《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員インタビュー〜 Vol.2 竹本織太夫(文楽太夫)
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“嫌いになるほど”好きになって見える景色
こうして1983年6月、8歳で豊竹咲太夫に入門。豊竹咲甫太夫と名乗り、翌年10月、文楽協会研究生となる。入門から2年後の86年3月、『傾城阿波の鳴門』の巡礼おつるという子役で、初舞台。しかし、その後しばらく文楽の舞台からは遠ざかる。子供にできる演目は少ないからだ。
「師匠は自由にさせてくれました。3ヶ月くらい連絡をしないと、師匠のおかみさんから『そろそろ、英雄(織太夫の本名)ちゃんの顔見たい言うてんねんけど』と遠慮気味に連絡が来て(笑)」
代わりに色々なことに打ち込んだ。小学2年生から絵画教室に通い始めた絵の世界では中学生の時に作成した色版画が北京の児童博物院の永久展示に選ばれ、スイミングスクールにも通い、小学3年生からはリトルリーグで野球でも汗を流す日々。しかし中学卒業後は文楽の道一筋でと考えたとしたところ、両親から高校には行くよう説得された。
「せめて高校には行って友達を作りなさい、と言われ、嫌々通って。私は文楽に行きたいのに止めたのは親達だから、好きにさせてくれました。祖母や母に資金を出してもらって、春休みも夏休みも冬休みもずっと海外に行って。夏休みにアメリカ大陸を縦断し横断し、イギリスの大英博物館に入り浸り、ルーブル美術館が改装されたというのでパリに飛び、スコットランドのエディンバラに語学留学に行き……。ハワイでホームステイをして帰ってきたら何だか気が大きくなって、新学期が始まっているのに1ヶ月ほど学校に行かず伊豆・下田の家にいたこともあります(笑)」
進みたい道に進めないフラストレーションを晴らすかのように、広い世界を見て楽しんだ織太夫少年。高校を卒業する頃には、文楽に専念するだけの心の準備はできていた。
「1回冷静になったんですよね。文楽をやりたかったのに外の世界を見て来いと言われて、外を見たら余計にやりたいという感覚が増幅して。そこからは師匠も厳しくなられて、今まで勉強なんてやったことなかったのに、毎日寝られないぐらい、稽古したり録音聞いたりという生活がまず10年ぐらい続き、その後はまたレベルの高い演目をどんどん稽古して。だから17〜33歳くらいまでの記憶が、床本(浄瑠璃の戯曲と語り方を筆で写したもの。太夫はこれを見ながら語る)と向き合ううちに終わったんですよ。あれだけ行っていた海外にも仕事以外では今に至るまで行っていません」
舞台に加えて、様々なメディアでの文楽の発信も精力的に行うなど、文楽漬けで33歳を迎えた頃、織太夫さんは文楽がさらに好きになっていたという。
「25歳の時だったか、『咲甫太夫の会』という自主公演で『菅原伝授手習鑑』の寺子屋の段を1段やったのですが、仕込みに丸一年かけて、毎日のように2時間、祖父の高弟の(鶴澤)清介さんに稽古してもらって。すごく感謝しています。その翌年には、築地本願寺のブディストホールで『増補忠臣蔵 本蔵下屋敷の段』を、祖父のお弟子さんの(鶴澤)八介さんにとにかく丁寧に丁寧に稽古してもらいました。そういうのは一番の財産ですよね。そうやって、好きが嫌いになるくらい好きを突き詰めると、また新しい景色が見えてくるんです」
令和4年5月の文楽公演にて 提供:国立劇場
ライバルはNetflixやAmazon Prime
さて、そんな織太夫さんの大きな節目といえばやはり、咲甫太夫から織太夫への襲名だろう。2018年のことだ。
「その3〜4年前から(人間国宝の)竹本住太夫師匠や鶴澤寛治師匠、清介さんに『これからあんたの時代だから準備しとかなあかんで』『そろそろ襲名したらええねん』などと言われていたんです。自分ではまだまだだと思っていましたが、人間国宝や切場語り(物語の山場である切場を語ることを許された太夫)が引退されたり休まれたりしていて、私が代わりに語っていたんですよね。そのことに気づいて覚悟を決めました。もう逃げられない、全部を受け入れなきゃいけない、と。バトンを渡されるようなものだと思うんです。咲師匠も人間国宝になられた時、『自分は6番バッターに下がって若い4番を作る』とおっしゃっていましたから」
なお、この年、織太夫さんの二人の息子も12歳と8歳で、太夫と三味線として文楽の世界に入っている。まだ未知数の彼らが文楽を担う日も楽しみにしたい。
さて、例年、文楽の本公演と鑑賞教室が行われる12月は、通常の公演よりも若手が大きな役に挑む月。織太夫さんは本公演『本朝廿四孝』のうち「勝頼切腹の段」を語る。甲斐の武田家と越後の長尾家の間に、武田家の宝の兜の貸し借りから揉め事が起きており、足利将軍家の提案で、武田信玄の息子・勝頼と長尾謙信の娘・八重垣姫は婚約。しかしやがて信玄と謙信に対して将軍義晴殺害の嫌疑がかかり、3年以内に犯人を見つけなければそれぞれの息子の首を差し出すことになる。「勝頼切腹の段」は、期限が過ぎて勝頼が切腹し、勝頼と恋仲だった武田家の腰元・濡衣は悲嘆に暮れるが、実はこの勝頼は幼い頃に家臣の息子とすり替えられており、本物は簑作と名乗る百姓になっていたことが明らかになるという、ドラマティックな一段だ。
「勝頼切腹の段の上演は2001年以来です。国立劇場開場からこの段は8回上演されているのですが、本公演で一段語られたのは5回だけで、いずれも五代目織太夫、九代目綱太夫。つまり同じ方ですが、言ってみれば、私にとってはゆかりのものですよね。ただ、今回は丸一段を一人で語るのではなく、藤太夫さんと私で前後に分かれての上演。先代が8回中5回1段語っているのに、私は半分だけということを、後悔させてやろうと思っていますよ(笑)。自分自身はただベストを尽くすだけですけれども」
最後に織太夫さんに、文楽の今後について聞いた。
「これまでの文楽はいわば、住太夫師匠や九代目(竹本綱太夫、のちに源太夫)さん、初代(吉田)玉男師匠、(吉田)簑助師匠といった先人達のお客様の前で、私達が“ついでに”出ていた。ただ、12月公演で私が切場など重要な場を語って7〜8年経ちますが、通常の公演の客席が満員でなくても12月の公演は売り切れるんです。これは我々の実績。そうやって若手を応援してくださるお客様の前で、私達が本公演で大きな役がついた時、客席をいっぱいにした上で、こんな後輩もいるんですよと見せなければならない。住太夫師匠は引退される日の最後の舞台の後、お弟子さんの目の前で『お前がこれから文楽を背負って立つんだから、自分のために行動するな、文楽のために発言して文楽のために行動しろ』と言ってくださったんです。だから、これからの半世紀ぐらいのお客さんを私が作るんだという覚悟はありますね。ライバルはNetflixやAmazon Prime。1ヶ月1000円未満で見放題のところ、私達は7000円払っていただき、時間と電車賃を使って見てもらうわけですから、それに値するものを命がけで提供しなければと気を引き締めています」
今回織太夫さんが使用する、八世竹本綱太夫の床本 提供:竹本織太夫
≫「技芸員への3つの質問」