《連載》もっと文楽!〜文楽技芸員インタビュー〜 Vol.4 吉田玉助(文楽人形遣い)

2023.5.2
インタビュー
舞台

吉田玉助(文楽人形遣い)

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太夫、三味線が床(ゆか)から語り、奏でる中、主(おも)遣い、左遣い、足遣いの三人で一体の人形を躍動させる人形遣い。近年、その主遣いとして大きな役をこなし、今後ますますの活躍が期待されるのが、吉田玉助(57)だ。祖父、父も人形遣いという家に生まれ、40年近く「吉田幸助」として活動後の2018年4月、五代目として現在の名を襲名。“同い年”の国立劇場の閉場までカウントダウンが進む中、文楽への情熱や思い出を語ってもらった。

母のピアノと父の文楽が“子守唄”

三代目吉田玉助を祖父、二代目吉田玉幸を父に持つ玉助さん。一般的に文楽では、修業が厳しく好きでなければ続かない世界だけに、できれば子には継がせたくないと考える技芸員が多い。玉助さんの兄も文楽に興味は持たず、別の道に進んだ。しかし、祖父が亡くなった1年後の同じ2月に生まれた玉助さんは違った。

「人形だけでなく、文楽全体の雰囲気が好きでしたね。子守唄代わりじゃないですけど、(かつて文楽を上演していた)朝日座の客席でよく寝ていました。楽屋から見る文楽の風景、膠や大道具の匂いに、知らず知らず惹かれたのだと思います。当時、「ヤングおー!おー!」というテレビ番組内で桂文珍さん、月亭八方さん、桂きん枝さん、林家小染さんが”ザ・パンダ”というユニットを結成していたのですが、彼らが三味線の真似をしていた際には「文楽、取り入れてんねや」と興味を抱き、菓子箱に糸をつけて三味線代わりにしてベンベンベンと一人で遊んだりもして。ロボット文楽人形ごっこみたいなこともしました。NHKの『新八犬伝』や『プリンプリン物語』など、テレビでも人形劇が流行っていた時代でしたし」

玉助さんのもう一つの子守唄は、ピアノ。母がピアノの教師をしていた。

「音大で学び、レオニード・クロイツァーという有名な先生のもとに通っていて。音楽活動をしていた時代に作曲家の神津善行さんと一緒に写った写真が残っています。その後、大阪に嫁いできたのですが、文楽は食うや食わずの厳しい時代でしたから、母がピアノを教えて生計の足しにしていたんです。ただ、音大受験の生徒さんばかりだったのでレッスン風景がとても怖くて、やりたいという気持ちにはなりませんでした」

文楽入りにあたって、父に反対される玉助さんを応援してくれたのが、その母だ。

「父は『いかん』と言っていたけれど、そこを母と二人で頼み込んだんです。あまりにしつこいので父が(初代吉田玉男)師匠に相談したところ『入れさせたらええやないか』と言われ、『しゃーないな』ということで、中学3年生で研究生として、“吉田幸助”の名で父に弟子入りしました。まずは2年間、家の鴨居に人形の足を吊ってそれを足遣いと同じように手で持ってじっとしている、ということを、今日は10分、次は15分といった具合に延ばしながら訓練しながら、少しずつ足遣いとしての仕事を覚えていきました。足遣いは色々な人の足を遣い、終演するまで劇場にいるのですが、親父は自分の役が終わると先に帰り、僕が帰るころにはウィスキーを飲んで出来上がっている。そこから2時間くらい、説教される毎日(笑)。基本がきちんとしていないと後々しんどくなるので、ものすごく厳しく徹底的に教えてもらいましたね。あと、『文楽に入ったからにはちゃんと麻雀を覚えなあかん』。今はほとんどないですが、昔は楽屋でよくやっていたんですよ。僕が(のちに人間国宝となった三代目吉田)簑助師匠や(二代目吉田)文昇さんやうちの親父に勝ってしまって、皆さんご機嫌斜めになったことも(笑)」

幸助の名で修業していた若手時代   提供:吉田玉助

父で師匠の吉田玉幸と    提供:吉田玉助

そんな玉助さんの一つの転機は、『鳴響安宅新関(勧進帳)』の弁慶の足を遣ったこと。

「(吉田)文吾兄さんがその頃、弁慶をよくなさっていて、『誰か足おらへんかな』となった時、今の(桐竹)勘十郎兄さんが僕を推薦してくださって。『勧進帳』の弁慶は人形も大きいので、綺麗に遣うのは難しく、足遣いの卒業試験のような位置づけ。大変な役だけに、知らないお客さんからお花やご祝儀をいただいて、びっくりしました。それがターニングポイントになりましたね。修業の身で大事なのは、なかなか役がつかなくても腐らず、“こさえているんだ”という感覚で勉強することなんです」

修業への向き合い方を、見ている人は見ている、ということだろう。勘十郎は自身が襲名披露を行った『絵本太功記』の大役、武智光秀の左にも、地方公演で玉助を起用。勘十郎の師匠である前述の簑助が、「弟子の勘十郎のためによくやってくれた」と食事に連れて行ってくれたという。

「チャンスは急に来るんです。主遣いになって、主役級の役どころをもらうのも同じこと。油断して勉強しないでいると、『あかんな』とレッテルを貼られて干されてしまう。僕の場合、『義経千本桜』の主馬小金吾という役をいただいてから徐々に役が上がっていきました」

なお、『勧進帳』では文吾の足遣いのほか、当代の勘十郎や玉男の弁慶の左遣いも経験した玉助さん。昨年11月には大阪の国立文楽劇場で、ついに弁慶の主遣いを初めて勤めた。弁慶の手に遣う“たこつかみ”を勘十郎が、大きめの足を玉男が貸してくれた。

「太夫に(竹本)織太夫くん、三味線に(鶴澤)藤蔵くんと、次世代の布陣でやらせてもらって。東京では長いことやっていないのですが、その時の公演では花道がつき、弁慶が歌舞伎と同じように飛び六法で引っ込みました。東京でもぜひ、花道がついた状態でやりたいですね」

玉助さんが弁慶の主遣いを勤めた『勧進帳』       提供:国立劇場

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