アイナ・ジ・エンド、THE SPELLBOUND、高橋幸宏プロジェクト、milet等、数々の現場に参加しながら、所属するDATSやyahyelの活動も精力的に行うドラマー、大井一彌。時代にフィットするハイブリッドスタイルに迫る【インタビュー連載・匠の人】
大井一彌
自身が所属するDATSやyahyel、Ortanceというバンドのみならず、milet、アイナ・ジ・エンド、UA、AAAMYYY、DAOKO、佐藤千亜妃、THE SPELLBOUND、そして絶え間ない憧憬を抱く高橋幸宏のプロジェクトなど、枚挙にいとまがないほど数々のアーティストのライブ/レコーディングに参加しているドラマー、大井一彌。彼のドラムプレイのシグネチャーになっているのは、生音と電子音を刺激的に共振させる、いわゆるハイブリッドと呼ばれるスタイルだ。DAW上で産声をあげた打ち込みの音が鳴っている楽曲が大半を占める現在進行系の音楽シーンにおいて、タフな肉体性と電子音との高い親和性を兼ね備えた大井のスタイルは、まさに時代にジャストなビートを響かせていると言える。その一方で、彼自身が語っているようにハイブリッドスタイルは80年代に原型が構築され、一度隆盛を極めたものでもある。今、大井一彌というドラマーがなぜこれほどまで多くのアーティストに求められるのか、その理由をこのインタビューで確かめてもらえたら幸いだ。
──今、本当に現場続きの忙しい日々ですよね。
はい、いろいろやらせていただいてますね。ずっと音楽で日々が回ってるというか、毎日楽しいことをしてるという感じです。
──ただ、2020年2月後半あたりから本格的にコロナの世界になってからはしばらく現場のない日々も続いたと思います。この2年強で覚えたミュージシャンとしての実感はどんなことがありますか?
2018年から2019年にかけて、僕自身プレイヤーとしても、自分が所属しているバンドとしても、いろいろと積み上げてきたものがあって。みんなそうだと思うんですが、2020年の2月、3月くらいからそれが一気に打ち砕かれました。春ツアーに参加する仕事とか、僕のこれまでのキャリアを考えるとプレイヤーとしても大きな現場がいくつか決まっていて。そのスケジュールも夏あたりまでは再調整して後ろ倒しになりましたけど、結局全部中止になって。2020年の上半期はそういう状況でしたね。そのころは本当に暇でした。ただ、それはそれで自分の生活や人生を見つめ直すいい機会でもあったんです。もちろん、世界中が苦しい時期ではありましたけど、僕個人としてはとても有意義な時間を作れたなと思います。2020年の終わりごろからいろんなミュージシャンや団体、ライブ会場やメディアもコロナというものにどう対峙していくか策を練り始めて。そういうところに僕も少しずつタッチしながらいろんな考えの人がいるんだなと思いました。コロナ禍に入って強く思ったことは、人ってそれぞれこんなにも考え方が違うんだなと。
──本当にそうですよね。社会に対するするスタンスや考え方が、ワクチン一つとってもそれぞれ異なるし、そこで細かい分断も起きやすくなって。
それは痛感しましたね。その人にどういう矜持があって、何を信じて何を信じないで生きてるのかすごく明確になって。みんながそれを態度でも表すようになったので。いい意味でも悪い意味でも、「こういう人だと思っていたけど、実はこうだった」みたいなこともよくあって。その中で、コロナと向き合いながら社会が芸術や文化をどう復活させていくのかを目の当たりして、芸術や大衆文化は何が起きてもヌルっと復活していくんだなと思ったんです。だから、そこに関しては音楽が死んでしまうとか、このまま抑圧されて芸術や娯楽のない世界になってしまうみたいな危機感は意外となかったです。欠かせないものはどういう形であってもあり続けるんだろうなって。そこに気づいたことのほうが大きかったですね。
──たとえば一彌くんはこれだけサポート仕事もしているから、現場ごとにいろんなバックグラウンドや思考、思想を持ったミュージシャンが集っている。その中で、もしかしたら人間的な信条としてはわかり合えない人たちとも一つの音楽を共有し、協力し合って高みにもっていこうとするわけで。それは間違いなく音楽文化が持っているポジティブな側面ですよね。
本当にその通りだと思います。一人のプレイヤー、サポートミュージシャンとしての活動をしていると、お互い好きなものを共有した前提で集まっているバンドとは圧倒的に違うので。DATSやyahyel、Ortanceなど僕が所属しているいくつかのバンドはメンバーみんながお互いの趣味がいいと思っているから、多くの面を理解できるんですよね。だけど、やっぱり仕事でお会いするミュージシャンや現場の人たちは必ずしもすべてが自分の趣味に合ってるかといえばそうではないので。でも、そこが面白いんですよね。僕が普段生活している中では接点がないだろうなと思う人もいますけど、音楽を一緒に鳴らすとその中で会話できるし、深く繋がることもできる。僕はプレイヤー仕事において、人間的な素質として一番大事なのは遊牧民的な思考を持っていられるかということだと思うんです。いろんな文化的なルールのある国々を渡り歩く仕事だなって。旅人じゃないですけど。そこで郷に入っては郷に従うという姿勢でどんな現場や状況でも楽しむことができればこの仕事に向いてると思うんですね。でも、そこで気をつけなければいけないのは、「誰でもない人」になってしまうことで。やっぱりどの現場でも自分のシグネチャーというものを心のどこかで意識していたほうがいいなって。
■ドラムを始めたときから遊牧民体質というか(笑)、いろんなところでいろんな人とセッションをしてました
──まさに一彌くんは自分のプレイスタイルと音そのものをシグネチャーにしていると思います。あらためて基本的な質問をすると、ドラムを始めたのは中学生のときなんですよね?
そうですね。中3のときに始めました。それまでは卓球をやっていました。保育園から高校までずっと同じ学校に通っていた幼なじみがいて。そいつがアコースティックギターを弾けたので、一緒に演奏する機会をくれて。そこでドラムを始めて、そこから別のメンバーとバンドを一緒にやるようになって。ドラムを始めたときから遊牧民体質じゃないですけど(笑)、いろんなところでいろんな人とセッションをしてました。そこで最初は60年代のロックにハマったんです。
──60年代ロックのどのあたりですか?
1965年から68年くらいでしょうか。バンドで言うと、スモール・フェイセスとかザ・フーとか、モッズ文化に紐づく音楽やファッションにガッと影響を受けました。そこから当時のモッズが聴いていたR&Bなどのブラックミュージックも聴くようになって。もちろんザ・ビートルズも好きで、高校にかけてサイケデリック・ロックにもハマって。世田谷の梅ヶ丘にある洋服の並木でスーツを作って、スクーターに乗ってみたいな学生時代でしたね。高2くらいのときにはもう、ドラマーとして生きていくんだろうなと思っていたので、そこから学校の勉強は全部捨てて音大に入るための勉強に切り替えたんですよ。
──高2の時点でそこまで確信を持てた要因はなんだったんですか?
当時の自己分析なので根拠はないと思うんですが、ドラムセットに初めて座ってそのへんに転がってるスティックを拾って叩いてみたら、「あ、叩ける」という感覚を持てたんです。8ビートをいきなり叩けた、みたいな。「こりゃ才能あるな」って自分で勝手に思って(笑)。それが今の今まで続いてるわけですから、強烈な自己暗示があのときかかったんだと思います。それが関係しているかはわからないですが、親が音楽好きなので、幼いころから音楽はたくさん聴いていたんです。ジャズ・ファンクとか、スムース・ジャズやアシッド・ジャズ、80年代に流行ったニュー・エイジっぽいフィーリングのレコードやCDが家にたくさんあって。
──AORとかも?
たくさん聴きました。TOTOのアルバムとかも全部あって。その影響か、今でも80年代のドラムの音のほうが現代の音よりもきれいだと思うところがありますね。
■ハイブリッドって先端をいくスタイルみたいなものとして扱われやすいけど、実はそうでもない
──フィーリングやマインド、スキルも含めて昭和音楽大学に入って一番得たものはなんですか?
う〜ん……自分の覚悟を得たんだと思います。音大では江口信夫さんというドラマーに師事したんですが、結局中退したんです。普通科目の座学の授業とか受ける意味はないなと思ってしまって。学校に足を運ぶ理由が、週1の師匠のレッスンを受けるのと、学内にある練習スタジオを使うだけで。自分はプロになるつもりで音大に入ったけど、周りのやつらがどんどんドロップアウトしていく中で、「自分はこのルートで合ってるのかな?」って考えさせられるんですよね。音大も一種の職業訓練校ですから、競争社会という思考をかなり植え付けられますし、自信を失わずにいるために必死にもがくという経験をして。そこで何を得たかというと、もちろん江口先生に教わったドラムのスキルやセンスという部分が一番大きいですが、今思えば音大など通わずに江口先生のライブに足繁く通ったうえで「弟子にしてください」って直談判するくらいの方がむしろ誠実だったんじゃないかとすら思います。そう考えると音大はお金と引き換えに自分の覚悟を買ったのかなと思います。
──なるほど。話は前後するかもしれませんが、一彌くんのシグネチャーである生音と電子音を融合させるいわゆるハイブリッドスタイルに興味を持ったタイミングは?
それも大学に入るあたりくらいですね。高校生活をかけて僕の音楽の趣味はだいたい確立したんですけど、それはザ・ビートルズが大きくて。アルバムごとにロックンロールやサイケデリック・ロックや実験的なサウンド、ジャズのフィーリングなどいろんなジャンルへの分岐がすべて含まれていたと思っていて。たとえば60年代のザ・ビートルズのサイケデリック・ロック期に接続するものとして、テクノだったらケミカル・ブラザーズとかにたどり着くというような感じで。
──そこからビッグ・ビートにいったり。
そう、ロックとテクノを融合したビッグ・ビートに興奮したり。自分の中でミュージックツリーができていって。で、ソウライヴとかジャズ・ヒップホップをよく聴いていた時期に「自分でもこういうビートを叩きたいけど、なんか生ドラムだけでは再現できない気がする」と思って。「なるほど、パッドを叩いてサンプル音を出してるのね」ということを知って。そうやって掘り進めていくうちにそういう機材のガジェットがいっぱいあることにも気づいたんです。ひたすらそれを集めているうちに「そうだ、日本にもYMOがいたじゃん」って思ったり、あとビル・ブルーフォードというイエスで叩いていたドラマーのセットを調べてるうちに、「ドラムにこういう電子機器をセットアップして一緒に叩くハイブリッドというスタイルが80年代からあったじゃん!」ってなって。そこに気づいてからは80年代のアイデアを再発掘するような感覚になっていきました。
──レガシーがいっぱいあったじゃん、っていう。
そうそう、まさにレガシーだったんですよ。ハイブリッドって先端をいくスタイルみたいなものとして扱われやすいと思うんですが、実はそうでもなくて。僕がやっている生ドラムと電子のハイブリッドという構造は80年代に盛り上がったスタイルなので。あれを今やっているのが新しく映るんだろうなって感覚なんです。
──そう思うと、高橋幸宏さんのプロジェクトに参加しているのも感慨深いものがありますよね。
ヤバいですよね……こんな光栄なことがあるんだなって。