松緑の名作義太夫狂言、右近と壱太郎の幻想的な舞踊、隼人のはんなりした大富豪が彩る歌舞伎座『壽 初春大歌舞伎』夜の部観劇レポート

レポート
舞台
2025.1.13
夜の部『大富豪同心』(左より)清少将=坂東巳之助、幸千代=中村隼人 /(C)松竹

夜の部『大富豪同心』(左より)清少将=坂東巳之助、幸千代=中村隼人 /(C)松竹

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2025年1月2日(木)に歌舞伎座で『壽 初春大歌舞伎』が開幕した。昼夜二部制の公演のうち、夜の部(16時30分)をレポートする。

一、熊谷陣屋(くまがいじんや)

舞台は、源氏の武将・熊谷直実の陣屋。桜の木の傍らに制札(立札)が立ち、武蔵坊弁慶の筆で「一枝をきらば一指をきるべし(枝を一本折ったら、指一本切る)」と書かれている。ここに、源義経から直実への密かなメッセージが込められていた。

尾上松緑が、熊谷直実を初役で演じる。「一谷嫩軍記」は、「平家物語」を題材に、史実を織り交ぜた全五段の物語だ。『熊谷陣屋』はその三段目にあたる。この物語を語る上では、ふたりの若武者の存在が欠かせない。一人は、直実と妻・相模(中村萬壽)の子・小次郎。もう一人は、藤の方(中村雀右衛門)が後白河院との間に産んだ平敦盛だ。しかし二人とも、この舞台に立つことはない。代わりに、二人の母親、相模と藤の方が登場する。息子を思い、本来は戦地にいるはずのない二人が、陣屋まで押しかけてきたのだ。直実が、敦盛を討ちとった日のことだった。まもなく敦盛の首を確認するため、大将の源義経が陣屋へやってくる。直実は、首桶を恭しく差し出すが……。

夜の部『熊谷陣屋』(左より)相模=中村萬壽、熊谷直実=尾上松緑、藤の方=中村雀右衛門 /(C)松竹

夜の部『熊谷陣屋』(左より)相模=中村萬壽、熊谷直実=尾上松緑、藤の方=中村雀右衛門 /(C)松竹

直実(松緑)は、花道に登場した時から沈痛な、しかし毅然とした表情。大きな目の奥には、穏やかではない感情が揺らめくようだった。堂々とした体躯は、感情を押し殺そうとする直実の武将としての覚悟、鋼のように硬直させた心の壁の厚さを想像させた。だからこそ、人間味が見え隠れした時に大きく心を揺さぶられる。“敦盛の最期”を語った時、竹本の義太夫から熊谷の台詞へ入る流れに、悲しみが横溢していた。首実検を前に、取り乱しかけた母親たちをとどめた時、武将としての強さだけでなく、父親として慮る情が滲んでいた。

藤の方と相模は、戦場に似つかわしくない雅な衣裳。戦での出来事との落差が、悲劇をより深いものにする。藤の方が直実に斬りかかった時、その覚悟の重みとは裏腹に一撃は非力なものであり、無力感を突き付けられるようだった。それでもここにいる、藤の方の強い愛情が胸に迫った。相模が首を抱いて嘆いた時は、悲しみに引き込まれ涙がこみ上げた。同時に、相模という役の美しさと格好良さに魅了された。役と役者の魅力が交錯していた。

夜の部『熊谷陣屋』(左より)相模=中村萬壽、熊谷直実=尾上松緑、源義経=中村芝翫、藤の方=中村雀右衛門 /(C)松竹

夜の部『熊谷陣屋』(左より)相模=中村萬壽、熊谷直実=尾上松緑、源義経=中村芝翫、藤の方=中村雀右衛門 /(C)松竹

義経(中村芝翫)は、冷徹な命令を下している。しかし、その佇まいと言葉は決して冷たくはなかった。理不尽ではなく、その時代の理を重んじた、苦渋の選択だったに違いない。そして弥陀六(中村歌六)が、物語をさらなるクライマックスへと押し上げる。柔らかな物腰、とぼけた時の愛嬌と洒脱さの合間から、隠しきれない凄みがチラつく。当て書きに違いないと思うほど、「弥陀六=歌六」だった。そして、法衣よりも鎧が似合っていたはずの直実。だからこそ幕切れに花道を去っていく姿が、いっそう深い無常観を描き出していた。

二、二人椀久(ににんわんきゅう)

続いて上演されるのは、尾上右近の椀屋久兵衛、中村壱太郎の松山太夫による『二人椀久』。右近と壱太郎にとって、本興行での『二人椀久』はこれが初めて。右近は、開幕前の取材会で「今の二人らしい『二人椀久』を」と意気込みを語っていた。その言葉の通り、右近と壱太郎だからこその世界があった。

夜の部『二人椀久』(左より)松山太夫=中村壱太郎、椀屋久兵衛=尾上右近 /(C)松竹

夜の部『二人椀久』(左より)松山太夫=中村壱太郎、椀屋久兵衛=尾上右近 /(C)松竹

大きな松が枝を伸ばし、その向こうに熟したあんずのように赤い上弦の月。椀屋久兵衛、通称「椀久」が花道に現れる。「音羽屋」の大向うがかかったが、拍手はなかった。拍手の音にさえ怯えそうなほど、繊細で危うげで美しくもあり、目が離せない椀久がいた。

椀久は大坂の豪商だった。しかし遊女の松山太夫に入れあげてしまい、身内のものによって座敷牢に閉じ込められてしまう。仲を引き裂かれた椀久は、松山に会いたい一心で逃げ出してきたが力尽きてしまう。正気か狂気か、夢か現実か、そこに松山が現れて……。

夜の部『二人椀久』(左より)松山太夫=中村壱太郎、椀屋久兵衛=尾上右近 /(C)松竹

夜の部『二人椀久』(左より)松山太夫=中村壱太郎、椀屋久兵衛=尾上右近 /(C)松竹

壱太郎の松山は、夢のような美しさ。うっとりとした溜息のように、場内に拍手が広がった。長唄の演奏に彩られ、二人は近づき離れ、頬を寄せ……。魂を分けた双子のように見える瞬間があった。かと思えば生々しいほど男女の親密さを感じさせる瞬間もあった。一瞬一瞬のリアリティが、ふたりの間にはたしかな絆があったのだろうと想像させた。松山の着物の柄と重なるように桜の背景が広がり、演奏のテンポが上がり、ふたりの踊りも勢いを増す。夢心地の高揚感と、今にも消えてしまうのでは、というそこはかとない焦燥感に胸が高まり、ふたりの時間が終わった時は、椀久の心の穴に吸い込まれるようだった。客席は静まり、大向うが響き、一呼吸おいて熱い拍手が送られた。

三、大富豪同心(だいふごうどうしん) 影武者 八巻卯之吉篇

新作歌舞伎『大富豪同心』は、幡大介の同名時代小説の歌舞伎化であり、主人公の八巻卯之吉(やまき・うのきち)と卯之吉と顔が瓜二つの幸千代を中村隼人が二役早替りで勤める。今回は演出に松本幸四郎、演出・振付に尾上菊之丞の名前がクレジットされている。脚本は戸部和久。

夜の部『大富豪同心』八巻卯之吉=中村隼人 /(C)松竹

夜の部『大富豪同心』八巻卯之吉=中村隼人 /(C)松竹

卯之吉は、江戸一の豪商三国屋の末孫。柔和で美麗な若旦那で、気軽に小判を配布する大富豪。祖父がお金の力で南町奉行の同心という役職につけるも、卯之吉に剣術の心得はない。それどころか剣を見るだけで気絶してしまう。それでも運や財力、人脈、なによりも持ち前の人柄で、はんなりと、なんやかんや事件を解決していく。今回歌舞伎化されるのは、小説の23巻にあたる「影武者 八巻卯之吉篇」。徳川家政(坂東新悟)が病に伏す中、甲斐国で暮らす異母兄弟の幸千代(中村隼人)が江戸へ呼び寄せられることになる。警護役は、卯之吉を慕うヒロインの美鈴(中村壱太郎)。彼女の機転で、幸千代は卯之吉の着物に着替えるが……。

夜の部『大富豪同心』(左より)幸千代=中村隼人、美鈴=中村壱太郎 /(C)松竹

夜の部『大富豪同心』(左より)幸千代=中村隼人、美鈴=中村壱太郎 /(C)松竹

卯之吉と幸千代、どちらの役で登場しても隼人の魅力が大盤振る舞い。隼人が登場するたびに明るい拍手が起きていた。隼人にとって卯之吉は、2019年のTVシリーズ放送開始以来親しんできたキャラクター。同心になったり影武者を任されたり、常に翻弄されているようでいて、実は懐深く誰よりも状況を楽しんでいる様子。はんなりと軽やかだが、ブレはなく軽薄でもない。皆を幸せにする魅力がある。もう一役の幸千代では、卯之吉とは対照的なキリっとした品と強さのあるキャラクター。清少将(坂東巳之助)との一騎打ちは、力強くキレがあり、ぶつかり合うエネルギーにわくわくした。

その舞台を支え盛り上げるのは、人気&実力を兼ね備えた俳優陣。劇中でも実年齢でも94歳の箔屋寿太郎(市川寿猿)の登場には、客席と舞台がひとつになって拍手をおくった。幇間の銀八(尾上右近)が調子よく物語を運び、清少将が血の気がひくような艶のある声とキレのある身のこなしで芝居の温度を乱高下させる。江戸城では実直そうな沢田彦太郎(中村亀鶴)が土下座の進化系で本作の可笑しみを軌道にのせ、三国屋徳右衛門(中村鴈治郎)がノリノリで酌をすれば、大井御前(市川笑三郎)がお酒をあおり色気と笑いで場をさらう。町の侠客・荒海ノ三右衛門(松本幸四郎)は、二足歩行がままならなくなるほどの愛を卯之吉に注ぎ、先陣を切って笑いをとりながら、ここぞというシーンでは閃光が走るような立廻りをみせた。中臈富士島(市川笑也)や老中の本多出雲守(市川中車)、真琴姫(中村米吉)と乳母(市川青虎)が脇を固め、皆の芸とユーモアが硬柔巧みに芝居を運ぶ。色々とツッコミたくなる鷹揚な展開なのに、ツッコむ気持ちが消えてしまうほど、かっぽれ、獅子舞、SNSで見かけるあのダンスまでサービス精神に溢れ、休憩なしの80分の作品にこれだけの俳優が集結する、お正月興行ならではの贅沢を満喫。フィナーレは総踊りだ。真顔できっちり淡々と踊るもよし、全身全霊で踊り倒すもよし。そのテンションの幅が、役はもちろん俳優の個性をも面白く際立たせていた。『熊谷陣屋』でずしりと心に残ったものや、『二人椀久』の淡い余韻を少しも曇らせることなく、それでいて心一杯楽しい、賑やかで幸せな気持ちで歌舞伎座を送り出してくれるお芝居だった。

夜の部『大富豪同心』フィナーレ  八巻卯之吉=中村隼人 /(C)松竹

夜の部『大富豪同心』フィナーレ  八巻卯之吉=中村隼人 /(C)松竹

『壽 初春大歌舞伎』は2025年1月2日(木)より26日(日)までの上演。

取材・文=塚田史香

公演情報

松竹創業百三十周年
『壽 初春大歌舞伎』
日程:令和7(2025)年1月2日(木)~26日(日)
会場:歌舞伎座
 
[休演]16日(木)
※25日(土)昼・夜の部は「歌舞伎座 着物の日」です。

 
 
■昼の部 午前11時~
 
一、寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)
 
曽我五郎時致:坂東巳之助
曽我十郎祐成:中村米吉
大磯の虎:坂東新悟
小林朝比奈:尾上右近
化粧坂少将:澤村宗之助
八幡三郎:澤村精四郎
近江小藤太:中村吉之丞
梶原平次景高:大谷廣太郎
梶原平三景時:松本錦吾

鬼王新左衛門:市川中車
工藤左衛門祐経:中村芝翫
 

夢枕 獏 作
今井豊茂 脚本(大百足退治)
戸部和久 脚本(鉄輪)

二、陰陽師(おんみょうじ)
大百足退治
鉄輪
 
〈大百足退治〉
藤原秀郷:尾上松緑
大蜈蚣の魂魄:坂東亀蔵
永薙姫:中村魁春
 
〈鉄輪〉
安倍晴明:松本幸四郎
源博雅:中村勘九郎
徳子姫:中村壱太郎
呑天:大谷廣太郎
蜜夜:市川笑也
蜜魚:澤村宗之助
海老:澤村精四郎
青牙:市川青虎
暗妃:市川笑三郎
赤鬼:市川猿弥
藤原兼家:市川門之助
蜜虫:市川高麗蔵
蘆屋道満:松本白鸚
 

恋飛脚大和往来
三、玩辞楼十二曲の内 封印切(ふういんきり)
新町井筒屋の場
 
亀屋忠兵衛:中村鴈治郎(2~14日)
      中村扇雀(15~26日)
丹波屋八右衛門:中村扇雀(2~14日)
        中村鴈治郎(15~26日)
傾城梅川:片岡孝太郎
肝入由兵衛:中村寿治郎
阿波の大尽:大谷桂三
槌屋治右衛門:中村東蔵
井筒屋おえん:中村魁春
 
 

■夜の部 午後4時30分~
 
 
一谷嫩軍記
一、熊谷陣屋(くまがいじんや)
 
熊谷直実:尾上松緑
相模:中村萬壽
源義経:中村芝翫
梶原平次景高:中村松江
堤軍次:坂東亀蔵
藤の方:中村雀右衛門
白毫弥陀六:中村歌六
 
 

二、二人椀久(ににんわんきゅう)
 
椀屋久兵衛:尾上右近
松山太夫:中村壱太郎
 

幡 大介 原作「大富豪同心」(双葉文庫)
戸部和久 脚本
松本幸四郎 演出
尾上菊之丞 演出・振付

新作歌舞伎
三、大富豪同心(だいふごうどうしん)
影武者 八巻卯之吉篇
 
八巻卯之吉/幸千代:中村隼人
美鈴:中村壱太郎
清少将:坂東巳之助
徳川家政:坂東新悟
真琴姫:中村米吉
銀八:尾上右近
溝口左門:中村吉之丞
乳母岩橋:市川青虎
箔屋寿太郎:市川寿猿
傅役大井御前:市川笑三郎
中臈富士島:市川笑也
坂内才蔵:市川猿弥
沢田彦太郎:中村亀鶴
本多出雲守:市川中車
荒海ノ三右衛門:松本幸四郎
三国屋徳右衛門:中村鴈治郎
 
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