立川志らく、昨年から10年演じることに決めた「芝浜」への思いとは 『今年最後の独演会』インタビュー
立川志らく 撮影:毛利修一郎
「ああ、今年も暮れていくんだな」という、しみじみとした時間——多くの落語ファンにとって年の瀬に聴く「芝浜」は、格別な時間だろう。大晦日を舞台に夫婦の情愛を描いたこの人情噺を、工夫を重ね、進化させ続けているのが立川志らくだ。すっかり全国区の顔になった今、改めて挑む師匠・立川談志の十八番。“噺家人生の集大成”とも言える60代を迎えた、率直な思いを聞く。
ーー志らくさんが「その年の語り納めの場」と決めている特別な会が、今年も12月に開催されます。第一回目は“偶然”のスタートだったそうですね。
最初は2011年、師匠・立川談志のピンチヒッターでした。師匠は毎年、暮れによみうりホールで落語会をやっていて、そこでよく「芝浜」をかけていたんです。ところがあの年は入院していたので、当時主催していたサンケイリビング新聞社さんから「代演してくれないか」と連絡が入った。その後、談志は11月21日に亡くなりましたから、「追悼公演」になってしまいました。師匠の聖地で十八番だった「芝浜」をやるなんて、とてつもないプレッシャーじゃないですか。正直、自分がどんな高座をしたのか全く記憶にありません。幕が開いた時には、すでに数人のお客様が泣いているような状況でしたし。
ーーそんな大舞台でバトンを引き継ぎ、今年で14回目。年によって掛けるネタはまちまちでしたが、昨年「60歳から69歳までの10年間は、必ず毎年この会で『芝浜』を演る」と宣言されました。
これまでは「芝浜」をやる年もあればやらない年もあって、演目は毎回のお楽しみにさせてもらっていたんです。でも昨年還暦を迎え、より自分の中で記憶に残る会にしたくなった。「10年間、毎年『芝浜』をやったらどうなるんだろう?」と考えたんです。
ーー立川流の皆さんにとって「芝浜」は特別な演目。もし談志さんが天国で見ていたら、この決意について、なんとおっしゃると思いますか?
「よくやるよ」と言うでしょうね(笑)。初めて「芝浜」を演ったのは、真打ち披露の会でした。その時は「まだ、早ぇーな」の一言でしたが、今なら「入り口には立ったな」ぐらいのことは言ってくれるんじゃないですかね。25周年の時、やっぱり談志の十八番だった「らくだ」を、師匠をゲストに呼んで演ったことがあるんです。舞台袖で聴いてくれて、「俺がやりたいことは全部お前がやっている。安心だ」という言葉をもらいました。そう簡単に褒める人ではなかったけれど、ポイント、ポイントでは必ず言葉をくれましたね。
立川志らく 撮影:毛利修一郎
大きな人生経験をした時に落語はガラッと変化する
ーー披露目で「芝浜」をネタ下ろしされた時、ご本人の手応えとしてはいかがでしたか。
手応えも何も、ふわふわとした、ものすごく軽い「芝浜」だったと思いますよ。若手時代から師匠には「口調が軽い」と注意されていたんです。「軽いから人情噺には向いていない」という言われ方もしましたし。若いころから古典にもいっぱいギャグを入れてウケていましたから、「落語をなめてる」「お前は、わざとヘタにやってる。『うまくやるなんてわけない』と軽く考えているかもしれないけど、年を取るとちゃんとやるのは大変だから、今のうちに直した方がいい」とも言われましたし……。「このままだと(兄弟弟子の)談春に抜かされる」と言われた時は、「『抜かされる』ということは、現時点では俺の方が上なんだ」と思って、そのまま兄さんに言ったら膝を蹴られましたけどね(笑)。まあ師匠はいろいろな叱り方、褒め方で声をかけてくれました。
ーー今年の「芝浜」はどんなものになりそうですか?
意図的に「ああしよう、こうしよう」とこねくり回したアイデアって、小手先の変化しかもたらさないんです。それよりも、子どもが生まれた時、大病をした時、いきなりたくさんのテレビに出るようになった時……大きな人生経験をした時に、落語ってガラッと変化するものなんです。そう考えると今年の新しい経験は、テレビドラマ出演でしょうね(TBS火曜ドラマ『Eye love you』でヒロイン二階堂ふみの父親役を演じた)。なにもせずボンヤリ一年を過ごしたら、おそらくなにも変わらない。どこが変化するかは、実際やってみないとわからないですけど。
ーー「芝浜」がご自身の定点観測になっているんですね。あらためてこの演目の魅力を教えてください。
正直、たくさんある落語の中で、「芝浜」が“一番優れたネタ”というわけでもないんです。ただ、このポピュラリティーは大きな魅力でしょう。多くの人がそのタイトルと、なんとなくのあらすじを知っている。すると多くの芸人が演じるので、比較もしてもらえます。そしてやはり、師匠の得意ネタを演ることは弟子として大きな挑戦。あと、大半が夫婦の会話で成立する噺なので、アドリブも含め自由がきくんです。その時の感情を全部入れられるかわりに、体調が悪かったり、自分の精神状態がおかしかったらボロボロになってしまう、ごまかしようがない話でもあるんです。
ーーどんなことに気をつけて演じていますか?
立川談志の幻影からどう離れるか、これが常に課題ですね。やろうと思えば、師匠そっくりにできますから。例えば……。(冒頭の場面を師匠のモノマネで見事に喋る)
ーーおぉ〜!
なんの稽古をしなくても、これぐらいはすっかりできるんですよ。でも同じことをやっていたら、一生師匠よりいいものなんてできない。だからと言って浅知恵で離れようとしたところで、形だけでセコくなるんですよ。同じことをやると、談志はものすごく怒りましたし。
ーーそうなんですか?
「子別れ」って人情噺があるでしょう? 家族と一緒に暮らせなくなった親父が、離れて暮らす子どもに小遣いをあげる場面で、談志は子どもに「色鉛筆を買うんだ!」と言わせるんです。それをそのまんま他の兄弟弟子がやったら、「この野郎は、俺が何十年もかかってこさえた台詞を、そのままパクりやがった! 弟子だってそんなことやっちゃいけない」と激怒しました。だから、自分で悩みながら高座で試して、見つけていくしかないんです。
経験を積んだこの年齢だからわかる師匠のすごさ
ーー昨年、談志さんも十三回忌の節目を迎えました。時間を経て改めて感じる師匠への思い、あるいはご自分の芸の行く先をどう考えていますか?
師匠が生きていた時は「いつか談志の名前を襲名したい」みたいな下心が、なかったと言っちゃ嘘になる。けどもう、そんな気持ちはゼロに近いです。最近は師匠の落語をあまり聴かないようにしていますしね。なぜかというと、この年齢で聴くと、すごさがより見えてしまう気がして。マクラ、喋り方、ものの考え方、落語への取り組み方……若いころには気づかなかったことがいろいろとわかってくる。そうすると、ただでさえ高い壁がさらに大きく立ちふさがって、自分の高座なんて恐ろしくてやってられなくなるんです。今は名人上手の音源も聴かないと決めています。
立川志らく 撮影:毛利修一郎
ーー経験を積んだからこそ、見えてくるすごさがあるんですね。
そうです。自分の残り時間と「なんだまだこんな程度か」という自覚を照らし合わせちゃうと、やってられないじゃないですか。
ーー第三者から客観的に見たら、「ここは師匠より志らくさんの方がイイよ」という部分もありそうですが……。
まあ“思い出”もありますしね。最近は、自分の落語も意識的に聴かないようにしています。まだ随分と若いころ、テレビで落語をやっているのを録画して見たら、ヒドくて見てらんなかったんですよ。「こんなやつ、どうして人気があんの?」って(笑)。イヤになってすぐ消しました。
ーーあはは、それはおいくつぐらいですか?
真打ちなりたてだから、30代前半でしょうね。ショックを受けて、そこからがむしゃらに頑張ってきた。そんな経験もあるから「DVD-BOXを出しませんか」とソニーから言われた時にはすごく迷いました。その時に撮影した「明烏」は全然ウケていなかったし、表に出すようなもんじゃないと思い込んでたけど、しばらく経って勇気を出して映像を見たら……これが、いいんですよ。「へー、そんなもんか」と思いましたね。そういうこともある。でも今は、自分の映像を見ることも封印しています。
ーー小説家の色川武大は「談志の落語は60代をターゲットにしている」と言ったとか。ここまでお話を伺うと、志らくさんも今を正念場と決めて、目標は師匠や先輩でもなく、過去の自分も捨てて、現在の自分と格闘する年代に入られたことが伝わってきます。
なにもやってこなかった人にとっては、60代以降はただの「老い」じゃないですか。だからそこで輝く人と、終わる人と2通りあるわけで、人生の集大成を見せる年代でしょうね。まあ70代になったら昔からのファンだけ集めて、こっそり余生を過ごします(笑)。
ーーそんな選択肢、志らくさんには絶対なさそうです!
常に世間と取っ組み合ってきた談志を見ていましたからね。コメンテーターなんかでメディアに露出して、ましてや炎上なんかすると、ファンの方から「志らくさん、あんなことするのやめてください。落語だけやってればいいんだから」と言われるわけですよ。でも、あれをやるからこういう落語ができているし、新しい観客も来る。そうじゃなかったら先細りで、飽きられて、(春風亭)一之輔みたいな若い威勢のいい奴らに、どんどん追い抜かれちゃいますよ。少しでも進歩するためには、いろんなことをやってみなくちゃダメなんです。
取材・文=川添史子
公演情報
会場:有楽町よみうりホール
制作協力:大手町アーツ