tacica×有泉智子(雑誌・MUSICA編集長) バンドの知られざる核心に迫る
tacica(写真右・猪狩翔一、写真左・小西悠太)
今年、結成10周年を迎えたtacica。
tacicaというバンドが生み出す音楽ーーその詞、音は、2015年現在のシーンにおいてもっともっと多くの人間に触れてほしい、触れるべきものである。これまでメディアへの露出も多くなく、ひたすら自らの音楽と向き合って生み出した楽曲を世に出すという、根本の部分を徹底してきたバンド。露出の少なさゆえに「なんとなく」知っているくらい、という方も多いかもしれない。SPICEでは、今まで彼らの音楽に触れてこなかった方はもちろん、tacicaのファンにとっても「tacicaとはどういうバンドなのか」をより深く知っていただくため、複数回にわたってインタビュー取材を企画、バンドのこれまで語られてこなかったエピソードや秘めた思いなどをとことん語ってもらった。
インタビュアーはデビュー前からtacicaを追い続け、親交も深い、雑誌『MUSICA』編集長の有泉智子氏。
彼らが何を思い、どのように活動してきたのか、そして「現在」「これから」のtacicaはどこへ向かうのか。徹底的に訊く。
ーー今回から3回にわたってtacicaの「これまで」を振り返りつつ、最終的に「今」と「未来」にまで話を展開させられればいいなと思っているんですが。まず最初に、今年2015年はtacicaを結成して10周年のアニバーサリーに当たります。4月には中野サンプラザで記念ライヴ『鳥兎』も開催したけれど、自分達ではこの10年で培ったtacicaというバンドは、どんなバンドだと思いますか?
猪狩翔一(Vo,G 以下、猪狩):本当に音楽しかやってこなかったし、やっていないバンドだなぁって思いますね。
小西悠太(Ba 以下、小西):そうだよね。他のバンドがみんなメディアに出たりするのと制作を並行してやってる中で、俺らは割と制作とライヴだけに集中するっていう環境で活動を続けてきていて。
猪狩:本当にそれしかやってない(笑)。それに関しては、恵まれた環境にいさせてもらってるなぁと思うんですけど。
ーー確かに恵まれているとも言えるけど、でも、それは自分達が明確に選択してきた道でもありますよね。私が初めてtacicaの記事を書いたのは、MUSICAの2008年5月号、新人特集の時だったんですけど。その前に『Human Orchestra』と『黄色いカラス』をタワーレコードで買って聴いてて、どうしてもこのバンドを取り上げたいなと思って。それでレーベルを調べて連絡して、担当の方に会いに行ったんだけど。で、それ以降、作品が出る度にーーなんなら作品が出ない時でもーー何度となくインタビューのオファーをし続けてきたんだけど、このバンドはあんまりそれに応えてくれなくて(苦笑)。
猪狩&小西:はい(笑)。
有泉智子
ーーもちろん、バンドとして取材だったりプロモーションをやろうって能動的に思えるタイミングでは、インタビューに応えてもらってMUSICAにも出てもらってるんだけど。ただ、基本的には、純粋に自分達が作った音楽だけをもって伝えていきたいというスタンスで活動し続けていますよね。
猪狩:そうですね。『音楽だけをやりたい』というのは、自分から割と強く主張してきたことで。ただ、実際にそういう形で活動を続けることができているのは、周りのスタッフの方や環境に恵まれているからこそだなと思います。
ーーそれこそ最初の始まりから、そういう形でやってきたバンドだもんね。tacicaの最初のミニアルバム『Human Orchestra』はタワーレコードの7店舗限定での販売から全店販売になり、最終的に5万枚近いセールスという、今はもちろん当時から考えても新人としては異例のセールスを記録したわけですけど。でも、このアルバムもそもそも一番最初は、札幌の「音楽処」というCDショップで500枚限定で売り始めたのがスタートでしたよね。
猪狩:そうですね。音楽処と、あとライヴ会場限定ですね。『アルキタ』っていう北海道のアルバイト情報誌があったんですけど、当時ちょうど『アルキタ』とOFFICE CUEが組んで、バイトしながら音楽を頑張ってるバンドマンを応援する『オトキタ』っていう企画が始まって。それに音楽処も関わってて、音楽処に縁のある人達が10バンドくらい集まってコンピ出したりライヴやったりしたんですよね。で、俺らは全然縁があるとかではなかったんだけど、『Human Orchestra』を音楽処に持っていった時に『オトキタに出てよ』って言ってもらって、結果「HERO」がそのコンピに収録されたんです。だから、それがきっかけとなって500枚の売れ行きに拍車がかかったところもあって………要は、北海道のテレビで『オトキタ』のCMが流れたりしたから。
ーーあ、なるほど。
猪狩:「HERO」が流れてるところで、リアルに俺がバイト先のコーヒー屋でコーヒー出してる映像がCMに使われたりして(笑)。
ーーえ! そのCM、もの凄く観たいんだけど!!! というか、最初しばらくはアーティスト写真もなくてロゴ(地球の上に鹿がいて、鳥が3羽飛んでいる絵柄)しか出してなかったのに、そもそもは顔出ししてたんだ?(笑)
猪狩:オトキタの時は全然出てましたね(笑)。……『Human Orchestra』とか『黄色いカラス』が出た頃って、まだ3人とも札幌にいて、それぞれ日常生活があって。俺らはライヴ誘われると断れなくて月に8〜10本くらいやってたんだけどーー
ーーそれはBessie Hallとかスピリチュアルラウンジみたいな、札幌のライヴハウスから誘われてってこと?
猪狩:そう、あと(Sound Lab)moleとCOLONYによく出てて。そういうハコのイベントだったり、東京からこんなバンド来るから出て欲しいってオファーだったり。でも、自分達の生活もあるから、バイトやってリハやって、戻ってバイトやって本番やって、またバイトに戻るみたいな感じで。しかも全然も売れなくて、お客さんひとりの時もあったくらいで。そういう日々の中で、東京でちょっとずつCDが売れてるっていう話が出てきて………………なんか、自分達がいる場所と東京とかの熱が完全に分かれちゃってる感じで。そこに追いつくのが難しい状況が続いてましたね。
小西:『Humen Orchestra』が全国流通に切り替わって少しした頃、ツアーをやったんですよ。その時は予約のメールを自分達で管理してたんですけど、札幌だと2人とかなのに、東京だといきなり30人くらい予約が来たりして。広がっていってるんだなって凄く嬉しい反面、なんかこう、なぜ札幌では全然集まらないのかな?みたいなーー
猪狩:困惑だよね(笑)。
小西:うん。なんか不思議な感じだった。
猪狩:小西はバンド経験者だったから、俺よりも歯がゆさがあったんだろうと思う。
小西:歯痒さっていうか…………まぁでもそうだね、確かに歯痒さはあったのかもしれない。だから自分達でフライヤー作ったりホームページ作ったり、とにかくできることをひとつずつやっていった感じだったと思います。
「高校の時に聴いた猪狩の歌声がずっと忘れられなかった」ーーtacica結成秘話
ーーそもそもtacicaというバンドは、小西くんが猪狩くんを誘って結成されたバンドなんですよね?
小西:そうですね。地元が一緒で、高校の学園祭とか卒業式の後のパーティーみたいなので一緒にバンドやったんですけど、その時に聴いた猪狩の声をずっと覚えてて。その後、俺は東京に出て音楽の専門学校に行って、バンドやってたんですけど………結局、東京に来ていろんな人に会ったけど、猪狩の歌声よりも惹かれる歌を歌う人がいなかったんですよね。それで、(東京で組んでた)バンドが解散するってなった時にいろいろ考えた結果、猪狩に電話して『バンドやろう』って言って。それで『いいよ』って言ってもらって、俺はすぐに東京から札幌に戻ったんですけど。
ーー猪狩くんは、小西くんから電話が来る前もバンドとか音楽やったりはしてたんですか?
猪狩:してなかったんですよね。その時期の俺は、めっちゃ腐ってて(笑)。たぶんその時が自分史上一番腐ってる時期だったんですよ。いろんなことが上手く行かない……建築の学校に行って就職したんだけど、全然ダメで1日で辞めて。
ーーそれは早過ぎ(笑)。むしろその決断力と行動力に驚きます(笑)。
猪狩:オリエンテーションでもう耐えられなくなっちゃったんです(笑)。で、その会社に就職するために札幌の外れに住んでたんだけど、とりあえず(さっぽろ)テレビ塔が見えるところに住まないとダメだと思って引っ越して。
ーー要は「街中に戻らないとダメだ」と。それって、会社辞めた話も含めて、「俺はこんなところにいるはずじゃない」とか「音楽がやりたいのに何をやってるんだ!」みたいな想いがあったが故なの?
猪狩:音楽がやりたかったか?と言われると、実際曲も作ったことなかったし詞も書いたこともなかったし、別に明確な想いがあったわけではないんだけど……ただ、確かに『俺はこんなもんじゃない』みたいなことは思ってたのかも。そういう、よくあるタイプの人だったのかもしれない(笑)。でも、小西から電話来るまでは目的も特になかったから、ほんとどんどん下っていく一方で……なんかね、目的のない人間が都会にいる感じって、かなりヤバいんですよね(笑)。
ーーまぁそうだよね。
猪狩:だから、小西から電話もらった時は、とにかくやるべきことができた気がして凄く嬉しかった。もしかしたら、それが音楽じゃなくて、たとえば『店出したいんだけど手伝って欲しい』でもよかったのかもしれない。とにかく誘われたことを一生懸命やるってことを断る理由がなかったですね。
小西:でも、俺が電話した時、ギターは弾いてるって言ってたよ?
猪狩:………でも正直、弾けるっていうレベルじゃなかったけどね。『Cは弾けるけど、Fは弾けないよ』みたいな、そんなレベル(笑)。
小西:(苦笑)
猪狩:なんか、専門学校の時にたまたま行った楽器屋でめちゃくちゃカッコいいギターを見つけて、頑張ってバイトしてそれを買ったんですよ。今も使ってる黄色のSG(ギブソンのエレキギターの一種)なんですけど。
ーーあ、それは本当にいいギターを買ったんですね。
猪狩:そうなんです。だからたぶん、小西に言ったのは、ギター弾けるよっていうよりも『高いギター持ってるよ』ってことだったんだと思う(笑)。
小西:(笑)
ーーでも、もしかしたら、そこでギターの話を出したのは、猪狩くんなりの小西くんへのアピールだったのかもしれないね。だって「高校卒業した後、歌もギターも何もやってなくて腐ってます」というよりは、「ギターも持ってるし弾いてるよ」というほうがバンド結成に繋がる感じするもんね。
猪狩:そうかもしんないですね(笑)
tacicaの物語が大きく動き出した始まりのアルバム『Human Orchestra』
ーーそうやってtacicaを結成した後、初めてのミニアルバムであり、tacicaを世に知らしめることになった『Human Orchestra』を作ります。あのアルバムは今聴いても名盤だと思うし、実際1曲目に収録されていた「HERO」は今に至るまでライブでも大切な位置で披露される、このバンドにとって重要な1曲で在り続けてると思うんだけど。『Human Orchestra』を作った時は、どういうことを考えながら作品を作った感じだったんですか?
猪狩:でも『Human Orchestra』は何も考えず、とにかくライヴがやりたいが故の熱量で作ったアルバムなんですよね。曲がないとライヴができないから、とりあえずライヴやるための5曲を作ろうっていう感じで作ってて。だから、ぶっちゃけ、歌詞は録音するまでなかったくらいで。今考えると凄いなと思うんだけど、ライヴの度に違うこと歌ってたんですよ。
ーーなるほど(笑)。
猪狩:だから、いざレコーディングするってなった時に大変だったは大変だったんですけど(笑)。特に「オオカミと月と深い霧」の歌詞は大変で、何度も何度も書き直しながら仕上げたんだけど……でも、一番最初にあれだけ根を詰めてあの歌詞を書いたっていう経験が、今でも自分の中で歌詞を書く時の妥協できない基準にはなってると思います。
ーーその時に音楽家、表現者としての自分に初めて向き合った感覚だったんですか?
猪狩:うーん………音楽家、表現者としてどうっていうことを考えてたかどうかはわからないけど、でも、それまでとは明らかに違う責任感みたいなものが生まれたっていうか………自分が作ってるものが音楽というひとつの形になるってこと、音楽として後々まで残っていくものを作ってるんだってことになった時に、凄い妥協できなくなったんだと思う。ライヴをすることとレコーディングして作品を残すってことは、完全に別なわけではないけど、でも身体の使う部分がまったく違うなと思った。
ーーライヴは、衝動性や偶発性も含めてその場のダイナミクスが強く働いていくけど、レコーディング作品というのは、もうちょっと自分達の思想や意志を丁寧に残していく作業でもありますしね。それに、ライヴではできない表現や音の重なりもレコーディングでは入れられるしね。
猪狩:そうですね。だから『Human Orchestra』を作った頃からレコーディングっていうものに対する興味も出てきたし。それこそ、ライヴやるために曲を作ってたところから、そうじゃない作り方というか、曲に対する意識っていうのは、結構そのレコーディングをしながら変わっていった感じはあるのかもしれない。
ーー小西くんは『Human Orchestra』のレコーディングはどうでしたか?
小西:作る過程が凄く面白かったなぁって記憶があって。結成して半年くらいは猪狩とふたりでやってて、その後、ドラムの俊くん(前Dr:坂井俊彦)が入ってスタジオで合わせて5曲作ることになったんですけど。曲ができるペースも凄く早かったし、アイディアもいろいろ出てきて、これは凄くいい作品になっていくんじゃないかっていう手応えを持ちながら作っていけましたね。
ーーちなみに当時はどういうふうに曲を作ってたの?
猪狩:ほんのちょっとしたアイディアを持っていって、それを3人でスタジオで膨らませていく感じで作ってましたね。毎回スタジオで録音したのを持って帰って、自然に歌ってる中で出てきてるメロディと言葉の感じが凄く密接だったり必然的だったりする部分を抜粋して、そこを中心に広げてみたり、あるいは3人のアンサンブルのいい部分を繋ぎ合わせたりっていう自宅作業みたいなのもあったけど、でも基本的には3人で大きい音を出してる中で生まれてくるものを大事にしてたーーというか、そこに楽しみを凄く感じていた時期だったから。だからほぼ全部スタジオの中からできてましたね。
小西:でも、俺は猪狩の歌詞を見てビックリしましたけどね。それまで詞を書いたことないって言ってたはずなのに、完成度が凄かったから。
ーーそうだよね。それこそさっき話に出た「オオカミと月と深い霧」の物語性を持ちながら「生きること」に言及していく歌詞は秀逸だし。<擦り切れたまま残る駄目な日も 全て在って僕だって覚える/灯る命火 爪のその先に宿る意思となら眼は開かれて/また歓びと深い霧の向こうで“生きたい”と小さく夢を見る>っていう言葉は、今でもグッと来る深い言葉だなと思いますよね。
小西:うん、そうなんですよね。
ーーでもさ、今日の話を聞いてると、小西くんが猪狩くんとバンドを組もうと思った確信って、本当に高校の時に聴いた歌声だけだったわけだよね。作詞も作曲もしたことがなければ、特に音楽活動をしていたわけでもない猪狩くんに白羽の矢を立てて、実際こうやってバンドとして成功するっていうのは凄いことだなと思うんだけど。結果として猪狩くんがこんなにもメロディと言葉を生み出せる人だったっていうのは、小西くんにとっては「きっとできるだろう」という予感があったのか、それとも完全にラッキーだったのか、その辺はどうだったんでしょうね?
小西:いや、めっちゃラッキーでしたね(笑)。
猪狩:というか、誘われた時は、俺は完全に曲は小西が書くもんだと思ってましたもん。
小西:はははははははははは。
ーー仮に猪狩くんが書けなかったら俺が書いてやるぞっていう想いはあったの?
小西:まぁ曲に関しては多少はあったんですけど、歌詞は無理だなと思ってて………でも、猪狩がどっちも書けるってことがわかったんで、じゃあそこはもうお願いしよう、と(笑)。
猪狩:その小西の末っ子感に、俺は負けた感じがするよ(笑)。
ーーふふふふふ。そういう意味でも、お互いにいい相棒を見つけましたよね。
猪狩&小西:(笑)
猪狩:でも最初に曲を作り始めた時は、『これでいいのか?』感が凄かったですけどね。音楽はめちゃくちゃ聴いてたけど、でも本当に自分が作ってる曲がいいのか/悪いのかっていうのは全然わかんなかったし、自信もなかったから。だけど、だんだん『いい』って言ってくれる人が出てきたり、CDが全国で売れていったりする中で、本当に徐々に徐々に自覚とか自信みたいなものが生まれていった感じだった。だからとにかく、『Human Orchestra』が広がっていった時は、本当の始まりはここからなんだなと思いましたね。
インタビュー=有泉智子(MUSICA) 撮影=菊池貴裕