《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 13 吉田玉佳(文楽人形遣い)
-
ポスト -
シェア - 送る
吉田玉佳(文楽人形遣い)
国立劇場の文楽研修生を経て文楽の世界へ。足遣い、左遣いとして初代および当代の吉田玉男を支えてきた吉田玉佳(60)は近年、主遣いとして大役を演じる機会が増え、若手からも頼られる存在に。今年は還暦にして芸歴40年。今後、さらなる飛躍に期待がかかる。
三味線志望で文楽研修生に
初代、二代目(当代)と続けて人間国宝となった二人の“吉田玉男”を近くで支えてきた人といえば、やはり吉田玉佳さんが思い浮かぶ。1985年に初代に入門して足遣いを勤め、今は主遣いを勤めつつ、二代目の左遣いとしてもしばしば重用されている。芸歴からいえば左は卒業してもおかしくないだけに、当代からの信頼の厚さがうかがえるだろう。そんな玉佳さんは、東大阪出身。サラリーマンの家庭に生まれ育った。
「ご近所に道頓堀の中座に勤める照明さんがいて、時々、藤山寛美さんの松竹新喜劇の
文楽を上演していた朝日座には行ったことがなかったそうなのだが、ある日、叔母から「文楽の三味線やったら、できるんちゃうか」と言われた。なんでも玉佳さんの亡くなった祖父が趣味で義太夫三味線を弾いており、その音色が良かったことから、隔世遺伝があるかもしれないと思いついたのだという。
「既に研修制度はあったのですが、大阪に文楽劇場が開場するというタイミングでの研修生募集という記事を見た叔母から、強く応募を勧められて。全く興味を持てず『一度だけ』と、朝日座にでかけました。芝居より前にまず、客席がガラガラでびっくり(笑)。太夫、三味線の錚々たる顔ぶれが、汗をかきながらうわぁーと語っていて、すごいな、と。人形も美しく感じましたが、何せ『三味線に』と言われていたので、そちらに意識が行っていました。その後、養成課に問い合わせしたところ、『説明するから来てください』とのこと。そこでかなり積極的に勧められ、勧められるままに応募したのですが、受験番号がなんと1番。『やばいぞ、1人なんちゃうかな』と焦りました。面接では人間国宝の方を含む師匠方にコの字で囲まれて色々質問されて、それはそれは怖かったですね(笑) 」
結局、応募者数は8名。そのうち1番から4番までが合格したのは、玉佳さんいわく「早いもん順(笑)」。同期には人形遣いの吉田勘市がいる。こうして玉佳さんの国立劇場文楽第9期研修生としての生活が始まった。研修生は太夫・三味線弾き・人形遣いのどれを志望していても、最初は全て学ぶ。
「三味線は先代(四世)の野澤錦糸師匠や先代(五世)の鶴澤燕三師匠が教えにいらして、最初は優しいのですが、どんどん師匠方の眉毛がガーッと吊り上がっていき、『うぬは! できへんのか!!』。怖かったですが、『本気でやるんやったらちゃんと教えるから入門しなさい』といった温かい言葉もいただきました。太夫は(七世竹本)住太夫師匠、(五世豊竹)呂太夫師匠などに教わったのですが、これまた厳しかったですね。住太夫師匠は熱血指導でしたし、呂太夫師匠には『君らは賢いから明日までにこれ覚えてこい』と丸一段を課題に出されて『絶対に無理!』……そんなこともありました。そのほか、日本舞踊の吉村雄輝夫さん、狂言の(四世)茂山千作さんなど豪華な先生方に教えていただきましたが、素人相手に『できて当たり前』といった雰囲気は針のむしろ状態。一方、人形は先代の玉男師匠や(三代吉田)簑助師匠、(二世桐竹)勘十郎師匠など皆さん優しくて、特に勘十郎師匠には『君、うまい!』『人形遣いでいける』と毎回のように言われて。後で聞いたら皆に言っていたんですけど(笑) 」
指導法が影響したのか、どんどん人形が面白くなっていった。
「研修生入りたての時は、芝居を客席から、1年ちょっとすると舞台裏から見ることができるんです。そうすると自ずと師匠方の遣う人形を目で追うようになり、取り憑かれて行ったように思います。1年後に適性審査があり、2年目からは人形専門に研修しました」
≫師匠、初代吉田玉男のもとで