海外で活躍するサムライ・ソード・アーティスト【ザ・プロデューサーズ】第十九回・島口哲朗氏
島口哲朗
編集長として”エンタメ総合メディア”として様々なジャンルの情報を発信していく中で、どうしても話を聞きたい人たちがいた。それは”エンタメを動かしている人たち”だ。それは、例えばプロデューサーという立場であったり、事務所の代表、マネージャー、作家、エンタメを提供する協会の理事、クリエイターなどなど。すべてのエンタメには”仕掛け人”がおり、様々な突出した才能を持つアーティストやクリエイターを世に広め、認知させ、楽しませ、そしてシーンを作ってきた人たちが確実に存在する。SPICEでも日々紹介しているようなミュージシャンや役者やアスリートなどが世に知られ、躍動するその裏側で、全く別の種類の才能でもってシーンを支える人たちに焦点をあてた企画。
それが「The Producers(ザ・プロデューサーズ)」だ。編集長秤谷が、今話を聞きたい人にとにかく聞きたいことを聴きまくるインタビュー。そして現在のシーンを、裏側を聞き出す企画。
今回はまた、今までの音楽プロデューサーなどとは趣向の違う、アーティストでありプロデューサーでもあるある男に焦点をあてる。映画「KILL BILL」への出演、殺陣振り付けなどを経て、剱伎衆かむゐを立ち上げ、サムライ・ソード・アーティストとして世界中を飛び回る島口哲朗氏に話を聞いた。
島口哲朗
――日大芸術学部映画学科脚本科を卒業されていますが、元々脚本家を目指していたのでしょうか?
紆余曲折あって、高校を卒業してからやりたいことが見つかってなくて3年間フラフラしていました。高校時代は野球をやっていて運動は得意だったのですが、色々な考えを作品に反映できる物書きになろうと思うようになって、特に脚本を書きたかったわけではありませんが、受験した早稲田の文学部と日芸に受かり、日芸の方が面白そうだったので決めました。そこでクラブ勧誘で初めて生で殺陣を見た時に、心に響くものがあって…。
――野球以上に響いてしまった、と。
一人っ子だったので子供の頃ひとりで色々な遊びをしていて、その中で様々な死に方をマネするという遊びをやっていました。殺陣を見た時に、その記憶が蘇ってきて。テレビの影響で死ぬという事にすごく興味があったんでしょうね。暗い子供だったんです。昭和40年代、50年代は「大岡越前」や「水戸黄門」のような時代劇がたくさん放送されていてよく観ていました。もちろんチャンバラも好きだったので、その記憶が呼び戻されたような感覚がありました。それで真田広之さんも入っていた日芸の殺陣同志会というクラブに入りました。入った時は35人いたのに、練習が厳しいクラブだったので最後は僕一人になっていました。そのまま殺陣一筋。大学4年になって、さてどうしようかと思いながらも就職活動をするわけでもなく、もちろん脚本は書いていなくて、時代劇俳優になるといってもそんなツテもなく…。ただ、在学中から色々なプロの方のステージに呼んでいただく機会が多く、特に歌舞伎界の方から声をかけていただいて。市川猿之助さんがスーパー歌舞伎に取り組み始めて、伝統と新しいものを組み合わせようとしていた時期でした。そういう状況の中で、市川右近(当時)さんから「弟子にならないか」と言っていただいて、このまま歌舞伎をやっていくのかな、という気持ちも自分の中でも少なからずありました。ただ、なんだかんだいって、歌舞伎というのは家柄の世界ですよね。歌舞伎ではいつか壁にぶつかるだろう、もっと違う自由な表現の形はないのか、と思うようになりました。同志会で学んだ殺陣の技術、それから日本舞踊も習っていたのですが、そこで得た日本古来の様々な所作、そういったものを自分なりに組み合わせ、こだわった何かを表現していきたいと思いました。
――日本舞踊の名取でもあるんですよね?
はい。でもそれも殺陣をやるためです。縁あって日本舞踊の名手の方と知り合う事ができて、とにかく稽古しました。日本舞踊で名取になるまでは、本来は何年もかかるのですが、1年くらいで取らせていただいて。でもそこからほとんど稽古に行けていない、不肖の弟子なんです(笑)。
島口哲朗
――同志会で学んだ殺陣の技術や思想、日本舞踊などで得た日本古来の所作などを組み合わせて、それを表現できる場として「かむゐ」を立ち上げたのですか?
そうです。1998年に『剱伎衆かむゐ』を立ち上げました。ただ立ち上げ当初は全く仕事がない。日本では活動する場所が無かったので、バイトをして貯めたお金でアメリカ・ロサンゼルスに行って、ストリートパフォーマンスをやっていました。1日1食で7パフォーマンスくらい。その時に僕達に興味を持ってくれた人が、「ラスベガスのホテルでショーをしてみないか?」と誘ってくれて。「3か月契約しよう!」と言われたのですが、観光で7日間来て、一度日本に帰らないとバイトをクビになってしまうというメンバーばっかりだったので(笑)一旦帰りますといって、その時は帰りました。それで2回目にロサンゼルスに渡って、またストリートパフォーマンスをしていた時に、偶然ですが、2002年に「KILL BILL」で再会することになるクエンティン・タランティーノが、観に来て声をかけてくれました。真剣にやっていれば、チャンスが巡ってきたりするのは、やはりアメリカンドリームというか、世界というものを肌で感じましたね。
――アメリカでパフォーマンスを始めたのは、世界中の人にもっと自分達の存在を観てもらいたいというのと、日本の芸術、日本の文化を広めたいっていう想いとが、両方あったのでしょうか?
そうですね。原点には感覚的にありましたが、まだそこまで具体的な事は思っていなくて。ただ自分が日本人なんだというのを理解したのは、まさにアメリカでストリートをやった時です。ストリートとはいえ、現地の人達たちは本物の“日本人”を見ているので。そこでは自分たちは日本代表になっているわけですから、これは責任もってやらなければ、と。お客さんにとって、そこで僕達日本人のパフォーマンスを観るのは一生に一度かもしれなくて、自分では元々真剣にやっているつもりでしたが、更に命懸けでやらなければいけないと思いました。例え今後成功して、大きな映画や舞台に立てるようになっても、観客の目の前でパフォーマンスができるメンタリティは、絶対に見失ってはいけないと思いました。そして、今は侍という言葉を使ってパフォーマンスをやっている人はたくさんいますが、我々のパフォーマンスが海外の人にとって日本文化、日本の芸能の入口になっているとしたら、ただの侍風パフォーマンスではなく、命を懸けた「サムライ・アーティスト」として、その精神、意思を責任を持って世界に伝えていきたいと思いました。
――ストリートパフォーマンスがきっかけとなって、2003年に公開された『KILL BILL』に出演というチャンスをつかみました。
はい。撮影は2002年で、僕は「MIKI」という役をもらって出演し、同時に剣の基礎技術を教え、日本パートの担当しました。撮影も勉強になりましたが、世界の本当にトップの俳優たちは、みんなすごくフラットで。こちらがしっかり意思を持って、日本人の誇りと責任を持ってコミュニケ―ションを取ろうとすると、彼らもこちらをリスペクトして受け入れてくれる事がわかったこともいい経験になりました。ルーシー・リューと仲良くなったり、サミュエル・ジャクソンは彼の自宅で僕のためにパーティーを開いてくれたり。そこにプロバスケットのマジック・ジョンソンがいたり……ものすごい世界でしたが、とにかく彼らにプロとしても友人としても受け入れられたことが嬉しかったですね。今、自分の独自のサムライ道場を東京とイタリア、ポーランドなどで展開していますが、剣を通じて人と出会えて、時にはビジネス企業の人達にコミュニケーション学を教えたり、海外の大学で講義させてもらったりもしています。僕なんて本当に平凡な雑草みたいな人間ですが、自分がやりたい事を貫いて行動し、その演舞にオーディエンスが目を輝かせてスタンディングオベーションをしてくれると、アーティスト冥利に尽きるというか最高の気持ちになります。やはり自分の意思をしっかり持ち行動するという事が、何をおいても大切だと思います。
――ハリウッドから帰って来て、劇的に変わりましたか?
自分は特に。ただ周りは変わりましたね。激動でした。その当時は映画のお誘いもテレビ出演のお話も突然増えましたが、ただその世界にぶらさがるよりも、やっぱり茨の道を選んでしまうというか…(笑)。そんな中で、様々なジャンルで戦っているアーティストたちと出会いました。現在一緒に活動しているシンガー・ソングライターの小林未郁さんとの出会いもありました。とにかく本気で活動している人と良いものを創りたい、共有したいといつも思っていましたから。出会いには本当に恵まれていると思います。また海外ではとにかく「KILL BILL」は今でも大人気なんです。だから本当に良いパスポートをクエンティンにもらったな、と思っています。先日、アメリカの映画サイトで「21世紀最高のファイティングシーン第一位」に選ばれましたしね。日本にいても世界中から道場に指導を求めて訪ねてくれています。
島口哲朗
――「かむゐ」を立ち上げたのは、自分の意思を誰かと共有したかったという思いが強かったからですか?
そうかもしれませんね。僕には剣しかないと思っていましたし(笑)剣を通じてしか人と出会えなかったから。「かむゐ」としては結成当時から、メンバーそれぞれが表現者として認められることが目標でした。もちろん共有もテーマでしたが、馴れ合いではなく、個人的にも常に目線を高くして切磋琢磨して前に進んでいきたい、と。もっと世界に「かむゐ」という日本のサムライ・アーティストとしてのブランドを広めていけたら面白いし、日本の文化としてサムライ道場「剱伎道」も楽しみながら根付かせたい。
――柔道、剣道のように“道”にしていきたいと。
そうです。一見ただの殺し合いに見えますが、その表現から学べることは本当に多く、深い。相手を思いやれないと本気で斬り合えないんです。殺陣という世界で自分が学んだことを生かし、無形の「間」のやり取りを大事に、相手を感じ、自分を知る「道」にしていきたいと思って「剱伎道」というオリジナルメソッドを2012年に創りました。今はまだ100名に満たないですが、これからどんどん国内外で広げていきたいですね。「Be a SAMURAI」です!
――「かむゐ」はメンバーを常に募集しているんですか?
特にはしていないです。でも「かむゐ」も来年20周年。殺陣ワークショップはもう10年以上やっていますし、剱伎道も5年。これからさらに本格的に活動を広げていきます。今後は是非プロを目指す人材とも数多く出会いたいですね。募集していこうかな(笑)。「かむゐ」は日本から世界に向けた「サムライ・アーティスト」です。
――「かむゐ」は海外で熱狂的なファンが多いですが、海外で受け入れられるためには一番何が必要ですか?
その国の文化、国民性を理解し、リスペクトすることを心がけています。向こうが大事にしてるものは心底大事にするし、でももし裏切られたりするとこちらも本気でやり合います。自分だけでもなく、相手に媚びるわけでもなく、わかり合うために本気で付き合うことですかね。自分たちの本気のパフォーマンスや姿勢は評価されている実感はあります。日本人として、人間として「美しい」という言葉をよくいただきますが、本当におこがましいですが、嬉しい限りです。その目指し続ける生き様が無様にならないように真っすぐ活動を続けていきたいですね。日本人は遥か昔から海外に渡って、様々な国で受け入れられ、必死に生きてきた歴史があります。7年前にポルトガルに仕事で訪れた時に、隣のスペインに支倉常長の像がある村があると聞いて、興味が湧き、予定を変更して立ち寄りました。もしかしたら、着物を着て刀を差した人がその村を訪れるのは、本当に400年ぶりだったかもしれません。本当に支倉常長の像が仙台の方角を向いて立っているのを見たときはなんとも言えない気持ちになりました。日本人が来たと村が大騒ぎになりました。その村は侍の子孫たちの村。コリア・デル・リオ。今も600人を超えるサムライの末裔が住んでいます。一人のおばあちゃんが駆け寄ってきて「うちの旦那がハポン、日本人でお前と同じ顔をしてるから、会いに来てほしい」って言うんです。それで家まで行ったら、その老人はかなりのご高齢でなんとも言えない穏やかな表情をしていました。まあ、400年経っているんで完全にスペイン人の顔でしたが(笑)無口で車椅子に乗ったまま動けない。なので玄関で見てもらって、家の前のストリートで演舞しました。その顔の深いシワに涙が滲んでいました。その深い目は吸い込まれるようでした。自分は一人の人間として、世の中に何を伝え、残せるんだろう?アーティストとしてどうやって生きていくか、などを真剣に考える機会になりました。それからどうしてもその村に戻りたい、またパフォーマンスしたいとずっと切望していて、昨年かむゐヨーロッパツアーの最後に再訪し、みんなで劇場公演や文化交流を果たすことができました。日本語は喋れないけど、今もなお侍の子孫がかの地にいるんです。そういう事実、歴史に出会える。今まで眠っていた歴史です。それを知ったからには、自分たち語らなければいけないし、何かを思うならば体現しないといけない。それも表現者としての使命だと思います。あくまで一つの例ですが、幸いにも本当に数多くの出会いに恵まれ、アメリカでもイタリアでもスペインでも中東でも、本当にその国ならではの繋がりとストーリーに包まれて支えられています。
――日本の文化とか伝統とか芸道を伝えるとともに、“想い”を伝えて、世界中を旅している感じですね。
そうですね、“想い”はこちらももらっています。もらったものに対してきちんと返す、お礼をすることができるのが、僕ら日本人なんです。よく外国人の生徒に言っているのは、侍も忍者もウォリアーじゃないという事です。文化人なんです。そこはわかって欲しいと伝えています。それは教育を受けて、文化、日本を背負っていたので、芸能芸術の塊なんです。だから僕は侍は真のアーティストだと思います。
島口哲朗
――小林未郁さんが、島口さんの事を「生き方とか美学とかのルールがしっかりあるので、どこの国に行ってもそこのルールを理解できるし、向こうの人にも日本人ってこうなんだって思ってもらえる。それで多分スムーズに交流ができたり、コミュニケーションが取れるのだと思います。だから向こうも本気で彼を理解しようとするし、こういうときは日本人ならどうするんだ?というのを真剣に聞いてみたくなるじゃないですか」と、言っていました。
時には自分より外国人の方が、よっぽど日本の事を知っていることがあります。すごいと思いますよ。世界中の国の人がリスペクトし、日本を理解、共有してくれているのに、なんで日本人は気づかないんだ、なんでそこを発信しないんだといつも思います。コンテンツは本当に良いものを持っているのに、それを発信しないのがもどかしいというか。だから自分たちは自分たちのやり方で日本をどんどん発信していきます。
「サムライ・アーティスト」として。一日本人として自信をもって。
島口哲朗
アニメ・ゲームなどがクローズアップされがちだが、あくまでそれは届きやすいから海外の人々に多く愛されているだけで、もっともっと素晴らしいこういった日本元来のカルチャーを発信することができれば、間違いなくもっとマーケットは広がっていく。
こうした島口氏のようなパイオニアの背中をおって、もっと多くの種類のジャンルの「日本」が世界に受け入れられていくことを切に願う。
SPICE総合編集長 秤谷建一郎
企画・編集=秤谷建一郎 取材・文=田中久勝 撮影=三輪斉史
日時:2017/4/28
会場:日本橋公会堂
出演者:
島口哲朗
まつながまき/内田祐誠
奥野亮子(鵺的)
日本大学芸術学部映画学科卒業。
歌舞伎などの舞台で経験を積んだ後、1998年 『剱伎衆かむゐ』を創設、主宰を務める。
形式美と芝居と武術を融合したサムライ・ソード・アーティスト。
J.F.ケネディーセンターをはじめとするKAMUIアメリカ公演、イタリア国立ペルゴラ劇場公演やヴェッキオ宮殿での演舞、ロシア国立エルミタージュ美術館公演などのヨーロッパツアー、アルマーニホテルドバイ、ブルーノートなどでのディナーショー、短編映画主演など多岐にわたる。