ピアニスト石井琢磨、“夢の場所”サントリーホールデビューで有終の美 『Szene』ツアー最終地、満席約2000人の観客を前に華やかに
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2023年8月にリリースされたアルバム第二弾『Szene』を記念して、昨年9月から全国6都市で開催されたピアニスト 石井琢磨のソロリサイタル長期ツアー。2024年2月18日(日)、東京・サントリーホール大ホールで無事に最終公演を終えた。ツアー最終地と同時に、石井にとって幼い頃から夢見ていたサントリーホールデビューという記念すべき公演となった今回。2000席の客席が埋め尽くされた満員御礼の公演の模様をお伝えしよう。
リハーサルの様子
2月にしては暖かな日曜日午後のサントリーホール。エントランスやアトリウムは熱気とともに華やいだ雰囲気に包まれ、大ホール入り口の扉付近には関係者たちから贈られたいくつもの花輪が並んでいた。(筆者も仕事柄、つねづねサントリーホールには足を運ぶが、ここまで鮮やかに美しい装花が並んだのを見たのは久々だ。)石井は昨年9月にもツアーキックオフを飾る東京公演を開催しているが、今回のサントリーホールデビューリサイタルを兼ねた最終公演は『Szene』に収録された作品を中心に9月公演とは少し趣向を変えた作品もラインナップされていた。
プログラム一曲目は、ウィーンを拠点とする石井が愛してやまないモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。石井は研ぎ澄まされた繊細な響きとコラールのような清らかな祈りの旋律で満場の客席に挨拶に代わっての一曲を届け、感謝を表した。演奏後はマイクを持って聴衆に向かって深々と一礼。幼い頃からの夢だった、そして遠い存在だったサントリーホール大ホールでのリサイタルが実現したことへの感慨を述べつつ、夢が叶ったこの瞬間を聴衆とともにできる喜びを語った。
続いても石井が愛してやまないバレエ音楽「眠れる森の美女」から最終曲の「アダージョ」。ウィーンの師匠アンナ・マリコヴァから受け継いだ一曲だそうだ。ハッピーエンドを迎え、結婚式の喜びと情景が描きだされた作品だが、ロシアの名ピアニスト プレトニョフの編曲版だけにありとあらゆるピアニスティックな技法が駆使し尽されたリストばりのピースだ。石井はこの壮大かつ華麗な作品を一つの骨太なうねりを描き出しダイナミックに弾きあげた。
続いてはシューマン=リスト「献呈」。アルバムには収録されていないが、石井が最も大切にしている一曲だ。海外と日本を行き来している石井は、日本の聴衆が演奏会場で自ら演奏する一曲一曲にどんな時も真摯に向かい合ってくれることにつねづね感銘を受けているという。「聴衆一人ひとりが大切な時間を捧げて石井琢磨の演奏に愛情を持って接してくれていることに感謝の気持ちを捧げたい」という思いでこの一曲を選んだという。
冒頭からバリトン歌手が歌っているかのようにゆったりとしたテンポで太いメロディラインを描いてゆく。しかし、流れでる感情の高まりとともに自然なかたちでテンポが速まってゆく様が美しい。決して計算づくでは生みだすことのできない純粋な歌心が導きだす感情の発露だ。以前よりもかなりマニエリスティックで大胆な節回しなども各所に聴かせるが、それも見事に堂に入っており、フィナーレのクライマックス「Mein guter Geist, mein bessres ich!」の絶妙なアゴーギクや間合いの取り方は、まさに歌い手たちが全身全霊を込めて歌う時に発露するあの息づかいそのものだった。“ピアノで歌う”ということはピアニストにとっての理想的な境地と言われるが、石井がこの曲においてかなりその境地に近いところに達しているのを感じることができるのは、聴き手としても嬉しい限りだ。
そして ショパン「ノクターン 第20番 嬰ハ短調(遺作)」。石井は演奏前に「音の年輪がそろそろ滲みでるようになったんじゃないかと自分でも感じています」と語っていたが、水の滴が滴るような繊細な音を燻らせ、陰りのある、しかし豊かな色彩と内に秘めた情熱でこの表情に富んだ作品を雄弁に弾き上げた。
前半プログラム最後は石井の代名詞的作品の一つ、グリュンフェルト ウィーンの夜会。『Szene』には収録されていないが、記念すべき演奏会にふさわしい一曲だ。演奏前にいつもの調子で客席の手拍子に合わせてワルツのステップを踊ってみせる石井。“夢の舞台”でもいつもと変わらぬ自由さと奔放さが良い。
ピアノに向かうと、冒頭から「石井の本領ここにアリ」といった安定感と自信、そして嬉々とした感情が音を通して客席に飛んでくる。どの断章も、どのシーンからもウィーンの空気感が空の色までも感じられるほどの臨場感にあふれていた。ディテールの陰影に富んだニュアンスや、テンポ感における絶妙な“ウィーン訛り”の上手さなど18番中の18番というに相応しい自信と安定感に満ち満ちていた。
休憩を挟んでの後半は ショパン 前奏曲「雨だれ」。勢いよく「ただいま~‼」と掛け声をかけつつステージに登場した石井は、演奏前に「目をつぶって拍手を聴くと雨だれの音がするのを知ってます?」と満場の聴衆に拍手を促す。後半第一曲目を前に休憩中に思い思いの時を過ごした2000人の心をとっておきの秘策で瞬く間に惹きつけ、一つにしてみせる。このような自然な流れでの“持ってきかた”の上手さにはいつもながら舌を巻く。演奏のみならず、こういうステージ上でのちょっとした術もまた石井の真骨頂だ。
しかし、ひとたびピアノに向かうと石井はこの多感で高貴な作品を演奏するにふさわしい集中力をいかんなく発揮。“雨だれ”のあの詩情に満ちた旋律もさることながら、中間部の不穏な感情を聴かせる部分にこそ、石井らしさが発揮されていたように思える。捉えどころのない恐怖感や憂鬱がとめどなくあふれでる旋律を支える深淵で重層的な和声感が石井の天性の音楽性の中にある種の潜在的な思考となって脈々と流れているかのように感じられた。しかし、その後、何事もなかったように再び雨だれのあの旋律がよりいっそう晴れやかな光の情景をともない、力強さを帯びて描きだされていたのは気のせいだろうか。
後半プログラムもここからはクラシックのレパートリーを超えた石井らしい選曲で、自らのさらなる世界観をサントリーホールのステージでも堂々と聴かせた。手始めにヘンリー・マンシーニ (菊池亮太編曲) 『ティファニーで朝食を』から「ムーンリバー」。ムーディーな映画の主題音楽といっても、菊池亮太編曲、演奏者が石井となればいかなるものか想像がつくだろう。ラフマニノフばりの重厚感あふれる途轍もなくピアニスティックな編曲だが、これをいとも容易に夢ある作品に聴かせてしまうところが石井らしい。
続いては、モリコーネ (ござ編曲)「ニュー・シネマ・パラダイス」。あの美しいテーマを石井本人が「ラフマニノフ風に編曲して欲しい」と依頼した一曲だそうだ。超絶技巧があふれんばかりに盛り込まれた華麗なる一曲の中にラフマニノフの歌曲「ヴォカリーズ」の冒頭のワンフレーズが埋め込まれているのも面白い。どんなに技巧的な広がりを見せても絶対に”歌“を忘れない石井らしさのピアニズムの真骨頂が良く表れていた。石井はこの作品自体を完全に自らのものとしており、石井の”今“の等身大の姿や思いがこの作品によく表れていたのが印象的だった。クライマックスは完全にラフマニノフのコンチェルトそのもの。オーケストラの音さえ感じられるようなスケールの大きな演奏は会場をひときわ沸かせた。
本プログラム最後の一曲は、これも石井の代名詞的作品の一つ ヨハン・シュトラウスⅡ世 (ペナリオ 編曲)「皇帝円舞曲」。先ほども述べたように、ウィンナワルツの独特で洒脱なリズム感に対する石井の生来の勘の良さは周知のとおりだが、まさにこの記念すべきステージでその集大成のような演奏を聴かせてくれた。
時にセンチメンタルな表情を見せるところも実にチャーミングだ。オーケストラが鳴っているかのように低音域から高音域までのすべてのレンジの音域で多種多様な色彩の音を美しく響かせる。十本の指がいくつもの楽器の音色を弾き分けているかのようだ。かと思えばコンチェルトのカデンツァ張りの間に挟む展開の上手さもしっかりと聴かせる。フィナーレは超絶技巧を惜しみなく繰りだし、最高潮に盛り上げて見事に有終の美を飾った。クラシック音楽としての品格と様式を知的に保ちながら、しっかりとエンターテイメント性も兼ね備えた「皇帝円舞曲」こそ、まさにこの華やかなステージをしめくくるにふさわしい一曲だった。
満場の客席から惜しみない拍手を贈られ、何度もステージに登場する石井。アンコールの一曲目は子供の頃から好んで演奏していたという ラヴェル「ソナチネ 第二楽章」。続いて、音楽で救われてきた自分自身の歩みを振り返りつつ、「大げさと言われるかもしれないけれど、僕みたいに『音楽があるからこそ明日を、人生を生きられる』と思える人たちが世の中にいても決しておかしくないと思うんです。そんな方たちへの思いを込めて演奏します」と万感の想いを胸に、リヒャルト・シュトラウスの歌曲から「モルゲン(明日へ)」を心を込めて演奏した(マックス・レーガー編曲版)。
最後は、募る思いを振り払い、元気に「今日の演奏、とっても上手くいきました!」の一言でこの記念すべきステージを明るく締めくくった。もちろん、今年秋のツアー開催決定についてもしっかり伝えていたところもやはり石井らしかった(!)。
終演後には、サイン会も行われた
取材・文=朝岡久美子 撮影=武田敏将
公演情報
【東京】9/8(日) 東京オペラシティ
【岡山】9/16(月・祝)ゆるびの舎 文化ホール
【北海道】9/27(金) 札幌コンサートホール Kitara
【大阪】10/5(土) ザ・シンフォニーホール
【福岡】10/6(日) 北九州市立 響ホール
【新潟】10/13(日) 新潟市北区文化会館
【愛知】10/18(金) 東海市芸術劇場
【群馬】10/26(土) メガネのイタガキ文化ホール伊勢崎 小ホール
【宮城】11/16(土) 電力ホール
【埼玉】11/17(日) 所沢市民文化センター ミューズ