レオ・ヌッチ、最後の来日~人間がもつ底知れぬ力を、いま一度味わうチャンス
(C)Roberto Ricci
人間がもつ底知れぬ力を目の当たりにしたとき、人は感動に打ち震える。一例が大谷翔平のパフォーマンスだが、レオ・ヌッチの歌唱も負けてはいない。
「最高のバリトンはだれか?」と問われたとき、私は1990年代からヌッチの名を必ず挙げていた。ヌッチに匹敵しうる先輩歌手の引退後は、ヌッチ一択になった。60代になっても70代になっても、ヌッチには衰えがみられず、むしろ年齢とともに味わいが加わり、無敵の歌唱を披露し続けた。
しかし、もう一歩年齢を重ねたヌッチによる、前代未聞の圧倒的パフォーマンスに打ちのめされるとは、正直、想像していなかった。2024年2月にヌッチが東京で披露した歌唱は、文字どおり想像を絶していた。
(C)Roberto Ricci
ヌッチは82歳になる目前だったが、その声力は、圧倒的な響きは、いったいなんなのか。その声は若い名歌手たちの歌唱を忘れさせるほど力強いが、それだけではない。《椿姫》のジェルモンは、表出する分厚い父性に悲壮感すら漂い、《リゴレット》では憤怒も哀願も絶望も、魂の叫びそのものだった。
80歳を超えてステージで歌ったオペラ歌手は、多くはないが過去にもいる。だが、いまが全盛期の歌手たちを寄せつけない水準で、何曲も歌い続けた歌手は、歴史的にもほかにはいないのではないだろうか。しかも、どの曲も、ヌッチの人生経験に比例して、恐ろしく深く掘り下げられている。
むろん、本物のテクニックがあればこそだが、それだけでは説明がつかない。天の配剤か、選ばれた人間だけの特殊な能力の賜物か。いずれにしても、これは人間という存在が稀に発揮する底知れぬ力に違いない。11月9日、あと1回だけ、それに触れるチャンスが私たちには残されている。
文=香原斗志(オペラ評論家)
公演情報
オペラ界の頂点の全てが、ここに凝縮される!
会場:サントリーホール 大ホール
バリトン:レオ・ヌッチ
ソプラノ:エリーザ・マッフィ
テノール:イヴァン・マグリ
前半:ヴェルディ:歌劇《椿姫》ハイライト
後半:ヴェルディ:歌劇《リゴレット》ハイライト