帝国劇場の歴史《第一部》【初代・帝劇編】
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初代・帝劇、開場時の外観 (写真提供:東宝演劇部)
特集「帝国劇場」~小川洋子『劇場という名の星座』出版記念
帝国劇場の歴史《第一部》【初代・帝劇編】
東京・丸の内の帝国劇場(通称:帝劇)は、2025年2月28日に行なわれた「帝国劇場 CONCERT『THE BEST New HISTORY COMING』」の閉幕を以て、建て替えのため一時休館となった。私たちのよく知る、その帝劇とは、1966年に建て替えられた二代目の帝劇である。つまり、その前に初代の帝劇も存在していたのだった(詳しくは後述)。
二代目・帝劇の入っていた帝劇ビルは、今(2026年2月現在)隣接する国際ビルと共に解体工事が行なわれており(その様子は2026年2月28日にNHKBSで放送された「解体キングダム」でも取り上げられた)、2027年3月頃迄には何の跡形もなくなる予定だ。その敷地(千代田区丸の内3-1-1)には今後、地上29階地下4階の大型ビルが2030年度の竣工を目指して建造される。このうち、地上4階から地下2階までの部分が新しい三代目の帝劇となり、その設計は建築家の小堀哲夫氏が担う。
帝劇が姿を消してしまっている今、“帝劇ロス”を憂う舞台ファンがいるかもしれない。ただ、1966年9月の二代目・帝劇オープンから数えて今年(2026年)で約60年、さらに1911年3月の初代・帝劇の開場から数えれば約115年にも及ぶ長大な歳月の中で、演劇やミュージカルをはじめとする膨大で多彩な上演作品群は、帝劇の歴史の中にしっかりと刻み込まれてきた。ならば、その劇場史を改めて振り返り、整理してみることこそ、帝劇に愛着を覚えてきた私たちが今この時期にやっておきたい最良の行ないではないだろうか。数年後に三代目として再生する帝劇の新たな歴史(New HISTORY)に期待を繋げるうえでも意義深いことと思われる。
折しも、作家の小川洋子氏が、帝劇の記憶を未来へと繋ぐ小説を世に送り出した。その書籍のタイトルは『劇場という名の星座』(2026年3月5日、集英社・刊)。帝劇での鑑賞経験がおありの人ならば言うに及ばず、舞台芸術を愛好する人の多くが興味を抱くことだろう。その小説をより深く味わうためにも、その劇場の歴史をひと通りおさらいしておくことは好ましいことと思われる。よって、これより帝劇ヒストリーを綴ってみたい。
■初代・帝劇誕生まで~演劇改良運動の集大成
帝国劇場がオープンしたのは、1911年(明治44年)3月1日。開場式(帝劇取締役会長・渋沢栄一男爵の演説、工事担当者・横河民輔技師の報告、来賓たちの祝詞)に続いて披露された演目は、「式三番」、旧派(歌舞伎)俳優による史劇「頼朝」(作:山崎紫紅/帝劇募集脚本)、新派俳優による喜劇「最愛の妻」(作:松居松葉)、帝劇女優による西洋踏舞「フラワーダンス」であった。この劇場は、私たちの知る二代目・帝劇ではなく、フランス風ルネサンス建築様式による壮麗な四層楼の、初代・帝劇である。設計者・横河民輔(横河グループの創業者)は、日本鉄骨建築の先駆者であり、(旧)三井本館(1902年)や有楽座(1908年)、三越呉服店(1914年/現・三越日本橋本店)など数々の堅牢な欧風建築を手掛けたことで知られる。
劇場設立までの経緯を見ていこう。日清戦争(1894-95年)、日露戦争(1904年)に勝利して国威を高めた大日本帝国は、自国が西欧諸国と肩を並べた一等国であるとの意識を持ち、さらなる近代化の道を突き進んだ。演劇も(文明開化以前の日本では専ら歌舞伎が主流だったが)外国の貴賓に見せるに相応しい、高尚な舞台芸術が上演されるべきと、初代内閣総理大臣・伊藤博文ら明治政府首脳陣の主導によって「演劇改良運動」が進められた。その目的は「すぐれた実作を生みだすこと、劇作家の地位を上げること、新しい劇場を建設すること」だった(大笹吉雄『日本現代演劇史』より)。
伊藤博文や財界のドンである渋沢栄一と親しかった福地源一郎(福地桜痴)は、改良演劇の上演の場たらんとして1889年、木挽町に歌舞伎座を開場させるも、結局、その劇場名に引き摺られるようにして歌舞伎メインの小屋となってしまう。国賓接待の場としても、初期の歌舞伎座はまだ設備環境が十分に整っていなかった。
そんな中、福澤諭吉の次男・福澤捨次郎(時事新報社長、後に帝劇社長も務める)は、国賓を接待するための一流劇場を創設することの必要性を伊藤博文に説く。共鳴した伊藤は、さっそく渋沢栄一や、明治の大政商・大倉喜八郎(大倉財閥創始者。鹿鳴館や帝国ホテル等の設立者。後に帝劇第二代会長)らに「帝都の模範劇場」の設立を呼びかけた。
これを受けて、1906年10月に大物実業家たち31人が参加する帝国劇場株式会社の設立発起人集会が開かれる。ここで出された設立趣旨は《国運の隆盛にふさわしい国際的な文化施設としての劇場を建て、わが国の国劇である歌舞伎芝居等を諸外国に紹介する具としたい》《劇場を在来の水商売的な経営から離脱させて、健全な実業として経営させ、観劇方法等も改めて、帝都の模範劇場たらしめたい》《在来の歌舞伎やその他の舞台藝術をこの劇場を本拠として、より高度に発展向上させたい》というもので、これはまさしく前述の「演劇改良運動」を集約させた内容だった。
翌1907年には帝国劇場株式会社が正式に発足。役員は、取締役会長・渋沢栄一、専務取締役・西野恵之助(山陽鉄道運輸課長。後に帝劇第四代会長)、取締役・大倉喜八郎、福澤桃介(福澤諭吉の娘婿。「電力王」。後に帝劇第三代会長)、益田太郎(三井財閥総帥だった益田孝の次男。大日本製糖専務。劇作家太郎冠者)、日比翁介(三越呉服店専務)、田中常徳(キリンビール会長)、手塚猛昌(「時刻表の父」)といった錚々たる顔ぶれ。福沢諭吉門下生(慶應義塾閥)が多かったが、中心となって采配を振るったのは大倉だった。
1909年2月には創立総会が催され、創立委員長として渋沢、創立委員には福澤捨次郎・荘田平五郎(日本郵船理事、三菱四天王の一人)ら8名が選ばれ、資本金は120万円(当時)、皇居前の御濠端、三菱が所有する丸の内の土地約二千坪に一大劇場を建設することが決まると、さっそく同年5月から工事が開始された。そして1911年2月10日には、劇場が落成する。ただし、帝劇構想を提唱した伊藤博文公がこれを見届けることは叶わなかった。劇場完成および開場の1年3ケ月前(1909年10月26日)、満州のハルビン駅で銃弾に斃れたからである。
■新しい舞台芸術のはじまり
かくして、地上4階建て(地下も含めると5階建て)、全席椅子席(1,700席)で、オーケストラピット、シャンデリアを備えたプロセニアム形式の新劇場が1911年3月1日、華々しく開場した。「帝都の新名所」「白亜の殿堂」「日本初の西洋式劇場」などと大いにもてはやされる(厳密には“日本初の全席椅子席の洋風劇場”は1908年開館の有楽座だったが……)。新劇場は、茶屋出方制という演劇界の旧弊を全廃、接待係(男)と案内人(女)を置き、客席での飲食・喫煙は禁止する一方で、2階に洋食の食堂、3階には和食の食堂を設置。座席券の前売りや自動車送迎など、近代的な興行サービスを初めて導入した。
1912年以降の公演パンフレットには、「今日は帝劇、明日は三越」という宣伝コピーの躍る三越の広告が掲載されていることが確認できる(考案者は当時の三越宣伝部長・浜田四郎)。これは当時の流行語にもなった。さらに、帝劇と三越はお見合いの場としても最適の場所だとまで言い広められるようになる。当時の三越の実質的支配人は、帝劇の役員でもあった日比翁介。彼は帝劇と三越を近代的マーケティングの具として巧妙に活用したのである。
帝劇プログラムの三越広告「今日は帝劇 明日は三越」 (写真提供:東宝演劇部)
劇場の上演演目はどのようなものであったのか。旧派と称せられる歌舞伎や新派と呼ばれる演劇に加えて、西欧の戯曲(シェイクスピアやイプセン等)を扱う新劇、オペラ、バレエといった目新しいジャンルの作品が幅広く上演されたが、なかんずく注目されたのが「女優劇」である。歌舞伎の女形ではなく、女性の役を女性の俳優が演じることは、「演劇改良運動」の目指すところでもあった。女優劇には、帝国劇場付属技芸学校の出身者たち=森律子、河村菊枝、初瀬浪子、村田嘉久子らが出演し人気を集めた(とはいえ、当時は女優がまだまだ卑しい職業と蔑まれており、彼女らの苦悩は絶えなかったという)。技芸学校一期生出身の森律子は、太郎冠者(三井の御曹司・益田太郎)の書いた喜劇『ドッチャダンネ』(1917年)など数々の作品で主演を務め、スターとなる。ちなみに『ドッチャダンネ』の劇中歌「コロッケの唄」もまた巷で大いに流行ったが、この中に「今日は帝劇、明日は三越」の順番をひっくり返した「今日は三越 明日は帝劇」という歌詞が登場する。この程度のパロディでも当時は結構ウケたようだ。
ときに、帝劇女優劇の俳優たちを育成した帝劇付属技芸学校の前身は、川上音二郎とその妻・マダム貞奴が設立した帝国女優養成所だった(町の床屋の二階にあったという)。その所長を務めた貞奴は、元々は伊藤博文から寵愛された「日本一の芸妓」で、その後、彼女が惚れ込んで結婚した相手・川上音二郎の一座において「日本の近代女優第一号」となり、欧米巡業で大絶賛された。音二郎の死後は、1926年に帝国劇場株式会社会長となる“電力王”の福澤桃介をパートナーとして共に暮らす。
もっとも、初期帝劇で活躍した女優といえば、やはりあの“歌う女優”のことを語らないわけには行くまい。1911年5月、坪内逍遥の主宰する文芸協会の第一回公演『ハムレット』(作:シェイクスピア。訳・指導:坪内逍遥)が帝劇で上演された。『ハムレット』が日本で完全上演されたのはこれが初めてのこと。また、黎明期の“新劇”が、誕生間もない帝劇に登場したことも日本演劇史における一つの画期であった。そして、この舞台でオフェリア役に抜擢され帝劇デビューを果たした女優こそ、文芸協会演劇研究所第1期生の、松井須磨子その人であった。オフェリアの「狂乱の唱歌」を歌う彼女の熱情溢れる演技は忽ち世間の話題をさらった。さらに同年11月、同劇場における文芸協会第二回公演『人形の家』(作:イプセン、訳・指導:島村抱月)で須磨子は、覚醒し自立する主人公ノラを演じ、こちらも大変な評判を得た。折しも同年9月に、婦人月刊誌『青鞜』(編集長:平塚らいてう)が創刊され、両者は「新しい女」の象徴として注目を集めた。もちろん『青鞜』誌面でも須磨子の舞台は頻繁に論じられた。
時代が明治から大正に移る頃、松井須磨子と島村抱月は不倫スキャンダルで文芸協会を追放される。抱月は須磨子や沢田正二郎、秋田雨雀らと共に劇団芸術座を旗揚げした。帝劇では、1913年12月にワイルド『サロメ』(訳・演出:島村抱月)が上演され、須磨子はタイトルロールを演じる。そして翌1914年3月、劇団芸術座第3回公演、『復活』(原作:トルストイ、訳・脚色・演出:島村抱月)が帝劇で初演されると、須磨子は“歌う女優”として人気が爆発した。彼女が劇中で歌う「カチューシャの唄」(作詞:島村抱月・相馬御風、作曲:中山晋平)が世の流行に火を点けたのだ。同曲は「復活唱歌」という題名でレコード化もされ、当時2万枚以上を売り上げる大ヒットを記録した。これを日本初の流行歌と捉える向きも多い。1915年4月に帝劇で上演された芸術座第5回公演『その前夜』(原作:ツルゲーネフ、訳・脚色:楠山正雄)の劇中歌「ゴンドラの唄」(作詞:吉井勇。作曲:中山晋平)もまた人口に膾炙した。「命短し恋せよ乙女」で始まる同曲は後年、黒澤明監督の映画『生きる』の中で志村喬がブランコを漕ぎながら歌ったことでも改めて有名になる。なお、須磨子は、スペイン風邪で没した抱月の後を追って1919年、32歳の若さで自ら命を絶ってしまう。
話変わって、帝劇の上演演目として当初から想定されていた重要ジャンルには、オペラもあった。そのために帝劇歌劇部(後に洋劇部に改称)が創設され、日本初の世界的ソプラノ歌手・柴田環(後の三浦環)が招かれる。彼女はプリマドンナとして活躍するが、1911年12月に抄演されたオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』(作曲:ピエトロ・マスカーニ)ではイタリアの名歌手アドルフォ・サルコリーと共演し、レコード化もされた(日本における洋楽レコードの第一号)。
1912年8月には、オペラ上演において、より一層の質的向上を図るべく、ミラノスカラ座出身で英国ロンドンのウエストエンドで活躍していた振付家・演出家のジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーを招き、以後4年間に渡り、歌劇部の指導を託した。彼は、『ヘンゼルとグレーテル(当時の邦題は『夜の森』)』(1913年2月。作曲:フンパーディング)を皮切りに、『魔笛』(1913年6月。作曲:モーツァルト)、『マダム・バタフライ』(1914年1月。作曲:プッチーニ)、『天国と地獄』(1914年10月。作曲:オッフェンバック)などの日本初演を次々に手掛けた他、数々のダンス・バレエ作品の振付・指導にも携わった。また、清水金太郎をはじめ、後に浅草オペラなどで活躍することとなる歌手たちを数多く育成・輩出した。歌劇部の中には後に伝説的な舞踊家となる石井漠もいたが、ローシーと喧嘩して帝劇俳優を解雇された(しかし石井は1948年、伊福部昭作曲のバレエ『さ迷える群像』の振付家として帝劇への復帰を果たすこととなる)。
後に東宝株式会社を創業し、やがて帝劇を傘下に収めることとなる小林一三は、39歳の時(箕面電車の経営に携わりながら、宝塚新温泉に新館パラダイスを開設していた頃である)、柴田環や清水金太郎の出演する創作オペラ『熊野(ゆや)』(1912年2月/作詞:杉谷代水、作曲:ユンケル)を鑑賞し、「オペラの将来について考えた」と随筆にしたためている。これが後年の宝塚少女歌劇団創立に少なからず影響を与えた。さらには、“東宝ミュージカル”の原点も実はここにあると考えてよさそうだ。ちなみに、小林が翌1913年に創設する宝塚唱歌隊は、やがて宝塚少女歌劇へと発展、巷に少女歌劇ブームを巻き起こし、1918年5月には初の東京公演を帝劇で行なうこととなる(その後、意外なことに歌舞伎座でも7回、公演を行なっている)。
帝劇は日本を代表する一流の劇場として、海外からの大物アーティスト来日公演もたびたび行なわれた。ロシアの偉大な作曲家でピアニストのセルゲイ・プロコフィエフ(1918年7月)をはじめ、フリッツ・クライスラー(vn)(1923年5月)、ヤッシャ・ハイフェッツ(vn)(1923年11月)、ロシア・グランド・オペラ(1919年9月)、京劇の女形スター梅蘭芳(メイランファン)の一座(1919年5月)、そしてロシアの伝説的バレリーナ、アンナ・パブロワ(1922年9月)の来日公演などが行なわれ、いずれも活況を呈した。こうして大正モダニズムの波に乗りながら帝劇の舞台芸術が華やかに盛り上がりを極めようとしていた矢先の1923年9月1日、大地震が首都圏一円を襲う。
関東大震災で炎上する初代・帝劇 (写真提供:東宝演劇部)
■運営母体の変転~松竹、東宝
帝劇は関東大震災によって内部のほとんどを焼失し、全面的な改築を必要とするほどの被害を被った。そこで、再び横河民輔に改築の設計を依頼して、改築工事を急ピッチで進めた。その間の興行は帝国ホテルの演芸場など外部のスペースを借りて行なった。そうするうち、震災から約1年後の1924年10月20日には早くも「改築記念興行」で劇場を再開場することができた。この時、冷房をはじめとして劇場の機能および設備全般を向上させたので、観劇環境は以前よりも大分快適となった。なお、この全面改築された帝劇を“第二次帝劇”あるいは“大正帝劇”と称する場合もある。だが、初代(明治帝劇)の外観を概ね踏襲している点を重視し、拙稿ではこの建物をこのまま初代・帝劇として扱う。
再建中の初代・帝劇 (写真提供:東宝演劇部)
1924年に再開場した帝劇における注目すべきプログラムとして、先ずは帝劇名物の女優劇。男装の森律子がハイスピードで口上を述べる『高速度喜劇』(1925年7月/作:セレクタス=益田太郎冠者の変名)が大当たりする。次に新国劇。これは、かつて文芸協会や劇団芸術座に所属していた澤田正二郎の一座である。大衆志向の強い剣劇を得意とした。1925年8月に『国定忠治』(作:行友李風)など3作品を引っ提げ帝劇に登場するや熱烈に支持され、以後たびたび出るようになる。そして新劇。土方与志と小山内薫が1924年に立ち上げ一世を風靡していた築地小劇場が自前の常設小屋から飛び出し、『真夏の夜の夢』(1928年1月/作:シェイクスピア、訳:坪内逍遥)で帝劇進出を果たした。翌年5月には同劇団から分裂した土方与志・丸山定男(“新劇界の団十郎”との異名をとった名優・丸山は、後に移動演劇桜隊の隊長として各地を巡回、広島滞在時に原爆投下に遭遇し、致死量の放射線を浴び死亡する)らの新築地劇団もここにお目見えする。
年号が昭和に変わった翌年(1927年)から始まる金融恐慌の影響もあり、帝劇は劇場経営が厳しさを増してきた。映画やラジオという新たな娯楽メディアの台頭で客が舞台離れを起こし始めたことも一因としてある。だがその一方では、当時、関西の歌舞伎興行から出発し、エンタメ産業の勢力を東京まで拡げていた企業が、さらなる大躍進を遂げていた。すなわち、白井松次郎と大谷竹次郎の兄弟が率いる松竹である。歌舞伎はもちろんのこと、新派、新国劇、喜劇、そして少女歌劇、さらには映画興行まで抜かりなく、幅広い事業展開を行ない、歌舞伎座(1913年~)をはじめ東阪の名だたる劇場を次々と経営傘下に収めるようになっていた。エンタメ客はどんどんそちらに流れた。そうした状況下で、帝劇四代目会長の西野恵之助は遂に自社運営を断念し、1929年、10年間の賃借契約を松竹と結ぶ。これにより帝劇は松竹の経営する劇場となったのである。
そこからの帝劇は1930年1月から帝劇の専属だった歌舞伎俳優と松竹専属だった歌舞伎俳優を混成出演させる華やかな歌舞伎を上演するなど、松竹ならではの演目を展開する。だが、当時の松竹は東京において、歌舞伎座・帝劇・東京劇場(東劇。現在は映画館)という3つの大劇場を同時に運営しなければならなくなり、演目のやりくりが段々と難しくなってきた。そこで、1931年11月からは帝劇を外国映画専門の封切館へと切り換えてしまった。その映画館で数々の歴史的名画がロードショー公開されたことは文化史的には意義深いことだったが、一方では栄光ある帝劇から舞台芸術をはずしたことに対する批判的な見方も多くあった。
小林一三も批判側の一人だった。すでに阪急電鉄や宝塚歌劇団の事業により関西方面で成功を収めていた小林は、この頃、東京に本格進出。東京電燈(東京電力の前身)の社長を務めながら、1932年に株式会社東京宝塚劇場を創立(翌々年1月、東京宝塚劇場開場)、1937年には東宝映画株式会社も創立した(1943年に両社は合併し、東宝株式会社となる)。また、日比谷界隈において日本劇場(日劇)や有楽座(後に映画館)も傘下に収め、いつしか様々な局面において、松竹と熾烈な争いを繰り広げるライバル企業となっていた。小林は1932年に帝国劇場株式会社の取締役に就任し、その勢いにのって翌1933年、帝劇を株式会社東京宝塚劇場に吸収合併してしまう。ただし1940年2月まで帝劇は松竹との10年契約があったので、東宝傘下の帝劇が始まるのは、1940年3月、宝塚少女歌劇雪組の公演からとなった。ここから帝劇は再び舞台芸術の殿堂へと立ち返ることとなる。
しかし、1937年に日中戦争が始まり、1938年には国家総動員法公布、1939年第二次世界大戦勃発、1941年には太平洋戦争開戦、という状況下で娯楽産業は危機に瀕した。しかも小林は1940年7月に第二次近衛文麿内閣の商工大臣に任じられ(~1941年4月)、同年9月には帝劇が内閣情報局の庁舎として政府に召し上げられてしまう。劇場は1年半後に返還されたが、戦況はますます悪化し、1944年2月、今度は決戦非常措置要綱により全国19の劇場が閉鎖を命じられる。結局、帝劇は東京都防衛局の庁舎となって敗戦の1945年8月15日を迎える。丸の内・日比谷地区の空襲が行なわれなかったため、東宝系列の劇場、帝劇・日劇・東京宝塚劇場・有楽座はいずれも被災を免れていた。
■戦後の復興から閉館まで
終戦直後、帝劇は六代目・尾上菊五郎の一座による現代劇『銀座復興』(原作:水上滝太郎。劇化・演出:久保田万太郎)と舞踊『鏡獅子』を以て、1945年10月から再々開場を果たした。演目は、GHQによる古典歌舞伎の検閲・統制下で選定が行なわれたが(統制は1922年11月にパワーズ少佐の尽力により解除)。同年10月、小林一三は幣原喜重郎内閣の国務大臣に任じられ、続いて11月、戦災復興院総裁を兼務するも、翌年3月、公職追放となる。また、東京宝塚劇場は接収され、1946年2月より占領軍専用のアーニー・パイル劇場となった(1955年1月に接収解除)。よって、その間は帝劇が東京における宝塚歌劇上演の受け皿となった。
1946年1月、藤原歌劇団がヴェルディのオペラ『椿姫』(演出:青山杉作)を上演。以降、数々の名作オペラを帝劇で披露し、日本のオペラ振興に大いに寄与する。また、同年6~7月にはシェイクスピア喜劇の『真夏の夜の夢』(訳:坪内逍遥。演出:土方与志)が劇場の総力を挙げて上演された。出演は瀧沢修・森雅之ら新劇俳優たち。土方は、名匠マックス・ラインハルトのプランに基づく演出を行ない、舞台美術は伊藤熹朔、音楽監督は近衛秀麿(元内閣総理大臣近衞文麿の異母弟)、演奏は上田仁指揮・東宝交響楽団、コーラスは藤原歌劇団、群舞は東宝舞踊団(日劇ダンシングチーム)という豪華な布陣が実現した。
次いで同年8月には東京バレエ団が、チャイコフスキー作曲のバレエ『白鳥の湖』全4幕の日本初演を行なった。振付・演出は上海バレエ・リュス出身の小牧正英(小牧バレエ団=現・国際バレエアカデミアの創始者)、舞台美術は藤田嗣治、演奏は山田一雄指揮・東宝交響楽団。主役の王女オデット役を松尾明美(東勇作バレエ団)/貝谷八百子(貝谷八百子バレエ団)、王子ジークフリートを東勇作(東勇作バレエ団)/島田廣(服部・島田バレエ団)がそれぞれWキャストで踊った。この東京バレエ団は、2026年現在活動中の同名バレエ団とは別物の団体で、舞踊評論家の蘆原英了の呼びかけにより、服部・島田バレエ団、東勇作バレエ団、貝谷バレエ団の3団体が合同して結成されたものだった。エキストラの中には、当時、慶應義塾大生だったフランキー堺もいた。公演は大成功し、ここから日本におけるバレエブームの火が点いた。
ところで、その頃の帝劇の舞台映像を確認できる映画が存在する。1948年(昭和23年)に東宝・日映(日本映画社)の提携で製作された『幸運の椅子』(監督:高木俊朗)である。これは敗戦から間もなく再々開場した帝劇を主なる舞台とする、全四話オムニバス形式の劇映画(上映時間90分)だ。第一話の「土曜日の恋人とカルメン」では、藤原歌劇団の創始者・藤原義江や北澤榮らがオペラを歌う。後に「ニッセイのおばちゃん」としても親しまれることとなる東宝の女優・中北千枝子も出演している。第二話「芸術家とバレー」には貝谷八百子や小牧正英らが出演しバレエを踊る。また、第三話「夜の女とヴァイオリン」では、「美貌の天才少女」として世界を股にかけ、クナッパーツブッシュ指揮のベルリンフィルとも共演したことのあるヴァイオリニスト・諏訪 根自子が、上田仁指揮の東宝交響楽団と共演している。ちなみに諏訪は、ナチスのゲッベルス宣伝相からストラディヴァリウスを贈呈されたこともある演奏家であった。そして、第四話「疎開の妻と音楽劇」では、山口淑子が劇団民芸の瀧沢修や森雅之らとオペレッタで共演。日本でも1941年(昭和16年)の「日劇七周り半事件」の人気ぶりで知られる、大陸の歌手にして女優の「李香蘭」(実は日本人)は、敗戦により中国で裁判にかけられ国外追放の身となり、山口淑子の名で1946年に日本へ来たのである。その2年後の姿が、この映画で確認できるのだ。また全編に渡って、日本クラシック界の礎を築いた一人、近衛秀麿が劇伴音楽を手掛けていることにも注目したい。近衛は東宝交響楽団の常任指揮者でもあった。では、タイトルになった“幸運の椅子”とは何なのであろうか。それは小川洋子氏の新刊『劇場という名の星座』の中でも重要なモチーフとなっているので、お確かめいただきたい。また、もしも今後この映画が上映される機会があれば、ぜひとも観ていただきたいと願う(筆者は2019年に京橋の国立映画アーカイブ本館で本作を観ている)。
さて、1951年2月に開幕し二ケ月ものロングラン上演となるほど大当たりした演目が、第一回帝劇コミックオペラ『モルガンお雪』(作:菊田一夫。演出:東信一・水守三郎・小崎政房・斉藤豊吉)だった。出演はヒロインお雪に越路吹雪、相手役モルガンに古川緑波、他に森繁久彌・渡辺篤・有島一郎ら。本作の企画・製作、さらに実質的に演出まで手掛けた人物こそ、当時の帝劇社長、秦豊吉である。三菱商事の社員だった秦は、1933年に株式会社東京宝塚劇場に転職し、小林一三の命により欧米に派遣されエンタメシーンの視察を行なう。その結果、当時日本の少女歌劇において主流だったレビューショーは欧州では廃れつつあり、面白いストーリーを備えたオペレッタ(ミュージカル・コメディ)がとって代わりつつあることを小林に報告した。帰国後、彼は東京宝塚劇場の開場(1934年)を主導し、さらに1935年から東宝傘下となった日本劇場(日劇)で日劇ダンシングチームの育成に注力した。1943年に東宝の代表取締役副社長に就任するが、終戦後に小林同様に公職追放となる。しかし1950年11月には復帰できて帝国劇場社長となったのだった(帝劇は1950年に一時、東宝から独立し、小林一三の長男・冨佐雄が初代社長となり、秦が二代目を継いだ)。
秦が生みだした“帝劇コミックオペラ”は、第二回公演ミュージックオペラ『マダム貞奴』(1951年6月。作:帝劇文芸部。演出:斉藤豊吉、他)、第三回公演ミュージカルコメディ『お軽と勘平』(1951年12月。作:帝劇文芸部。演出:小崎政房・水守三郎)と、シリーズとして続いた。それらの脚本を「帝劇文芸部」名義で書いたのは、実は秦自身だった。元々秦はマルキ・ド・サドに由来する“丸木砂土”なるペンネームで小説やエロ随筆まで書く作家でもあったのだ(1947年には新宿の帝都座で『ヴィナスの誕生』という日本初のストリップ・ショー=“額縁ショー”を企画製作し大成功を収めている)。そして、シリーズ四回目からは“帝劇ミュージカルス”と改称し、ますますの人気を得る。まさに、二代目・帝劇の大きな柱となる“東宝ミュージカル”の、源流の一つといえるだろう。だが、その“東宝ミュージカル”を後に牽引することとなる菊田一夫は、当時『モルガンお雪』の脚本こそ手掛けたものの、秦とは「意見の相違を見て」(菊田一夫「戦中・戦後」~『帝劇の五十年』東宝より)、この一作だけで“帝劇ミュージカルス”からは手を引いている。
1951年に小林一三は公職追放を解除され、東宝社長に復帰。翌1952年10月より彼は、秦豊吉を帯同して、約2ケ月に渡る欧米映画界視察の旅に出る。ちょうどニューヨークでは、同年9月にブロードウェイ劇場で史上初のシネラマ(3台のカメラで撮影された映像を、3台の映写機で、縦9m以上・横25m以上の湾曲したスクリーンに同時投影する上映方式)の映画『これがシネラマだ』が封切られ驚異的な人気を博していた。そのシネラマの独占上映権を、東宝は1954年に取得した。東京には巨大スクリーンの設置が可能な劇場は、帝劇しかなかった。故に帝劇は再び映画館に切り戻され、『これがシネラマだ』(16ケ月間のロングランヒット!)など6本のシネラマ作品を次々に上映していった。だが、その直後に東宝では不幸が相次ぐ。1956年7月に秦豊吉が死去(享年64)、1957年1月に小林一三が死去(享年84)、同年10月には一三の長男で東宝社長を継いでいた小林冨佐雄までもが56歳の若さで他界した。当初話題を呼んだシネラマも徐々にブームの陰りを見せ始める中、初代・帝劇の建て替えが決まった。その陣頭指揮を執ることになったのは、1962年に東宝専務に就任した菊田一夫だった。そして初代・帝劇は、70ミリフィルムの大作映画『アラビアのロレンス』の4ケ月間ロングラン上映を以て半世紀余に及ぶ使命を終え、1964年1月31日、閉館の時を迎えたのであった。
<《第二部》に続く>
文=安藤光夫
※本文執筆にあたっての参考文献は次回《第二部》の文末にまとめて掲出します。
《帝国劇場の歴史》
https://spice.eplus.jp/articles/343961
■帝国劇場の歴史《第二部》【二代目・帝劇編】 二代目・帝劇編
https://spice.eplus.jp/articles/344037
特設ページ
https://spice.eplus.jp/articles/343644
https://spice.eplus.jp/articles/343879
https://spice.eplus.jp/articles/344268
https://spice.eplus.jp/articles/344429
https://spice.eplus.jp/articles/344559
https://spice.eplus.jp/articles/344020
https://spice.eplus.jp/articles/344024
https://spice.eplus.jp/articles/343961
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