《魔笛》でスタート! オペラ新芸術監督の大野和士が語る 新国立劇場 2018/19シーズンの魅力
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新国立劇場 オペラ芸術監督 大野和士 (撮影:長澤直子)
指揮者として国際的な活躍を続けている大野和士が、新国立劇場の芸術監督に就任しての初めてのシーズンが、2018年10月3日からのモーツァルト《魔笛》を皮切りにスタートする。この《魔笛》に加え、西村朗作曲《紫苑物語》(世界初演)、ツェムリンスキー《フィレンツェの悲劇》とプッチーニ《ジャンニ・スキッキ》のダブルビル、そしてプッチーニ《トゥーランドット》と、新制作が四つも揃う意欲的な2018/19年のシーズンだ。その魅力を大野に聞いた。
20世紀以降のオペラを自主制作する
―― 新国立劇場は、東京という魅力的な都市のオペラ・ハウスとして大きな期待が集まっています。どのような理念を持ってオペラを上演していきたいですか?
東京は膨大な量の情報が集まって来ます。そして東京からは色々な発信がなされています。今まで培った伝統をもとに、オペラという形式においても、新制作のオペラのワールド・プレミエなどを通して、東京から情報を発信できればと思っています。
―― 新国立劇場のレパートリーを増やしていく上で、どのようなお考えに基づいて演目を選びますか?
2年ほど前から、この10月にスタートするシーズンの準備を始めました。新国立劇場の、ここ15年ほどの上演演目を見ますと、古典的なレパートリー以外にも、20世紀に作曲されたオペラなどをかなり取り上げています。ただそれらはプロダクションをレンタルする形が多かったので、せっかく上演したオペラの再演ができない。ですから今後は、自分たちの劇場で新制作をするか、もしくは既存のプロダクションの上演権と装置・衣裳を取得して上演できるようにする、という二つの方法で20世紀オペラも増やしていけたらな、と思っています。そして21世紀に入ってからのオペラにもかなりポピュラーになっている作品もありますので、そこにも目を向けていかなければと思います。それから、当然のことながら、新しいオペラを日本で作りたい。それは日本語のオペラとは限りません。世界的な作曲家や評判を取っている演出家に仕事をしてもらい、新国立劇場の新制作オペラを発表する。そして、そのオペラを世界の他の劇場に引き継いで上演してもらう、というスタイルを取りたいです。
ロシア、ベルカント、そしてバロック・オペラ
―― 通常のレパートリー演目に関してはいかがですか?
現在、レパートリー演目の中でもう少し増やした方がいいんじゃないかな、と思うのはロシア・オペラです。ロシアのオペラがレパートリーの中に残っていなくて。あとはベルカントですね。ベルカントのオペラもある程度のものはあるんですけれども、豊富なレパートリーとはいえません。ベルカントは何といってもオペラの一つの華ですから、充実させていきたいと思っています。オペラ史の中で何が重要か、そう考えるとロシア・オペラとベルカントは欠かせません。
―― オペラの2本立て(ダブルビル)とバロック・オペラを交互に上演していきたいという構想もあるそうですね?
はい。バロック・オペラは小劇場オペラや中劇場のコンサート・オペラでやったきりで本格的な上演がなかったので、バロックの演目を一つずつ増やしていきたいと思っています。それからダブルビルですが、一晩の演目で一挙にレパートリーが二つ増えるということにもなりますので、面白いカップリングで増やしていって、色々組み合わせていきたい。今シーズンにはプッチーニ《ジャンニ・スキッキ》がありますが、これはもともと作曲された三部作としての一挙上演も視野に入れています。ダブルビルは他にも、たとえば童話二つを組み合わせる、ということもやってみたい。今シーズンのツェムリンスキー《フィレンツェの悲劇》と《ジャンニ・スキッキ》の組み合わせのポイントとしては、どちらもフィレンツェを舞台にしていることです。アルノ川が流れていて、様々なパラッツォが建っている、そこである部屋にズームインしていくと、三角関係の嫉妬による殺人が行われていた。その作品が終わった後は、また別の建物にズームインしていくと、そこでは遺産相続に伴うドタバタが行われている、といった感じです。テレビドラマ的な角度で、一幕物それぞれに光をあてていくものです。
時代と共に変化する作曲家への評価
―― 20世紀のオペラは、今聴くと新たな発見があるものも多いです。時代とともに作曲家の評価も変わっていきますね?
たとえば、ツェムリンスキーは1990年代頃に再発見のようなことが行われ、彼がマーラーと同時代人にして、シェーンベルク、ベルクの直系の先生であることや、世紀末から1900年代を超える時期のウィーンで忘れてはならない作曲家だと分かってきました。《フィレンツェの悲劇》のような大変重要な作品を残していますし、今度、私が東京都交響楽団で指揮をする『抒情交響曲』も、マーラーの『大地の歌』をある程度意識はしながらも、調性の概念から言いますと、第一次世界大戦を経験する前に亡くなってしまったマーラーの世界よりも幅広く無調に広がっていきながら、アラブの愛の詩に基づいた交響曲なので、それがとてもセンシュアルに響く、というとても微妙なニュアンスに富んだ曲です。それは《フィレンツェの悲劇》も同様です。1960年代まで忘れられた作曲家だったマーラーは、今日においては完全にクラシック音楽の中心的なレパートリーになっています。それと同じように、おそらく、ツェムリンスキーやシェーンベルクの一部の作品、あるいはノーノなど、たくさんの20世紀の重要な作曲家の作品にもこれからもっと光が与えられていくのではないでしょうか。
―― ロシア・オペラにおけるショスタコーヴィチなどもそうでしょうか?
そうですね。ショスタコーヴィチも、そしてプロコフィエフのオペラも。特に1920年代から30年代に書かれたオペラは、まずはロシア革命の影響があってなかなか現実的に上演が難しかった、ということもありますし、それに引き続いてスターリンの時代が来てしまった。全体主義の中で、粛清の危機もあり、アートの自由が侵されていた時代の作品、プロコフィエフの《賭博師》《炎の天使》、そしてショスタコーヴィチの《ムツェンスク郡のマクベス夫人》などは1990年頃になってやっとリバイバルされてきて、西側にも知られるようになりました。このような作品、あるいは、ブリテンやヤナーチェクのオペラなど、オペラ史において非常に重要な位置を占めている作品たちが、こういう私たちの劇場のシーズンの一演目、二演目を自然に飾れるような時代が来なくてはいけないだろうな、と思っています。
オペラの演出家に求められる資質
―― マエストロはこれまでヨーロッパの歌劇場で音楽監督、首席指揮者などを務めてこられました。新国立劇場では芸術監督として、演出家、そして出演アーティストたちを選んでいく立場になられたわけですが、どのような視点で演出家を選んでいますか?
まず、独自性、オリジナリティを持っているということ。それが第一です。そしてそのオリジナリティが音楽とあいまって、オペラという立体的な芸術に快い刺激を与えてくれる人。あるいは観た方が能動的に、自分の中に問いかけを繰り返すことに楽しみを覚えるような、そうした視覚的な刺激を与えてくれる人。そういう人たちを中心に紹介しようと思っています。なぜなら、一方において、演出家の中にはわりと独善的で、個性も強いのですが、破壊的な方面に舞台を利用していく人たちがいるんですね。
―― つまり自分の世界を表現するためだけに周りを利用していくというようなことですか?
そういうことです。これまでそういう演出家とも仕事をして来ましたが、そうした時に演出家に、「なぜこの作品が必要だったんでしょうか?」ということを私の方から問いかけて、議論になることが多かったんです。例えば、合唱が中心の曲なのに、その合唱団を別のスタジオに閉じ込めてヘッドホンをして歌わせ、会場には音だけをスピーカーで流す。見るものは映画のような映像だけをずっと流している。もしくは主役のソロ歌手たちを舞台脇に配置して歌わせて、やはり舞台には画面しかない。このような演出では、オペラ劇場で生の人間の声を聴くという芸術なのに何のためにこれを?という根本的なことを問わなければならなくなってしまいます。
―― やはりオペラの音楽をちゃんと聴いて、尊重してくれる人でないと困る、ということですね?
そう。ただ、それも「私はオペラの音楽をよく解って、音も解って、スコアのことも解っている、だからこういう音と共にこういう動きを出します」というのがいい演出かというと、そうでもないんです。そこが難しいところです。
―― 確かにそうですね。
オペラでも普通の演劇作品でも、ここは作劇上、どうしてもこう動いてほしい、という人間の動かし方の原理はあると思います。でもそれに加えて、音楽の間尺がありながらも、そこに演出家として、あるいは舞台美術やヴィジュアルアートとして、その人の個性が感じられて、それが音の流れと共に、独特の何か、その人の才能にもとづいた力で動いていく、そういう魔法のような才能があれば、観ているこちらも「わぁ!」となりますよね。
名舞台!ケントリッジ演出の《魔笛》とは?
―― 今シーズンのオープニングを飾るウィリアム・ケントリッジ演出の《魔笛》は、そういう意味でおっしゃっていることにぴったり合った舞台になりそうですね。
モーツァルトの《魔笛》の中には、アミューズメントの良さや、深遠な思想、あるいは愛とは何か、などの様々な問いかけがあります。《魔笛》の難しさというのはおそらく、それを子供にも訴えかけ ―― 《魔笛》には子供にも分かる要素がたくさんありますから ―― 、少年少女にも、若い恋人たちにも、ひいては大人にも訴えかける、様々な要素を含んでいるこの作品を舞台化するときどう演出するか。ウィリアム・ケントリッジの演出はまず、彼独特の手描きの木炭画がプロジェクションで使われ、このような場面は子供は楽しくて仕方がないですし、大人も思わず微笑んでしまうような優しさと柔和さを持っています。
あるいは、もう少し後の〈火の試練〉〈水の試練〉が出てくるところでは、彼が描いているドローイングが飛び出してくるように見えるんです。夜の女王の登場も実に印象深い。視覚的な表出として非常に新しいものを《魔笛》の中に取り入れたという意味で画期的なプロダクションだと思います。それともう一つ、ケントリッジさんは、南アフリカ共和国のヨハネスブルクに長くお住いの方なんですね。ヨハネスブルクを離れずに、そこをベースにしてアーティスト活動をしている。彼は、自分の国のバックグラウンドを自分自身の存在理由として捉えていて、それを自分と不可分だと思っている。様々な政治状況を自身で体験しているからこそ、例えば、《魔笛》の中のモノスタトスやザラストロの扱いなどに、彼の信念に基づいた描き方が行われているのです。
『魔笛』
世界初演 石川淳原作の《紫苑物語》
―― 2月にはマエストロご自身が指揮をする《紫苑物語》世界初演が控えています。石川淳の原作を読みましたが、歌というものを扱った非常に厳しい内容を持っていました。どのようにオペラになるのでしょうか?演目とアーティストはどのように選ばれましたか?
石川淳さんの著作はそれまで『狂風記』しか読んだことがありませんでしたが、ある時にこの『紫苑物語』を紹介されて読んでみました。私は、職業柄といいますか、オペラの原作になるものを探す、という読み方をすることが多いのですが、それでこの原作を読んだ時にまずは、歌の道に才能が溢れる一人の若者が主人公として選ばれている。しかし彼は、歌の中に人生を見つけられない。そして今度は、人を殺めることに埋没していこうとするのだけれども、そこにも人生を見つけられない。狐の変化とのセンシュアルなシーンを通しても見つけられない。そして一番最後に、自分と瓜二つの人間が彫っている仏像を射るという時点で、すべてが崩落して彼自身も消えます。
それで、彼が生きていた時に植えさせる草が紫苑なんです。紫苑は「忘れな草」という意味なんですね。一方、仏像を射た時に、そこに一面に咲き誇っているのは「わすれ草」という草なんです。それはどういうことかといいますと、主人公は自分を残すための手段として歌を考えていた。自分が生きているという実感を得るために、人を殺めたり、センシュアルな行為に道を見つけようとしたりしても、そこには何も生まれなかった。ところが、彼自身が死を賭して仏像を射て、すべてが崩落した時に、石川淳の最後のページには、そこに何とも妙なる調べがその時から流れるようになり、時に人におどろおどろしい、非常に不思議な気持ちにさせた、と。そしてその歌を土地の人たちは鬼の歌がきこえるといった、とこういう風に書いてあるんです。
おそらく、この〈鬼の歌〉というのが、彼が自分のことばかり考えていた時には残せなかったものが、自我が消えるというディメンジョン(次元)を通して、すべてが無くなった時に彼が残したもので、彼は天与の才を持って生まれた歌人として、それを死と交換する形で残した永遠の命を持つ歌なんです。そしてそこには「わすれ草」がしげる。
―― 芸術とは何か?を突き詰めたような話ですね。
実際、クラシック音楽とはそもそも何か?という命題にも通じるところがあると思っています。クラシック音楽がポップと違うところは、ベートーヴェンの音楽は250年経っている、ということですよね? 色々なものにアレンジされて、今はもう、ベートーヴェンだと知らないで聴いている人もたくさんいるということです。それがクラシックたる所以なんです。300年聴き継がれている。しかも国を、民族を、時空を超えて。《紫苑物語》は、それになれるかなれないか、という話なんです。
主人公の宗頼以外の登場人物たち、うつろ姫という彼が結婚したけれども二度と接触が無くなってしまう女性がいますが、彼女は権力の権化として描かれます。そのうつろ姫と一緒に権力を取ろうとする藤内という人物、弓の名手である叔父の弓麻呂、そしてもう一人、彼と夜を交わす狐の化身である千草がいますが、これら登場人物たちが物語を織りなし、最後には山に登って彼が矢を射る。そして最後の最後には、このように(歌う)、どこかで聴いたことがあるような、何か少し懐かしいような、恐れをなすところがある響が聴こえてきます。これはオペラになる!と思ったわけです。
良いオペラを作るための作曲家と台本作家の関係は?
―― 台本の佐々木幹郎さんと、作曲の西村朗さんは、これまでマエストロが直接一緒に仕事をしたご経験から、このオペラの作者として選ばれたのでしょうか?
それもあるんですけれども…。まずは、台本作家と作曲家の間で気心が知れていて、色々なことが言い合える、というのがとても大切だなと思って。西村さんに作曲をお願いしようというのを最初に決めたのですが、その時に西村さんに聞いたのが詩人の佐々木幹郎さんのことでした。早速、佐々木幹郎さんの詩に西村さんが曲を書いた合唱オペラを観に行きました。それはもう2年以上前のことですが、そこからだんだん企画が生まれたのです。ヴェルディとピアーヴェの間に、モーツァルトとダ・ポンテ、もしくは《魔笛》を書いたシカネーダーとの間にあったように、あるいはプッチーニとイッリカ&ジャコーザの間にあったようなことですね、あるいはホフマンスタールとリヒャルト・シュトラウスでもいいですが、「ここではこういうシラブル(音節)を作ってくれ」とか「ごめん、この部分は全然作曲しないことになった」とか言われてピアーヴェが悲しい思いをしたりとか、ああいいうやり取りはオペラの制作過程では絶対やらなくてはならないことなんですね。
もう一つは、オペラの大きな魅力として重唱という形式があります。二重唱、三重唱、四重唱、五重唱、六重唱…。それはその人数の人たちが、同時に、それぞれの個性を出しながら、違う音高の違うパートを、違うリズムで違う和声の混じりかたで歌い、各自の思いが語られながら一つの時間内に流れていく。これはオペラでしかありえないんです。今回は、重唱に基づいた台本を最初から設定してください、ということを私から申し上げました。四人が織りなす、六人が織りなす、といったナンバーが出てくると思います。
『紫苑物語』トム・シェンクによるセットプラン
世界の演劇人、笈田ヨシの演出
―― 《紫苑物語》は自然について多く語っています。この物語を手がける演出家の笈田ヨシの演出もそういった面を強調することが多いので、きっとこのオペラによく合うのではと思いますが?
私が、新しい形のオペラを作る、と宣言するために欠かせなかった人材が演出家の笈田ヨシさんです。笈田さんは三島由紀夫の最後の弟子でいらっしゃいます。三島さんが自決する少し前に彼は三島さんから、後で思えば暗示的な意味を持つ品を受け取っています。当時それに気がついていれば、と彼は悔やんでいるんです。笈田さんは日本で俳優、映画俳優でありながら、禅宗の修行もされ、あるいは歌舞伎や能の世界にも通暁しています。そしてピーター・ブルックの演劇集団に入り、ヨーロッパのみならず、アラブなど世界各地で演劇活動をされました。フランスとイギリスでも俳優と映画監督の仕事をし、今日ではオペラ演出家としてヨーロッパ各国で活躍している。彼以外にこのようなスケールで活動している人を見たことがないです。笈田さんは現在85歳。《紫苑物語》は彼の自由な演出に委ねようと思っています。これまでの日本、そしてヨーロッパでの全てのご経験をこの物語の実現にかけていただきたいです。
アレックス・オリエとの共演が実現する《トゥーランドット》
―― 最後の質問になります。今シーズンの最後の演目で、東京文化会館との共同制作でもあるプッチーニ《トゥーランドット》です。指揮は大野さんご自身、演出はバルセロナの演劇集団、ラ・フラ・デルス・バウスのアレックス・オリエ。キャストも含めて非常にエキサイティングな布陣です。なぜ演出をオリエさんに依頼したのですか?
オリエ氏とはこれまでシェーンベルク《期待》、ダラピッコラ《囚人》、そしてワーグナー《さまよえるオランダ人》で一緒に仕事をしました。彼の他の演出作品も観ています。彼の演出には二つの大きな特徴があり、私は指揮者としてその両方を経験することができてとても良かったのですが、一つは《さまよえるオランダ人》の時に、美術セットだけですでに「わぁ!」と目を見張ってしまうような非常にスペクタクルなものが現れて、その舞台を出演者たちが上へ下へと駆け巡るという動きに満ちたものだったんですね。しかも、その装置の意外な使い方で登場人物の内面的な世界を掘り下げる。そいういう意味でダイナミズムのある、他に類をみない舞台を作る人だと思います。
一方では、ダラピッコラとシェーンベルクを上演した時のこと。シェーンベルクの《期待》は、登場人物が少ないのですが、その人物を彼はほとんど動かさないんです。歌手は私のほぼ真正面にずっといた位でした。ところが、装置と照明だけで、すでに亡くなってしまった恋人を追いかけている狂気のヒロインが、すごいスピードで走っているかのように見えるんです。上下を緑色で囲み、残像がほつれていくかのような効果を使い…。それがある時点で、彼女がバタッと倒れる。ヒッチコックか!と思うようなサスペンスの効果でした。でもこのバタッをやるには、彼は音楽を実によく聴いているんです。そこがまた素晴らしいところでした。先ほども言ったように、音楽に合わせる演出なのではなく、音楽を聴いているがゆえに出てくる彼のイマジネーションが強烈だったのです。ですから《トゥーランドット》などでは、すごく新しい境地を開いてくるのではないか、と期待しています。
―― それぞれの演目の魅力がよく分かるご説明、どうもありがとうございました。素晴らしいシーズンになるようお祈りしております。
取材・文=井内美香 写真撮影=長澤直子