかったんです。
──そこで休止して、ロンドンへ行って、「解放された、わーい!」ってなりました?
「わーい!」とはならないんですよ。心の余裕がない場所に行ってるから。住む手続き、全部自分でやるじゃないですか。ビザ取って、住む家を決めて、ガス・水道・電気の手続きも……日本人でも大丈夫っていう不動産屋を見つけたんで、「ここだ!」と思って行って。でも僕ね、イギリス人から見ると、単なる子供なんですよ(笑)。「この子供は何しに来たんだ?」みたいな感じなんです。
で、内覧をして回って、3軒目で……不動産屋の女性の方が、日本人だったんですね。「楽器とか、大きい音出しますか?」って言われて。「いやいや、出しません」って答えて、なんでだろうと思ったら、彼女は僕のことを知ってたんですよ。で、その方がオーナーに175Rのことを説明して、「この人はちゃんとしてるから貸してあげてください」って話をしてくれて。こんなところで175Rに助けられるとは思わなかったな、っていうスタートだったんですよ(笑)。
ロンドンで「あ、今心が晴れた!」っていうのがわかった
それですぐ学校入学とかもあったんで――英語の学校に3ヵ月ぐらい通ってて。あとはもう……友達が増えたりもしてたんで、ライブを観に行ったりとか、ヨーロッパをウロウロしてみたりとか。僕が行ってる時期に、友達のバンドがけっこうヨーロッパ・ツアーに来てたんです。だから東京にいる時よりも、友達のバンドを観に行ってた(笑)。ギターウルフが来たりとか、(マキシマム ザ)ホルモンが来たりとか。むこうもびっくりするんですよ、「ほんとにいるんだ!?」みたいな感じで。
あとは……ゼブラヘッドが来るっていうんで、青春時代を思い出して観に行ってみたり。コールドプレイがロンドンでツアーファイナルをやるから行ったり。ボブ・ディランとか、いろいろパンク・バンドも観に行ったり。いちリスナーにどんどん戻っていった時期だった気はしますけどね。
──そういう暮らしはどれくらい続くんですか?
1年住んでましたね。自分の中で1年って決めてたんです。
──で、日本に帰る時には、リフレッシュとリセットは完了していたんですか?
あの、ロンドンにいる途中で、スコーンと自分の心が晴れたんですよね。それがねえ、自分でわかったんですよ。「あ、今晴れた!」っていうのが。落ちてく時って徐々にだからわかんないんだけど、心がポーンと晴れた時は、自分で「あ!」と思って。景色が変わるような感じで。
ロンドンの自分の家で……日本へ帰る4ヵ月ぐらい前かなあ。ポン!て晴れた。何がきっかけとか、全然わかんなかったんですけど……なんかやっぱり、人間ってもがくじゃないですか? とにかく必死に泳ごうとすると沈んでいくっていうか、力んで、筋肉がギュッと重くなって。それを、一回力を抜いて、プカーンと浮いてみる感覚を想像した時に、ラクになれたのかもしれないです。プカーンと浮いて、あとは流れに身を任せて、辿り着いたところで自分の好きな曲をやる、それでたまにパドリングしてみる、みたいな。
だから、日本に帰ってきてからも、プカーンと浮いていて、ライブに呼ばれたら出てみる、舞台のお誘いが来たらとりあえずやってみる、やってみて好きかどうか決めればいい、みたいな。そういう感覚を自分の中で身につけてからは、全然よくなりましたね。とにかくストレスフリーで生きたいと思ってるから。飄々と生きるって決めてからは、あせらなくなりました。
──考えたら、すごい勢いで元気に活動していた頃も、飄々と生きてはいなかったですもんね。
うん。僕、ずっとネガティヴだったんで。それを直したいがために、自分でポジティヴなメッセージを書いて、自分に対して歌ってたのが、175Rだったから。すごいポジティヴな人だって思われるんですけど、ポジティヴな人は「ハッピーライフ」なんて曲を作りませんよ(笑)。自分に対して歌ってるし、その「ハッピーライフ」っていう言葉の裏には、やっぱり光と影がしっかりあって。それでも「ハッピーライフ」って胸を張って言うことの強さの方が、僕は大事だと思うから。
──で、そうやってソロ活動をしたり、舞台にも出たりする中で……一昨年くらいだったかな、SHOGOさんがテレビに出た時に、「そろそろまた175Rをやろうと思っている」という発言をされて、あれけっこうネットでニュースになってましたよね。
ああ、『ナカイの窓』かな。たぶんね、その頃にはもう、SKULLSHITの大滝(哲也)さんから、ライブに誘われてるんですよ。「次の20周年の『骸骨祭り』は大々的にやりたいからバンドで出てもらいたい」みたいなことを言われたんです。で、「いいっすよ」って軽く返事して。
その時点で3年くらい先のことだったから、多分またやってんじゃねえかなと思ったし、やってなくてもやればいい、みたいな気持ちだったから。でも、あとになって思うのは、それがすごい背中を押してくれましたね。あれがなかったら、もしかしたら今も休んでるままだったかもしれないし。
──ソロでやっていくうちに、175Rをやりたいと思うようになっていたんでしょうか?
それはあんまりなかったです。なぜかというと、休止中あるあるみたいなもんで、会う人会う人に言われるんですよ、「いつやんの?」とか「また観たいよ!」とか。それをずーっと言われ続けると、逆にやりたくなくなっちゃうっていうか(笑)。
活動を休止する時に、メンバーにも「少なくとも5年は休むから」って話をしたんですね。気づいたら6年経ってましたけど……だから、やっぱりSKULLSHITに誘われたのがデカかったのかなあ。20年ブランドを続けていくことのすごさもわかるし、ずっとお世話になってる先輩だし……大滝さんのその言葉は、「いつやんの?」みたいな感じじゃなかったんですよ。意を決して僕にオファーしてくれたのが伝わったので……それにしては軽い返事だったので、大滝さん、驚いてましたけど(笑)。
ただ、ライブはいいんだけど、どんどん病んでいくのって、やっぱり制作の時なんですよね。自分の中のモヤモヤが晴れないというか、メンバーに対して求めてしまうことだったりとかもあるんで。これがたとえば、活動再開します、まずはレコーディングしてから、って感じだったら、こうはいかなかったんだろうなって。ライブがあったから、「じゃあ新曲も作るか」って順番だったんで、よかったのかなと思いますね。
メンバーはビックリしてましたね、僕が最初から怒ってるから
──で、大滝さんにその返事をしてからは?
といってもまだ先だから、メンバーには言わず(笑)。で、しばらくして……僕のソロのバンド・バージョンでISAKICKはベース弾いてて、アコースティック・バージョンでYOSHIAKIはパーカッションをやってたんで、ちょこちょこ会うことはあったから。「こんなことがあったんだ。すぐに発表することじゃないけど、自分の中の片隅には置いといてくれ」っていう話をして。
で、ギターのKAZYAは全然会わなくなっていて。福岡に帰ってるんで。今もそうですけど。でも、最初に僕らのCDをリリースするきっかけになった元スタッフが亡くなって、お別れ会があったんですよ。その時にメンバー4人、久しぶりに集まって。
メンバーと会うのも久しぶりだったけど、SHAKALABBITSとかB-DASH、僕らのいちばん最初の頃のレーベルメイトやスタッフがいっぱい揃っていて。それでもう同窓会みたいになって。SHAKALABBITSが「もう一回俺らでバンド・シーン盛り上げようよ!」みたいな……昔、SHAKALABBITS175Rとかやってたけど(2002年7月に合体バンドとしてシングル『STAND BY YOU!!』をリリース)、どっかで疎遠になってしまって、それぞれがそれぞれの道を進んでいたので。でもそれも一周回ったというか、「もう一回やろうぜ」みたいなことを言われたのが、すげえ嬉しくて。
そこでKAZYAにも大滝さんのイベントのことを伝えたら、メンバーみんな「待ってました」みたいなところではあったんですけど。それで、4人でLINEグループを作って……休止した時は、まだLINEが無かったんで。
──(笑)。ああ、そうかそうか。
そっからLINEで急速に会話が始まって、リハーサルに入ったりして始まった感じでしたね。ただ、僕ね、最初はリハーサルに行かなかったんですよ。まず3人でやってくれ、演奏を仕上げてくれと。僕の中で、正式に活動を再開するっていう話し合いの時に、今までの不満も含めて、すべてを伝えたかったんで。なあなあで始めたくなかったんですよね。だから、さあやろうかってメンバーで集まった時に、僕の思いを吐き出して、「それでもやりますか? 脱けるなら今言ってくれ」と。
──じゃあけっこうシビアなことを言ったわけですね。
超シビアでした。もう……文字にできないぐらい(笑)。やっぱ自分がリーダーとしてやっていく中で、どっか臭いものにフタをするというか、争いごとを避けていくところもあるじゃないですか。でも結果、それが自分を苦しめ、まわりを苦しめるってことになったと思うので、もう言おうと。
ただ、仲はいいんですよ。昔から一緒だし、音楽以外のことで話してる時は超楽しいんですよ。でも音楽の話になると……っていうふうになってたから。だから、なあなあでスタジオに入って始めると、また言えなくなっちゃうから、あえてもうその打ち合わせまでに、自分の中で考えて考えて、怒りの沸点を高めて。
メンバーびっくりしてましたね、僕が最初から怒ってるから。「まずこの5年で何をやってきたか、その結果をそれぞれ話せ!」みたいなとこからスタートして(笑)。で、話した結果、この4人でやることになったんですけど。
──で、しばらく3人で音を固めたあと、SHOGOさんがスタジオに入った時は?
その時はね、5~6年のブランクがギュッと縮まったんですよね。「これこれ!」っていう。スッと入れた。もう身体が覚えてるし。メンバーに聞くと、最初スタジオに入り始めた時は曲も忘れてるし、演奏もバラバラだったらしいんですね。その固まってない状態で僕がスタジオに入ってたら、たぶんまた怒ってたと思うんです(笑)。だから、そこで時間差を作ったのはよかったなと思ってて。
ライブもそうでした。身体が覚えてる感じだったんで。「空に唄えば」とか、休止中はほとんど歌ってなかったけど、ライブでやったら「あ、これだ!」って感じでしたね。
──で、ニュー・アルバムが出ますけれども。これはいつ作ろうという話に?
これは活動再開を決めて水面下で動いてる時に、ユニバーサルと契約が決まって、「じゃあ新曲も作ろうか」と。ただの同窓会になりたくない、今の最新の175Rを見せたいっていう思いがあったから、そっから作り始めた曲がほとんどですね。
唯一「ROMAN ROAD」って曲は、僕がソロの時に作ってライブでも披露してたんですけど、「これはいつか175Rでやる曲だな」と思ってソロのアルバムに入れるのはやめたんで。それ以外の曲は、ほんとに新しいバンドの1枚目っていうイメージで作りましたね。
原点回帰とかいうけど、原点回帰なんてそうそうできないな、っていう気持ちがあって。それよりも、新しいバンドを組みました、みたいなイメージの方が強いんですよね。
みんなにとっての入口になれることって、すげえ大事なことだと思うんですよ
──聴いて、音が多彩になったのと、ヘヴィになったなあと思って。速球を投げられるけど球が軽いピッチャーと、速球で重い球のピッチャーだったら、後者になったみたいな。
あ、そうですか? ファースト・アルバムのような思いで作りましたけど、やっぱり経験値は増えてるから。音にしても歌詞にしても、その分説得力も伴うと思うし。そういう部分はもしかしたら出たかもな、とは思いますけどね。
今回、akkinが共同プロデュースでやってくれたんですけど……akkinだったから良かった、っていうのもあるんですよ。彼だから、今の175Rをひっぱり出してくれたというか。昔から知ってるし、僕にとっても……もともと僕がプロデュースしていたバンドの人が(※SHOGOが立ち上げたレーベルからデビューしたジェット機のギタリストだった)、気づいたら人気のプロデューサーになっていて、今また一緒にやれるっていう喜びだったり。
たとえば「ROMAN ROAD」だったら、僕がソロでSHOGO and His Friendsってバンドを組んだ時のメンバーが、そのあとHEY-SMITHに加入して、彼らにお願いして吹いてもらったりとか(※HEY-SMITHのホーン隊が今作に参加)。そういう出会いとかが、自分の人生の中で、点がどんどんつながって線になっていくような。それはすごいおもしろかったし。
活動再開を発表した時の反応とかも、僕らの予想を超えてすごく大きかったので嬉しかったし、と同時に、よりしっかりしなきゃなって思いましたし。共演する若いバンドの人たちにも、「昔すごい聴いてました」「初めてを買ったバンドです」「バンドをやるきっかけになりました」「コピーしてました」とか、すごく言ってもらえて。
そういう、みんなにとっての入口であるというのは、僕にとって恥ずかしいことではなくて。入口になれることって、すげえ大事なことだと思うんですよ。最初に175Rを聴いて、そこからELLEGARDEN聴いて……これ、よく言われる鉄板のパターンなんですけど(笑)、僕はそれでもいいと思ってて。「175RからORANGE RANGEに行って」でもいいし、洋楽に行ってもいいし。とにかく入口であるっていうこと……それは僕にとってのブルーハーツだったり、ジュンスカだったりするんだろうし。
だから、今回のこのアルバムに関しても……7年ぶりのアルバムだけれども、それだけの期間が空いたことで、初めて175Rを聴く人もいると思うから。また入口であれるといいなという気はしてるし、だからその反応もすごい楽しみです。
僕らがデビューした時のイメージをまだ持ってる人も……活動再開したら、あの当時学生で「昔はライブに行けなかったんです!」って泣いて喜んでくれる人とか、すげえ多くて。そういう人にとっても、もう一度背中を押せるようなアルバムができたんじゃないかなっていう気はします。
まあ、一周回ったんですよね、僕の中でも。やっぱ175Rの後期は、メロコアだとか青春パンクだとかいろいろ言われたりすることから解き放たれたかった時期もあったし。自分のもともとのルーツである、歌ものをやりたい気持ちが出た時期もあったり。いろんなことが1枚1枚のアルバムであったんですけど、一周回って175Rを組んだ時の最初の気持ち、爽快感を求めて作ったアルバムですね。
──はい。ただ、175Rが再始動するのとほぼ同時期に、B-DASHは解散(2月17日に解散発表)、SHAKALABBITSは無期限活動休止(2017年内で休止を発表)というのが……。
ねえ、ビックリしましたねえ。シャカのメンバーに「もう一回バンド・シーン盛り上げようぜ」って言われたのがすげえ嬉しかった、ってさっき言いましたよね。『骸骨祭り』も出演が同じ日だったんですよ。これまで実は同じ日にイベントとかに出ることってあんまりなくて。そのこともあったからか、前の日に「175Rの再開の日にすっげえ申し訳ないんだけど、明日のライブで休止を発表することになったんだ」って言われて。
また一緒にやろうと思ってたし、B-DASHだって、175Rが活動再開したらまた一緒にライブやったりツアー回ったりしたいなあと思ってたから。それは驚きましたよね。ただ、シャカには……まあ、活動休止の先輩としては──
──(笑)。
やっぱり、活動休止を宣言するに至るまでの思い、葛藤みたいなものは、わかるから。「いやいや、それは気にしないでくれ」って言いました。まあ今後、その戦友たちも新しいことを始めるだろうし、なんか関わっていけたらいいなと思ってるんですけどね。
取材・文=兵庫慎司 撮影=西槇太一
2017.4.5 release
『GET UP YOUTH !』
DISC 1.「GET UP YOUTH!」(全13曲収録)
1. 歓びの詩
2. これから
3. Weakness
4. ROMAN ROAD
5. トカイノネオン
6. シャナナ
7. Walk your way
8. 君にまで
9. 1999
10. 4seasons
11. 遠く遠く
12. Restarted
13. 新世界
1. ハッピーライフ
2. 空に唄えば
3. YOUR SONG
4. 僕の声
5. 「手紙」
6. SAKURA
「GET UP YOUTH!」(全13曲収録) ※初回限定盤(DISC 1)内容同様