ナンセンス・コメディ劇団トリコロール・ケーキの次なる一手は? 新作公演『誰がいつ泣くの』
劇団トリコロールケーキが新作公演『誰がいつ泣くの』を9月22日(木)より渋谷の宮益坂十間スタジオで上演する(同月25日まで)。
前々回『甘い匂い』というタイトルの公演をブレス・チャベス事業部と打ったせいでもあろう。トリコロールケーキという劇団名からは、なにやら甘き香りが漂ってくる。しかし“甘い”のはそう思ってしまう安易さだけであって、実際、彼らの演劇自体は何も甘くはない。それは例えば、チョコレートケーキと名乗る社会派の劇団の芝居がけっして甘い内容ではないのと同様に、である。だからといって、トリコロールケーキが社会派の劇団だと言いたいのではない。ならば、彼らは何派の劇団なのか。「自由、平等、博愛」の精神に基づくフランスの三色旗(トリコロール)に因んで、ジロンド派とかジャコバン派というわけでも、おそらくなさそうだ。
ぶっちゃけ、トリコロールケーキは、コメディ派の劇団である。というか、ここに“派”は要らないだろう。素直にコメディ劇団である。ただ、コメディ劇団といっても、色々なタイプがある。彼らはナンセンス派である。というか、ここにも“派”は要るまい。ナンセンス・コメディの劇団である。彼らは自分たちのことを「現在の若手演劇界において絶滅寸前とも言われるナンセンス・コメディを軸に、くだらないのに深く、深そうでくだらない、演劇の枠にはまらない舞台作品を発表し続けている新進気鋭の劇団です」と述べている。
「絶滅寸前」という言い方には、演劇界に対する批評が感じられる。つまり、昨今の若手演劇界は社会性のあるもの、人間や人生の真理に迫るもの、あるいは美学的な意義深さを反映した、概ね真面目なものがもてはやされている。よしんば喜劇であっても観る者に生きる希望をもたらす笑いが有難がられている。そして愚にもつかないナンセンス・コメディなどを志向する表現者は、専らお笑いのフィールドに行ってしまう。おそらくトリコロールケーキには「演劇界はそれでいいのか」と言いたい問題意識があるのだ。
お笑いは「人を笑わせる」「ウケる」ことを目的としてネタがある。突き詰めれば、そこが不純であるとも言える。しかし、演劇にはそのような目的にさえ拘束されない純粋さや自由さがある。トリコロールケーキの演劇を観ていると、必ずしも全てが現象としての笑いに直結するわけではないナンセンスの深遠が拡がっているように見える。彼らがナンセンス演劇にこだわる理由はそこにあるのではないか。
そのような演劇が絶滅危惧種と化しているのならば、自ら率先してその復興を目指したいと考えているのかもしれない。たとえば「テニスコート」や「ナカゴー」といったその種の傾向を多少なりとも有する劇団との交流を積極的に進めつつ、或る種の党派的な勢力を興したいと考えているフシが見受けられなくもない。その意味では、やはり彼らをナンセンス・コメディ“派”の劇団、と呼んでも差し支えないだろう。
左:今田健太郎 右:鳥原弓里江
4月12日~17日に千本桜ホールで上演された彼らの前回公演『モグララ』においても、トリコロールケーキは“派”への愛着を見せていた。というのも、主人公である一人の少女が願う“奇跡”をめぐって、周囲の者たちは、この世からEDをなくす“奇跡”へと導きたい「ED根絶派」と、この世から戦争をなくす“奇跡”へと導きたい「戦争撲滅派」に分かれ、両派が激しく対立する物語だったのである。
もちろん、この両派の対立の成り立ち自体が奇妙であることは言うまでもない。他人の願う、“奇跡”という可能性の極めて低い現象を自分たちの都合に近づけるために、なぜ、わざわざ二つの派に分かれてまで激しく争う必要があるのか。しかも、その争い方が「ED、ED、ED!」「戦争、戦争、戦争!」と騒がしく連呼するというおかしなもの。それを人ん家でやるものだから、住人に叱られしまう。最終的に対立の決着をつけるために、非常に曖昧模糊としたルールを伴う変なゲームをヤマハ音楽教室で実施するという展開に至って、カフカ風味の濃厚な不条理感が客席全体を包み込んでいたことは明らかである。こうして思い返すと、トリコロールケーキは人々がつい形成してしまう“派”の虚しさを描きたかったようにも思え、その意味では彼らをナンセンス・コメディ“派”の劇団などと呼んでしまうのは早計に過ぎるかもしれないと考え直した。
それにしても『モグララ』の目も眩むようなナンセンスの洪水ぶりには目を見張らされた。主人公の少女ハルカが大根の栽培を通じて「タンクローリーに轢かれてペチャンコになった瀕死の姉が回復する」奇跡を懸命に願うのに、それとは全く無関係に、当の姉は事も無げに元気に戻ってくる。ハルカの友人・佳代とハルカの友情が続くことを気遣う教師は、かつて教え子のハルカを盗撮して逮捕されたことのある問題教師(教育委員会が腐敗していたおかげで復職できた)でありながら、佳代に向かって「友情と性欲をはき違えるな!」などと殊更にいい声で変な説教をしている……そのような理屈の通らないエピソードを列挙していたらキリがないのだが、これらすべてに対して上演中に客席の爆笑が連続して起きていたかと思えば、必ずしもそうはならない。ボケに対するツッコミが皆無だからだ。笑いはナンセンスのボケに対して的確なツッコミを差し挟むことで成立するものである。テレビだったら「笑い声」のSEなどを笑わせどころのきっかけにすることもあろう。トリコロールケーキにはそれがない。しかしそこがナンセンス演劇の、「笑い」を超越した妙味なのである。笑い声を発さない面白さというものもあるのだ。
ただし、こうしたスタイルには、げんこつ団や劇団猫ニャーといった先達の影響が見出せる。そのうえで、トリコロールケーキならではの個性は何であったかといえば、それはSE(効果音)および音楽の使い方の見事さ……というか、見事な間抜けさであった。SEにおいて、例えば衝撃的なことが判明したりすると雷の音が鳴るのが、何とも言えないチープさが漲って微笑ましい。音楽も、“奇跡”が起きるときに「フワ~フワ~」と流れるシンセによる間伸び感あるメロディが脱力的だ。しかし『モグララ』において圧倒的に印象深かったのが、「コーヒーブレイク」の音楽であった。この芝居の登場人物たちは事あるごとに「コーヒーブレイク」をとる。すると、どこからともなく「コーヒーブレイク!」という女性の掛け声が発せられ、強烈にノリノリなリズムの音楽が大音量で流れるのだ。それは思いのほか長く、登場人物たちの声は爆音にかき消されて聴こえず、登場人物も観客も微妙な無為の時間を付き合わなければならない。その様子が間抜け感に満ち溢れているのだ。だが、それは、劇の終盤において、ハルカの友人・佳代の転校先ブラジルあたりから聴こえてくる音楽であることが判明する。佳代の転校とハルカとの友情を両立させるために、モグラたちが日本と地球の真裏のブラジルの間を穴を掘って繋いでくれた結果だ。それもまた荒唐無稽な話ではあるが、リオ五輪の閉会式ではその穴を通ってスーパーマリオと化した安部総理がリオまで移動したではないか。そのあと皆で踊って「今度は東京で会いましょう」となったわけだが、『モグララ』も「コーヒーブレイク」の音楽で皆で踊って閉幕となるのであった。筆者もトリコロールケーキのサイトから当該音楽ファイルをダウンロードし、何度もリピートしては一人で踊っているほどである。ちなみに、この劇団の音楽は、脚本・演出を担当し、盗撮エロ教師役で出演もしている今田健太郎がすべて創っている。彼の音楽の才能は、なかなかのものである。
トリコロールケーキがもたらすナンセンス演劇は、そうしたサウンドや音楽も一体となって、観客をトランス状態に導く効能がある。そこにおいては、ツッコミによって生まれる笑いなど却ってリズムの邪魔ですらある。観客はひたすらにナンセンスの深みにハマって、空虚に酔い痴れる。彼らがそうした新しいスタイルのナンセンス演劇を追求しているのだとすれば、画期的なことだ。
そうこうするうちに次回作の開幕が迫ってきた。それがどんな内容の芝居になるのか、我々に与えられているヒントは次のような<イメージあらすじ>だけである。
白く美しいカモシカのような脚。「触りたいんでしょう?」 いたずらっぽく笑って、女はグラスを傾ける。 カモシカのそれのように潤む、その唇。 刹那、わたしは女に口づけた。 グラスが滑り落ち、床で弾け、絨毯を濡らす。「こんなこと、許されない……」 女の落とす涙が、絨毯の染みを広げる。 その染みが、翌日、カモシカのような形になる。
これを提示されて、我々は何をどう考えたらよいのか。だが、トリコロールケーキは言うかもしれない、「考えるな、感じろ」と。いや、ひょっとすると、こんなことさえ言いかねない、「笑うな、感じろ」と。
トリコロールケーキ 第8回公演『誰がいつ泣くの』
■日程:2016年9月22日(木)~25日(日)
■会場:宮益坂十間スタジオ(渋谷)
(東京都渋谷区渋谷 1-10-2 志水ビル5F)
■企画・総合プロデュース:鳥原弓里江(トリコロールケーキ)
■脚本・演出・音楽:今田健太郎(トリコロールケーキ)
■出演:鳥原弓里江 今田健太郎 南綾希子 香西佳耶(以上、トリコロールケーキ)、
狗丸トモヒロ、岩元由有子、川口雅子、田原靖子(カムカムミニキーナ)、土田有未
■公式サイト:http://www.toricoro.com/