《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 13 吉田玉佳(文楽人形遣い)
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師匠、初代吉田玉男のもとで
研修終了後の1985年、玉佳さんは初代玉男に入門し、プロとしてのキャリアをスタートさせる。
「何より師匠の遣う二枚目などの人形の美しさに惹かれ、弟子を志願しました。師匠の『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』の保名(やすな)なんて最高でしたね。今年5月の東京公演で同じ演目が出たので、昔のことを思い出しました。『保名物狂の段』で僕が師匠の保名の足遣いをしていた時は、『(主遣いの)自分の“気”から行くから足が先に出たらあかん』と怒られて。保名のような乱心した役の足はちょっと遅れなければいけないんです。師匠からは『足遣いさえできたら、左遣いも主遣いも何でもできるようになるから、足をきちんと遣いなさい』と言われ続けました。やっぱり人形遣いで一番大切なのは足取り。おじいちゃんの足取り、おばあちゃんの足取り、武士の足取り、町民の足取り……。足取りでその役が決まると言っても良いと思います。師匠は足遣いが踏む、トントンという音一つにもすごくこだわっていました。『トンと踏む音だけで気が入る、そういうトンが欲しい』と言われましたが、これが難しくて」
入ったばかりの弟子にとって、師匠は雲の上の存在。その師匠の本番前の姿を、玉佳さんは忘れられないという。
「舞台に出る前、師匠は舞台横の“小幕”の内側に3分くらい前にスタンバイするんですよ。暗い中でじーっとして、気持ちを作っていくんです。主遣いの師匠が役に入るということは、左遣いや足遣いの僕らも入らなければならない。初めのうちは何か失敗して怒られるんじゃないかとビクビクしていましたが、次第にその時の緊張感が堪らなくなっていったのを覚えています」
舞台に関しては厳しかった玉男師匠。オフではどうだったのだろうか?
「うちの師匠は『プライベートは来るな』『休みなさい』というタイプ。正月も、初日には劇場で挨拶できるんやから、家には来るなと言われていました。温泉に行きはるからというのもありましたが(笑)。だからうちの一門はあまり師匠の家には行かなかったんです」
初代玉男というと、人間国宝になってからも電車で劇場に通っていたことで知られる。
「電車に乗るのが好きで、『ここは2両目に乗るんや』とか『どこどこの駅よりこっちの駅で乗り換えたほうが楽やねん』といったことをお客さんにも伝えていましたね」
無駄のない動きを目指すのは、舞台上の姿と通じるだろう。
「そうなんですよ。主遣いが左遣いと足遣いに送る合図『ず』も、師匠はとにかくシンプルだったため分かりにくかったです。頭一つでも人形にとって無駄な動きになることは極力やりたくなかったのでしょうね。しかも毎日違うことをやるんです。屋体(舞台上の建物)に上がる時、普通は右足から上がるのに左から上ったり。気を抜く暇がありませんでした」
そんな玉男は2003年、第19回京都賞を受賞して受け取った賞金を大阪メトロに寄付し、「エスカレーターをつけてほしい」とリクエストした。
「そんなこともありましたね。地下鉄から国立文楽劇場に着くには、お客さんは階段を上らなければいけない。地下の通路を劇場の下まで延ばしてほしいと師匠が言うので『それはちょっと予算的に無理なんちゃいますか』『エスカレーターかエレベーターが良いんじゃないですか』と弟子達も盛り上がったことがありました。結局、その時は実現しなかったのですけれども」
しかしその22年後、そして06年の玉男逝去から19年後の今年ついに、劇場最寄りの日本橋駅の7号出口近くにエレベーターが設置された! 玉男師匠も草葉の陰で微笑んでいるに違いない。
初代吉田玉男師匠(左)と。 提供:吉田玉佳
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