「ベルリン・フィル次期首席指揮者にキリル・ペトレンコを選出」について思いを馳せた

コラム
クラシック
2015.7.22
ベルリンフィル公式サイト(http://www.berliner-philharmoniker.de)より  (Photo: Wilfried Hösl)

ベルリンフィル公式サイト(http://www.berliner-philharmoniker.de)より (Photo: Wilfried Hösl)

「オーケストラの未来」を見据えた選択がなされた

 2015年5月11日は、オーケストラの新時代を告げる日になる、そのはずだった。サー・サイモン・ラトルが2018年以降の契約を更新しない、と発表したそのときから始まった「次は誰が?」という世界中からの質問に答えが出る、ベルリン・フィル楽員たちによる次期首席指揮者を選び出す選挙が行われると発表されたそのときから。

 しかしすでにご存知のとおりその日、その「とき」は訪れなかった。ローマ教皇を選出するカタコンベにもなぞらえられた、11時間にも及ぶ長い議論を経てもなお、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は一人の指揮者を選び出すには至らなかったのだ。その後オーケストラは「一年以内に再度選挙を行い、その上で次期首席指揮者を決定する」と発表、今度はいつとも定まらない「その日」を世界の音楽ファンは待ち望むこととなる。

 その時から問いは「次は誰なのか」ではなく、「有力な候補は誰で、しかし何故選ばれなかったのか」、また「そもそも候補者は誰だったのか」などの詮索、推測へと移った。いつか訪れるだろう正式発表の日までは、また定期公演のラインナップを眺めては推測を続けるしかない……ファンはまた、問いを抱えて悶々としてその日を待つのか、そう思うようになっていた、はずだった。

 しかし、である。最初の会議から一月と少し過ぎた6月22日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は「記者会見を行う」と世界に向けて発表した。そしてそこで発表された次期首席指揮者に選ばれたマエストロの名は有力視されたクリスティアン・ティーレマンでもアンドリス・ネルソンスでもなかった、そこで発表された次期首席指揮者はキリル・ペトレンコ。1972年生まれの、現在はバイエルン国立歌劇場のシェフを務めるロシア人指揮者だ。

 これは少なくない日本の音楽ファンには意外な人選だった、とまずは言わなければなるまい。なにせ彼は日本ではまだ一度も指揮をしていない、レコーディングもまだ10枚もない上に選曲だってどちらかと言えば知られていない作品がメイン、そして主な活躍の舞台はオペラだ。そんな彼の名をいきなり聞かされても、バイエルン国立歌劇場や、2013年から「ニーベルングの指環」を任されたバイロイト音楽祭での活躍を知らなければ「Petrenko,Who?」と思うことだろう。同じペトレンコという名の指揮者でも、日本のオーケストラファンにはむしろ、ショスタコーヴィチの交響曲全集の録音や今年1月のロイヤル・リヴァプール・フィルとの来日公演で辻井伸行と共演したのも記憶に新しいヴァシリー・ペトレンコのほうが知られていても何もおかしいことはない。ちなみに、彼らは血縁関係ではない。

 ペトレンコの選出が意外に思われたのにはもうひとつ理由がある。ベルリン・フィルの選挙直前の定期演奏会はあたかも「オーディション」であるかのように扱われるものだ。前回、サイモン・ラトルとダニエル・バレンボイムの出演が大いに注目されたことを覚えているファンも少なくないだろう。その時期に定期演奏会に客演したマエストロたちの中から次の首席指揮者は選ばれるものだ、そう考えていたファンは、その直前の演奏会をキャンセルしたキリル・ペトレンコが候補から外れたように感じていたのだ。※

(※余談とはなるけれど、このときペトレンコの代演をしたダニエル・ハーディングが、同時期に発表されそうでしかし市の都合によってしばらく発表されなかったパリ管弦楽団の次期シェフに就任したのは、なかなか味のあるめぐり合わせだった。日本とも縁の深い彼の、パリでの活躍も期待したい。)

 しかしオーケストラは、その不利に思われる状況でも彼を選んだ。その経緯からわかるのは「キリル・ペトレンコはそれほどまでに望まれて、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者になる」、ということ。5月に決定を先送りした際に巷間言われたような「誰か一人には決めかねる」といった事情からの消極的な判断ではない、と見るべきなのだ。

 彼は現時点ではコンサートレパートリーが抜群に広いわけでもないし、またかつてのように「レコード会社の推薦が」などと真面目に考えるのも不毛だ、なにせ彼のレコードは、政治的な力など期待できない小さいレーベルからのものなのだから。また、たとえばラトルのように「地方のオーケストラを世界レヴェルに育て上げた力量が評価された」わけでもない、彼のこれまでのキャリアで務めたポストはオペラハウスのものだけなのだ。と見てきたように、これまでに私たちがどこかで聞き知っているような理由ではあてはまらない。であれば「なぜ彼を」という問いに対する答はもうシンプルに考えよう、「オーケストラが彼の才能に惚れ込んだ」のだと。その選択の成否はこれからその音楽で示されるのだから、大いに期待しつつもしばし待つことにしたい。彼の就任まではあと3年もの時間があるのだから。

 また、別の視点から捉えてみよう。ベルリン・フィルはいまやひとつの「世界最高のオーケストラ」であるだけではない、自らのコンサートをネットで配信し、またCDやDVDをリリースもするメディアでもあるのだ。であればこうは考えられないだろうか、「これまでペトレンコは知られていないかもしれない。しかしその演奏を彼らが自ら世界に示し、その中で評価を獲得することも可能だ。いやむしろそこまでの成果を、ペトレンコとの演奏活動を通じて自ら勝ち取ろう」と彼らが判断した、と。愚考するに、ベルリン・フィルが今回の議論の中で考え目指すと決めた「21世紀のオーケストラ」とは演奏だけに限定されない、多面的に自ら発信する存在なのだ。思えばカラヤンの頃から先進的なメディア展開を試みてきたベルリン・フィルが、アバドそしてラトル時代に培ったベースを元にさらなる飛躍を試みようとしている。この首席指揮者選択から、ベルリン・フィルのそんな貪欲なまでの意志を強く感じた次第である。

 なお、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、定期演奏会などを配信するデジタル・コンサートホールにおいて、8月末までキリル・ペトレンコとの定期演奏会(2009年、2012年)を無料配信している(視聴には無料の会員登録が必要)。彼の就任まではまだ時間がある今のうちに、彼らの演奏をご自身で聴いて観て、それぞれに彼らの判断に思いを馳せてみては如何だろう。

 これは両公演を視聴した上での個人的な感想だが、2012年のスクリャービン「法悦の詩」はかなり控えめに言っても圧倒的な演奏だ。信頼できる指揮者を迎えてベルリン・フィルがその持てる力をすべて解き放ったときにはこういう音がするのだ、と驚きをもって申し上げる他ない。一度の来日もない時点での予断とはなるけれどあえて断言してしまおう、「キリル・ペトレンコとともに新時代を迎えるベルリン・フィルの前途は明るい」と。

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