“デビュー25周年”アレクサンダー大塚インタビュー!初代タイガーマスク ストロングスタイルプロレス12・17後楽園で“デビュー35周年”船木誠勝と待望の初シングル!(25周年記念試合)
初代タイガーマスクストロングスタイルプロレス12・17後楽園でセミファイナルに組まれたのが、船木誠勝とアレクサンダー大塚の一騎打ちだ。船木は35周年、アレクは25周年という区切りの試合。しかも両者がシングルで対戦するのはこれが初めてのことになるという。ともにプロレスを代表し格闘技でも大きな試合に臨んでいるが、両者の原点はプロフェッショナルレスリング藤原組にあった。アレクがデビューしたときすでに船木は藤原組から離れパンクラスを旗揚げしていたのだが、アレクの入門テストを担当したのが船木だったのである。アレクは合格するも、そのときはプロ入りを辞退。それでもあきらめきれず、アレクはプロレスデビューを果たし、30年近くの時を経てストロングスタイルプロレスのリングで船木と一対一で向き合うことになったのである。待望の船木戦を控えるアレクに話を聞いてみた。
――アレク選手は今年でデビュー25周年です。
「そうですね。15周年、20周年と節目となるところで自分で記念大会をやってきたりもしたんですけど、その都度、まさかこんなに長くやるなんてという感じを持ちつつ、それでいて、15周年のときは20周年、20周年のときは25周年というように、5年区切りを目標にやってきました」
――5年ごとに、その先の5年をめざして闘ってきたわけですね。
「とりあえず、そこ(5年後)まではやっていこうという気持ちですね」
――ただ、今年に関しては記念の自主興行的なものはできなかったですよね。
「そうなんです。夏(8月18日)がデビューなので、その時期に向けて昨年の暮れ、今年のアタマくらいからどうみなさんに楽しんでもらえるかと思いながら大会をやろうと動いてはいたんですよね」
――しかし、昨今の社会情勢でかなわなかったと。
「そうなんです。かなり早い段階でボクは(開催を)断念しました。というのは、自分の母親が結核にかかりまして。父親が亡くなる前に父親と過ごそうと思い一度徳島に里帰りというか、拠点を戻していた時期があったんです。父が亡くなってからもしばらくいて、徳島にいる時間が多かった中で母が結核になりまして、そのときに濃厚接触者として保健所で検査受けたら保菌者扱いになったんですね。新型コロナウイルスと結核は違いますけど、でも肺の病気、感染症というところで、これって近い感じだなと思って。これ(新型コロナウイルスの影響)は長くなるなと思い、大会開催はあきらめざるを得なかったんです」
――自主興行はかないませんでしたが、同期のモハメドヨネの記念大会には参戦しましたよね。
「そうですね。今年、NOAHの金沢大会や後楽園大会に呼んでいただいて、(ヨネとの)ラブ・ウォリアーズを復活させました」
――今回、ストロングスタイルプロレスのリングで25周年記念試合ができるということで、とりあえず記念試合は年内に間に合ったという感覚ですか。
「そうですね。しかも、今回は出させていただくというだけではなくカード的にもアレクサンダー大塚としてグッと気が引き締まるカードを組んでいただけて、本当にありがたく思っています」
――なにしろ船木誠勝選手とのシングルマッチですからね。船木選手は35周年記念試合として登場します。
「そうなんですよね。ボクが20周年のタイミングあたりで船木さんが大阪に移り住まれて、その流れからなぜか船木さんとは奇跡的にちょこちょこと縁を感じるような感じになりました。同じ大会でご一緒させていただいたり、船木さんの33周年の大会に参戦させていただいたり」
――ただ、シングルで対戦するのは初めてですよね。
「そうですね。初シングルです」
――船木選手との出逢いは、藤原組の入門テストだったそうですね。
「そうなんです。徳島、四国のUWFの後援会を通じてテストを受けさせてもらいました。当時はUWF三派に分かれた後で、前田さんのところ(リングス)なのか、藤原さんのところなのか、高田さんのところ(UWFインターナショナル)なのか、みたいな流れだったんですけど、後援会の方を通じて藤原組を受けることになったんです」
――入門テストのとき、船木選手がテストを担当していたのですか。
「ハイ。ボクは特別に受けさせていただいて、テストではボクと船木さんのマンツーマンでした」
――ほかに入門希望者がいたとか、ほかの選手もテストを見ていたわけでもなく。
「ええ。ボクだけ特別に見ていただいたんです。そのときは船木さんお一人で、ボクをテストしていただきました」
――そのとき、アレク選手はプロレスラーの船木選手を知っているわけですよね。
「ハイ、もちろんです。当時の船木さんは身体もいまよりも大きくて、本当のレスラーってこういう人たちのことを言うんだなという思いでした」
――アレク選手は、そのテストに合格したんですよね。
「あとから話を聞くと、受け入れ状態は整っていたらしいです。が、自分だけ特別にテストをやっていただきながらも、自分の中でなぜか、その場で急に覚悟が持てなかったんです」
――当時、アレク選手は何歳でしたか。
「20歳か21歳だったと思います」
――そのとき、入門を辞退してしまった?
「ハイ」
――その後、あらためて藤原組に入門するわけですが、テストを受け直した?
「テストというテストを受けた感じではなく、押しかけ的な感じで入門したんですね。3年半くらいのブランクがありました」
――気持ちに整理が付いた、やっぱりやりたいということですか。
「そうですね。ボクがあきらめた頃、高校の先輩である新崎さんがプロレスの世界に入って新崎人生となり、ユニバーサルからみちのく、WWFに行きました。WWFのマニアツアーに参戦したときの新崎さんの顔を見て、やっぱりプロレスラーになりたいと思ったんですね。この世界に足を踏み込まずしてあきらめるのは本当にもったいないことだと思い、覚悟を決められました」
――WWFマニアツアーの新崎人生選手を見て覚悟を決めたと。
「そうですね」
――ただ、そのとき船木選手はすでに藤原組ではなかったですよね。
「そうなんですよね。パンクラスを旗揚げして。ただ、その当時、ボクの中で特別UWFスタイルにこだわってるとか、そういう感覚はありませんでした。プロレスラーとしてのベースを持ってどんなスタイルであろうが、どんな場であろうが、リングで闘う姿を見せている(藤原)組長の素晴らしさに心酔していたんです。組長はテレビにもよく出ていたし、マルチな活動も本当にちゃんと力を持った人だからなせる業だなという感じがしましたね。組長のところにいれば間違いはないんじゃないかということで、組長の下にいました」
――その後、バトラーツに移行するわけですが、かたや船木選手はパンクラスで完全に接点がなくなってしまいました。
「ボクはこの世界に入りましたけど、当時、不義理をしてしまった自分もいる。なので、船木さんにはキチンとあいさつはしないといけないと思いながらやってました。いまでも激しいですけど、ちょうどボクが入った頃から業界の移り変わり、他団体時代が加速するようになり、かたや格闘技という部分も加速。どこかでお会いすることもなくという状況がずっと続いていましたね。疎遠な状態がずっと続いていました」
――アレク選手の場合、マルコ・ファス戦はじめ、格闘技でも大きな活躍を見せました。
格闘技でも活躍したという点では、疎遠ではありながらもアレク選手も船木選手と通じる部分がありますよね。
「そう思っていただけるとうれしいです。ボクのプロレスの原点というのは、まず強さがあってだと思ってるんですね。強くあって当たり前。その中で競い合っているので勝敗は付きものですけども、強くあって当たり前というのが藤原組長から教えていただいた原点でもあります」
――そういった意味では、ストロングスタイルプロレスのリングに上がる意味は大きいですよね。
「そうですね。ボクがデビューして2年半くらいのところでUFOが旗揚げされ、そのタイミングで佐山(サトル=初代タイガーマスク)さんが復活をされた。ボクが言うのも失礼ですけど、佐山さんが初代タイガーマスクの頃のベースのような、またはそれ以上のコンディションになられて復帰されたときに対戦させていただけました。そこもボクの中でのターニングポイントではあります」
――UFOでは初代タイガー選手に勝っているんですよね。
「ハイ、そうなんですよね。自分ではただ闇雲に闘っただけなんですけど。勝利したことはもちろんうれしいですけど、なにより試合の中で一番印象に残っているのがリング上で対面したときの佐山さんの目なんですね。『オマエを殺してやる!』みたいな、殺気に満ちた目。プロレスラーたるものの殺気、心構えみたいなものをすごく学んだというか、すごく感じました」
――現在、レギュラー的に参戦していて、今回のストロングスタイルプロレス12・17後楽園で船木選手と初めてのシングルをおこないます。どんな闘いにしたいですか。
「ありきたりかもしれないですけど、ボク自身が25年培ったもの、プロレス業界で培ったものを存分にぶつけて闘いたいというのが本音です。不義理をしてしまった船木さんに、そのすべてをぶつけて挑みたいですね。新人のつもりで、がむしゃらに向かっていきます」
――アレク選手は船木選手よりも前にレジェンド選手権のベルトを巻いているんですよね。レジェンド王座戦線に再び参入という気持ちはありますか。
「レスラーである以上、欲を言えばもちろんチャンピオンになりたい、一番になりたいというのはあります。自分自身で手を挙げ声を上げるのも大切だとは思うんですけども、まずはまわりの人、お客さんに求められることが理想だと思ってます」
――気運が高まれば、という感じですか。
「ハイ、そうですね」
――では、今後についてはどうですか。
「まずは、今回のコロナ禍で25周年を迎え、それはみな同じ状況、船木さんにしても35周年でのコロナ禍ですけども、ボクはボクでボクの中において、いろいろ踏ん張りながらアイデア出しながら、選手としてもプロモーター、主催者としても考えていきたいと思います。今年は考えていたことがごっそりなくなってしまったところだったんですけども、ストロングスタイルプロレスでこのカード(vs船木)を出していただけた。そのことに対する恩返しをしたいですし、自分のできる試合、闘いをしたい。あと、25周年としては来年の8月まであるので」
――2021年8月までがデビュー25周年の期限であると。
「ハイ、自分の区切りとしてはそうですね。あと半年ちょっとありますので、よりよき状態で歩んでいきたいと思います。コロナの対策をしっかりとって、不自由な中でも対策をしっかりして、そのへんでまたなにかできるようであれば、自分でも何かしら可能であれば、(25周年の区切りに向けて)なにかしておきたいなという思いがありますね」
12・17後楽園はアレクにとっても船木にとっても大一番。過去における両者の接点を知れば、より感慨深いカードにもなるだろう。メインのレジェンド選手権試合、藤田和之vsスーパー・タイガーはもちろん、こちらも見逃せない超ド級のカードである!
(聞き手・新井宏)