レオナール・フジタがもつ「情」と「熱」を感じる DIC川村記念美術館『レオナール・フジタとモデルたち』

レポート
アート
2016.10.29

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DIC川村記念美術館(千葉県・佐倉市)では、9月17日から2017年1月15日まで『レオナール・フジタとモデルたち』が開催中だ。本展は、約90点の絵画とモデルに関連する書簡や写真から、レオナール・フジタ(藤田嗣治1886-1968)とフジタの作品でモデルをつとめた人々の交流を読み解いていく展示となっている。

DIC川村記念美術館

DIC川村記念美術館

《アンナ・ド・ノアイユの肖像》 1926年 油彩、カンヴァス DIC川村記念美術館 展覧会ポスターデザイン: 川添英昭

《アンナ・ド・ノアイユの肖像》 1926年 油彩、カンヴァス DIC川村記念美術館 展覧会ポスターデザイン: 川添英昭

 

フジタの代名詞「乳白色の裸婦」

まずフジタ作品で驚かされたのは、裸婦の陶器のような肌だ。やや暗い照明の展示室で観ると、まるでスッと浮かび上がるほど白くなめらかに見える。

フジタは浮世絵を参考に、墨色の線描で裸婦や猫を描く「乳白色の絵肌」を編み出した。中でも、《眠れる女》(1931)は、薄く下地が施された「乳白色の絵肌」の裸婦と、墨絵のような黒い背景、そして人物と背景を隔てる細い輪郭線の三つが見事に調和しており印象深い作品となっている。モデルとなった「マドレーヌ」はフジタの4番目の結婚相手で、この作品完成後にはフジタと中南米の旅行にも連れ添った人物だという。

筆者は裸婦像といえば、印象派の巨匠ピエール・オーギュスト・ルノワールが描いた《浴女たち(ニンフ)》(1918-1919)のような、ふくよかな体つきの裸婦に、眩しい光が差し込む"楽園的"な作品をイメージしていた。しかし、フジタの《眠れる女》は細身の女性と猫を奥行きのない黒一色で描いた非常にシンプルな作品に思える。またこの絵を観ると、すやすやと恋人の横で眠る女性の日常を覗いてしまったようで、思わずドキリとさせられる。

 

フジタとキキ 「描く/描かれる」の関係を超えて

一方で、同じく横たわる裸婦を鉛筆で描いた《裸婦 キキ・ド・モンパルナス》(1929)では、身体の描き方の違いを感じた。ゆるやかな体つきでマドレーヌを描いた《眠れる女》に対し、《裸婦 キキ・ド・モンパルナス》でモデルを務めたキキには、胸・お腹・足に付けられた陰影で筋肉がうっすらと浮かぶ。また、彼女のポーズも両腕を頭に組みながら、どこか挑戦的とも感じられる強い視線をこちらに投げかけている。

フジタやシュルレアリスムの写真家マン・レイからもモデルとして愛されたキキ。フジタと彼女の関係をDIC川村記念美術館の広報・海谷氏は、彼らはお互いに支え合っていた「盟友」だったと話す。キキは、フジタのサロン出世作《ジュイ布のある裸婦》(1922)をはじめ、数々の作品のモデルとしてフジタの成功を支えていった。その一方で、彼女が病気で仕事が出来ない時にはフジタが診療代を工面するために、自らモデルのアルバイトをしたという。

モデル以外にも歌手、女優、画家として個展を開くなど、多彩な才能を見せたキキだったが、酒とドラッグに溺れ、51歳でこの世を去った。そんな彼女に花を手向けるフジタの姿が、掲載された当時の記事もこの展覧会で見ることができる。他にも、《ジャン・ロスタンの肖像》(1955)の近くには、彼女とフジタとの写真や、彼女が肖像画の完成を喜び、早く作品を観たいとフジタに送った書簡も展示されている。フジタとキキは、絵を描く/描かれるの関係を超えた、より親密な関係を築いてったのであろう。

 

フジタが挑んだ群像画と戦争画

そして、もう一つ驚いたことは、フジタと戦争との深い関わりだ。2年に及ぶ中南米旅行を終えたフジタは、1933年に日本に帰国。1937年の日中戦争から戦争画の制作を始め、1941年の第二次世界大戦中も引き続き戦争画を発表していく。戦争画は当初、「作戦記録画」とも呼ばれ、軍事作戦を歴史的な記録に残す意図で制作されていた。数多くの画家が手掛けた戦争画の中でも、フジタの作品は傑出している。その理由には、フジタのパリ集大成の作品《構図》(1928)と《争闘》(1928 )で見られる、群像表現が関係しているといわれている。

フジタは、神話や宗教、歴史などを描く大画面の構図に挑んでいき、ついには4枚合わせて12メートルに及ぶ大作《構図》と《争闘》を完成させた。《争闘》には、かつてフジタがマドレーヌやキキなどのミューズたちに施した乳白色の肌色の男性や女性たちが登場するが、皆筋肉隆々だ。まるで抗えない力に動かされて戦っているかのような男、女、動物の姿にただただ圧倒される。

また、《構図》は日本史の教科書で一度は観たことのある南蛮屏風から着想を得たという。日本とフランスの二つの国を行き来し、真新しいヨーロッパの文化に触れることで、母国日本での伝統文化にも改めて目を向けるようになったフジタだからこそ描けた作品といえよう。

これらの作品で結実したフジタの群像表現は、おびただしい数の日米の兵士が描かれた戦争画にも見てとれる。フジタはアジア各地の勝ち戦を主題にした《アッツ島玉砕》(1943)や日本戦局の厳しさを描いた《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945)に至るまで、次々と戦争画を発表していき、大きな評判を呼ぶ。

しかし、1945年の敗戦後にフジタは日本美術界から戦争責任を問われることになる。1950年には妻の君代を連れてフランスに戻り、その後フランス国籍を取得。洗礼を受けて名前を「レオナール・フジタ」へと改めた。そして、1968年にスイスの病院で永眠し、その生涯を終える。

戦争に翻弄された悲劇の画家ともいわれるフジタだが、その一方で彼は戦争画を描く意味を見出していたようだ。フジタはこの頃から、乳白色の裸婦像に見られるような奥行きのない平面的な描き方をやめ、戦争画をきっかけに新たに「遠くに広がる空間」の表現を試していったそうだ。彼が戦争という大きな時代の波にのまれなかったのは、自分が画家として今すべきことをそれだけ強く持っていたからではなかろうか。

 

「情」と「熱」をもった画家、フジタ

日本との決別を余儀なくされたフジタだが、本展では、日本にいる家族を想うフジタの姿も見ることができる。フジタが68歳の頃に描いた《青の自画像》(1954)には、父や17歳当時の妻の姿を描いた肖像画が背景に描かれている。画家を志したフジタに理解を示してくれた軍医の父や、夫と共に異国の地フランスに渡った妻への感謝が込められているようだ。そして、彼らの前に立つフジタの力強いまなざしからは、不本意な理由で日本を去ることになっても絵を描きつづけていく決心も読みとれる。乳白色の絵肌の裸婦に群像画、戦争画を経て、再びフランスに戻ったフジタは、宗教画や企業広告への素描提供、ランスの礼拝堂の壁画の装飾と、次々と新たなジャンルに挑戦していく。

並大抵ではないエネルギー、熱量で描き続けていったフジタ。一方、彼が作品に描いた人たちとは、画家とモデルの垣根を越えて、より親密な関係を築いていった「情」も感じられる。「情」と「熱」の両方をもった画家、フジタだからこそ彼の作品と彼の辿った一生は今も多くの人を魅了していくのだ。

 

文=かしまはるか

イベント情報
レオナール・フジタとモデルたち
会場:  DIC 川村記念美術館
会期:  2016年9月17日(土)~2017年1月15日(日)
開館時間:  午前9時30分から午後5時(最終入館は午後4時30分まで)
休館日: 月曜 (9/19、10/10、1/9は開館)、9/20(火)、10/11(火)、12/25(日)-1/2(月)、1/10(火)
 
「ふたつのフジタ展 相互割引」
府中市美術館(東京・府中)でも「生誕 130 年記念 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画」を2016 年 10 月 1 日(土)~12 月 11 日(日)まで開催。
それぞれの展覧会の半券を相手の館で提示すると、団体割引料金が適用。
※他の割引との併用は不可
 
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