『オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展』レポート 日本かぶれのフランス人画家が挑んだ「視神経の冒険」を辿る
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手前/ピエール・ボナール《猫と女性 あるいは 餌をねだる猫》 1912年頃 油彩、カンヴァス オルセー美術館
2018年12月17日まで、東京・六本木の国立新美術館で『オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展』が開催されている。9月26日に開幕した本展は、19世紀末から20世紀前半にかけて活躍したフランス人画家、ピエール・ボナール(1867~1947)の大回顧展。前衛芸術家集団だったナビ派に属し、日本の浮世絵にも影響を受けたことから「日本かぶれのナビ」と呼ばれたボナール。フランス・オルセー美術館の所蔵作品を中心に、130点超のボナール作品が見られる本展のポイントを詳しくレポートしていこう。
近年再評価を受けるナビ派の中でも、日本美術の影響が濃いボナール
開幕前日に行われたプレスプレビューにて、一足早く知ることができた『ピエール・ボナール展』の全容。この日は、本展を監修したイザベル・カーン氏(フランス・オルセー美術館学芸員)も来日し、集まった報道陣を前に本展の概要を解説した。カーン氏はオルセー美術館が世界で最も多くのボナール作品を所蔵する施設であることを挙げた上で、「今回の展覧会の醍醐味は、オルセー美術館と日本の美術館から集まったボナールの作品が呼応する形で見ていただけるところにあると感じています」と、開幕の喜びを込めて語った。
本展を監修したイザベル・カーン氏(フランス・オルセー美術館学芸員)
1867年にパリ郊外の町に生まれたボナールは、20歳でパリの美術学校アカデミー・ジュリアンに入学。その後まもなくしてポール・セリュジエがモーリス・ドニらと結成した芸術家集団「ナビ派」に参加した。「予言者」の意味を持つナビ派は、前衛芸術的な活動で近代芸術の先駆的な役割を果たし、後のアールヌーヴォーの道筋のひとつにもなった。今、日本でボナールの回顧展が開かれるのには、近年、本国・フランスを中心に起こっているナビ派再評価の高まりが深く関連している。
ピエール・ボナール肖像(展示室のパネルより)
23歳の時にパリで見た「日本の版画(日本の巨匠たち)展」をきっかけとして、日本美術の影響を強く受けたボナールは、「日本かぶれのナビ」との異名を持つ。3年前にオルセー美術館で開かれたピエール・ボナール展は、同館の企画展で歴代2位となる51万人を動員。このことからも、フランスでのナビ派再評価の波が受け取れる。
「日本かぶれのナビ」が描き続けた命の喜び
本展は、初来日の30点を含む130点超の作品と資料が7章構成で展示されている。それぞれの章はボナールの生涯の一節、あるいは人生の長い期間を通じて描かれた題材がテーマとなる。全体の導入となる第1章「日本かぶれのナビ」では、我々にとっても興味深いボナールのジャポニスムが紹介されている。ここでは《黄昏(クロッケーの試合)》の前で、カーン氏による作品解説も行われた。
展示風景
「日本とフランスの文化というのは、交差しながらハイブリッドな新しい文化をも生み出してきました。ボナールが生きた時間も、その交流において特に重要な時代のひとつです」とカーン氏。続けて「ボナールが創作を始めた初期の頃から日本の影響というのは大変重要でした」と語る。
手前/ピエール・ボナール《乳母たちの散歩、辻馬車の列》 1897年 多色刷りリトグラフ(四曲一隻) ボナール美術館、ル・カネ
さらにカーン氏は、「彼に美術の新しい表現方法、または新しい見方というのを可能にしてくれたのは日本の美術」と解説。背後の作品を例に、「新しい見方」という部分について「装飾的で、なおかつ従来の遠近法を使っていない、奥行きのない作風もその一部です」と説く。
手前/ピエール・ボナール《黄昏(クロッケーの試合)》 1892年 油彩、カンヴァス オルセー美術館
加えて、この作品がボナールの家族を描いたものであるといい、向かって左端から二人目の男性が父親のウジェーヌ、中心にいる白いドレスの女性が妹のアンドレであると説明。動物を好んで描いたボナールらしく、この作品にも犬が描かれている。その一方で、カーン氏は右上に描かれた少女のロンドを指しながら、この絵が非現実的な世界を交えた作品であることも強調。「全体を通じて、彼の作品には命の喜びを謳歌するイメージが脈々と続いている」とまとめた。
グラフィックアートや写真など、豊富な資料でボナールの肖像に迫る
第2章「ナビ派時代のグラフィック・アート」では、ボナールの手によるリトグラフのポスターアートや本の挿絵などが展示されている。万国博覧会の開催で世界中の文化が集まり、芸術文化の最先端都市となった当時のパリでは、ボナールらナビ派の画家も数多くの商業美術を手がけた。
手前/ピエール・ボナール《フランス=シャンパーニュ》 1891年 多色刷りリトグラフ 川崎市市民ミュージアム
軽妙なイラストが描かれた壁の前のガラスケースの中には、当時、「くそったれ!」の第一声から始まる過激な内容によりパリで大スキャンダルを巻き起こした戯曲『ユビュ王』にあてた挿絵も展示されている。
手前/ピエール・ボナール《ピアノ曲、家族の情景》(クロード・テラス作曲) E.フロモン、パリ、1893年刊 リトグラフ 栃木県立美術館
第3章「スナップショット」には、当時まだ大衆に出回りはじめたばかりのポケットカメラで撮影されたボナールと彼の近親者の写真が並べられている。ボナールの肖像は各章の解説パネルにも大きく使われており、その姿からはおしゃれに気を使う紳士的なパリジャンであったことが伝わってくる。戸外での写真撮影が身近になったばかりの頃。一枚一枚はその構図から芸術的要素を感じさせるものもありつつ、水辺で恋人や子供と裸で戯れる様子の写真などからは自由奔放な印象も感じられる。
第3章「スナップショット」の展示風景
また、この第3章と第4章「近代の水の精(ナイアス)たち」で着目すべきは、後にボナールの妻となる女性・マルトの存在だ。26歳の頃にマルトと出会ったボナールは30年以上に渡って彼女と密な関係を続けた後、1925年に正式に夫婦になった。驚きなのは彼女の本名と実年齢を知ったのは結婚した時だったということだ。
第4章「近代の水の精(ナイアス)たち」の展示風景
第4章の作品には、入浴や身支度をモチーフとして、女性の丸みを帯びた身体が親密的な視点から描かれているが、その中にはマルトがモデルになった作品もある。《浴盤にしゃがむ裸婦》には、第3章に展示されている《浴盤にしゃがむマルト》の写真とほぼ同じ構図で彼女の姿が描かれている。ここには数々の習作も展示され、裸婦というモチーフに対するボナールのこだわりが感じられる。
ボナールが挑んだ「視神経の冒険」
第5章「室内と静物『芸術作品-時間の静止』」には、ボナールが「不意に部屋に入ったとき一度に目に見えるもの」を追求して描いた作品が飾られている。それは本展のキーワードのひとつであり、ボナール自身が手帖に書き残した「視神経の冒険(生の見方を描くことの追求)」という世界観の入り口ともとれる。
手前/ピエール・ボナール《猫と女性 あるいは 餌をねだる猫》 1912年頃 油彩、カンヴァス オルセー美術館
これらの作品群においてボナールは、見たものを一瞬で頭に記憶し、その印象をスケッチに書き起こして制作に臨んだという。多くは食器や果物がテーブルの上にあり、その周りに人や動物が存在するという構図で描かれ、光、色彩、空間の印象など、ボナール自身が感じ取った生の感覚が投影されたものといっていい。
手前/ピエール・ボナール《トルーヴィル、港の出口》 1936-45年 油彩、カンヴァス オルセー美術館(ポンピドゥー・センター、国立近代美術館寄託)
第6章「ノルマンディーやその他の風景」と第7章「終わりなき夏」には、南仏やノルマンディー地方で描かれた後年から晩年までの作品が飾られている。1909年にジヴェルニーを訪れ、モネと交流を深めたボナールは、他の多くの印象派画家も愛したフランスの田舎の風景を描き残している。前半生では室内の親密な空間を数多く描いてきたボナールが、この時期になって自由を得たかのように戸外の風景を作品にしているのが興味深いところでもある。
第7章「終わりなき夏」の展示風景
《夏》のように幅3メートルを超える大作もあり、明るい色彩で描かれた風景の数々からは、カーン氏が説くような「命の喜び」や雄大な自然への讃歌が伝わってくるかのようだ。晩年の住まいとなった南仏のル・カネの自宅で、1947年に79歳で最期を迎えたボナール。本展の最後の壁には、彼の遺作となった《花咲くアーモンドの木》が架けられている。
手前/ピエール・ボナール《花咲くアーモンドの木》 1946-47年 油彩、カンヴァス オルセー美術館(ポンピドゥー・センター、国立近代美術館寄託)
12月17日まで開催されている『ピエール・ボナール展』。本展では女優の神田沙也加が音声ガイドを担当しているほか、鑑賞後には作品の世界に没入できるVR空間も用意され、様々な仕組みでボナールという画家の世界観を理解することができる。ぜひ、ボナールが挑んだ「視神経の冒険」に思いを重ねてみてはいかがだろう。