演出家・あごうさとし、新作『リチャード三世』と[アトリエ劇研]について語る
あごうさとし『リチャード三世―ある王の身体―』宣伝ビジュアル。
「無人劇は“観客をどこかに誘導する”という劇場の力学が、露骨に見える手法なんです」
俳優がいない舞台をさまよいながら、映像や美術を手がかりに劇世界を体感する「無人劇」や、俳優たちの動きを原始的なカメラで投影して見せるパフォーマンスなど、実験的ながらも妙に引き込まれる舞台に挑み続ける演出家・あごうさとし。次回公演ではウィリアム・シェイクスピアの名作『リチャード三世』を、俳優が出る〈有人劇〉と、俳優が一切登場しない〈無人劇〉の両バージョンでお送りする。あごうに次回作の構想と、無人劇というスタイルに挑戦するその理由について。また今年の夏で閉館する劇場[アトリエ劇研]のディレクターとして、この劇場に対する思いと今後の動きについても語ってもらった。
あごうさとし。現在新劇場の開設を進めている倉庫の前にて。 [撮影]吉永美和子
■お客さんの所作を汲み取ることで、俳優に「王の身体」を移植しようと。
──『リチャード三世』を2つのバージョンで上演しようと思ったのは。
昨年上演した『Pure Nation』は、俳優たちがお互いの身体を交換したり、移植していくイメージの作品だったんです。たとえばAさんが「病気で骨格が歪んだので右足首に力が入りにくく、そのため右側にコケやすい」というのを説明して、周りの人はその動きを試すことで、身をもってその人の身体のクセを理解するという。そうすることでモーションを作ったり、身体をモチーフにしたコミュニケーションをはかる作品でした。
──あれは観ている方も同じ身体を試したくなるので、パフォーマー同士だけでなく観客も、そのコミュニケーションに自然と巻き込まれるのが印象に残りました。
ああいう形でコミュニケーションをすると「伝えられること」と「伝えられないこと」が、すごくシンプルな形で出てきますよね。伝わる所は非常に伝わる一方で、どうしてもそんな状態に自分の身体を持っていけないということも、当然わかってくる。それってすごく、コミュニケーションの原型が浮かんでくるようだなあと思いました。ただあの作品は、自分の病気などの非常に個人的な話が中心だったので、次は大きな問題意識として「王様の身体とはどういう身体か?」というのを考えてみようというのが、今回の作品です。
──一般市民とは違う身体がある、という根拠みたいなものがあったんですか?
王様のとらえ方として、まず民衆がたくさんいて、彼らのいろんな欲望や希望、あるいはネガティブなパワーなどを一身に引き受けて、それを打ち返す存在だと。そんな身体を『Pure Nation』と同じように「王様の身体を俳優たちに移植する」というアイディアで表現してみようと思いました。
あごうさとし『Pure Nation』 [撮影]井上嘉和
──しかもリチャード三世と言えば、背中が曲がって足が不自由という、異形のキャラクターですし。
王様というパブリックな存在だけど、大きな特徴のある身体を持つ個人でもある。その対比という形で『リチャード三世』というテキストが、最もドンピシャでした。今回何をするかというと、まず王様役の俳優が舞台に立ちます。そして目の前には観客の皆様が座っている。客席ではいろんな、ちょっとした所作が出てくるので、俳優たちはそれをその場で拾いながら演技をしていくという。
──つまり誰かお客様が頭をかいたりとか、咳き込んだりとかしたら……。
俳優もそれと同じ動きをしながら「さあ、俺たちの不満の冬は終わった」とか、台詞をしゃべるわけです。今風に言うと、インタラクティブっていうことになるんですかね?(笑)「民衆から負のエネルギーをすくうだけすくっていく異形の王」という役の方向性に向かうと同時に、お客さんたちの所作も汲み取って身体を構成していく。それが王様としての現れ、という形でやっています。
──役者さんは5人だけなんですね。
しかも男優3人は、基本的に全員リチャード三世。女優はリチャードが属するヨーク家と敵対するランカスター家の人たちと、リチャードを倒すリッチモンドを演じてもらいます。結局国を統合できず、そもそも身体的に統合されてなかった王だというのを、3人がリチャードを演じることで表現してみようと。あとリッチモンドの身体というのは「この歪みがしんどいので、まっすぐに戻したい」と思って戻した存在、という表現にしています。
──リチャードが起こした社会の歪みを矯正するというのを、そのまま彼の身体の歪みに重ね合わせるとか、狙いとしてはかなりわかりやすい。
めちゃくちゃわかりやすいですよね。作品構造としては極めてシンプルに、身体のシンプルな現象をとらえてやろうと思っています。
あごうさとし『複製技術の演劇-パサージュ2』 [撮影]あごうさとし
■バベルの塔以前の「純粋言語」を、音声体系でつなぐことができないか? と。
──そして無人劇バージョンの方は
こちらは「純粋言語」を具体的な形にする、一つ目の作品です。純粋言語というのは、バベルの塔が作られる前にあったといわれる言語で、世界中の人に伝わる言語、あるいは神とも通じてしまう言語と言われています。
──でも人間がバベルの塔を作ろうとしたことで、神様が怒って……。
人間の言語をバラバラにしたためにディスコミュニケーションが生まれ、争いが起こってみんなが散り散りになったという。そもそも神話なので、そんな言語はないようなものなんですけど、そのようなモノを音声体系で紡ぐことができないか? と考えました。具体的に何をするかと言うと『リチャード三世』の冒頭の台詞を、俳優が標準語と、青森と関西と沖縄のイントネーションで語った音声が出てきます。それらを聴きながら、それぞれの言葉で語られている、あるいはそれぞれの言葉のどこにも属さない音は何か? というのを探してみましょうというのが、一つのテーマです。
──シェイクスピアの台詞を複数の方言で聞くのは、それだけでも特殊な体験ですね。
昨日青森の言葉を録音したんですけど、普段言い慣れないイントネーションでしゃべると、身体ってちょっと変な感じに……僕の場合はムズムズするんです。普段使ってる関西弁だと何か楽で、標準語だと少しフォーマルになる。音によって自分の身体の何かが変わってくるというのは、多くの人にもあると思うんです。ただ無言劇で大事なのは、聴いていただくことよりも体感していただくこと。リチャードの「俺の身体は歪み……」という台詞が、聴いてる側もその時の音の質によって、ちょっとこんな(身体を歪める)風にされてしまうようなことが起こったらと。
──つまり音を介して、リチャード三世の身体が観客に移植されるのではないか、と?
そうそう。身体のリフレクションって言い方もできると思います。その空間におられるお客さんの身体が、音によってリフレクションして…あるいはお客さん同士ですね。隣の人が身体を歪め始めたら、やっぱり横にいる人にも何か起こるんじゃないかと。そういうことを俳優を介さない、無人の空間でできると面白いかなあと思っています。
あごうさとし『純粋言語を巡る物語-バベルの塔1』 [撮影]あごうさとし
──無人劇は舞台の写真だけ観ると、インスタレーションアートと大きな違いがないように見えますが、この2つの違いは何でしょう?
私の基本的な考えとしては、演劇と美術の差は、観客を絶対的に要求しているかいないかです。美術作品はお客さんに観られずに収蔵庫に入ったままでも、場合によっては値打ちが上がりますよね。でも無人劇の舞台美術を倉庫に放り込んでも、値打ちなんか一個も上がらない(笑)。人目に触れている時だけが作品として存在できて、しかも公演が終わったらバラされる。美術作品をバラしたら、損害賠償ものですよ。
──あと無人劇の一つのキーとしては、そこにいるはずだった俳優のアウラ(オーラ)を再現するという試みがありますよね。
そうですね。俳優がそこにいなかったとしても、テキストが要求している俳優の存在感……アウラそのものは劇場に立ちこめて、たとえば今回の場合だったらお客さんの身体に宿すことができると。ただ美術作品でも、ある種の鑑賞者の身体を想定した演劇的な作品はたくさんあると思いますし、逆に私が「これは美術作品です」と言い切ってしまったら、演劇ではなく美術作品になるのかもしれない。物理的には何も違わない世界だし、非常に曖昧なカテゴリーではあります。
──でもそれは逆に言うと「演劇と美術の違いは何だろう?」を考える機会にはなると思います。
さらに「俳優の存在って何だろう?」「劇場空間の基礎的な力学って何だろう?」など、演劇についていろいろ考えたり、何かが見えてくるということが、無人化すると起こりやすいんです。たとえば劇場の力学の話で言うと、あらゆる演劇はお客さんに何かのイメージを伝えようとするものですが、それはつまり「どこかにお客さんを誘導しよう」という作為に満ちあふれているわけです。すごく大きな強いイメージがあって、それを観客と共有しようとする時に、笑いが起こったりグルーブになったり、カタルシスが生まれたりすると。ある空間にいる人たちを、何かの考え方やイメージの一ヶ所にウワッと引き上げようとするこの力って、実は強権的な政府が民衆を扇動しようとする力の類とほぼ同じなんですよ。劇場には本来そういう力があるし、自分はそれを使って作品を見せているということを、無人劇のスタイルだと割と露骨に感じることができるんです。
──俳優を介してない分、作家の狙いやイメージ、あるいはイデオロギーなどもよりストレートに伝わると。
それらがそのままバーン! と行くので、身体的にダイレクトに感じられるんです。それが怖さでもあるし、逆にいいエネルギーにもなるんでしょうが。できるだけ一つのイメージに固まらせない工夫をしようとは思いますけども、そういう力を使っていることは隠せないというか、むしろ隠さないで伝えられるものにしようと思ってます。あとは観客たちをリードするようなお客さんが誕生する可能性があるのも、無人劇ならではの面白さですね。
──実際無人劇に行くと「このお客さんに着いていけば、この世界が理解できそうだ」って人が、一人ぐらいいますよね。
無人劇って劇場内を自由に動ける分、お客さんが自分の立ち位置を見つける作業が必要になるんですけど、たまにその場の雰囲気の原点を作って、集団を引っ張るような人が出るんですよ。それによって本当にその時だけの小さな、でもやり取りはすごくリアルで演劇的なコミュニティができるんです。そういう意味では、毎回まったく同じ美術とデータを使って上演しても、必ず一回性が生まれますね。お客さん同士の出会いというか、その組み合わせはもう二度とないわけですから。これもやはり美術にはない、時間と空間を厳密に区切った演劇的制度の中ならではのことだと思います。
あごうさとし『純粋言語を巡る物語-バベルの塔2』より [撮影]井上嘉和
■アトリエ劇研は、小さくても実にキレイな、奥深い闇が作れる所が魅力。
──この直後に上演する『アトリエ劇研』はどういう作品でしょうか?
これも無人劇です。廃棄されそうになっていた劇研の立て看板を無人劇で使ったことがあったんですけど、その看板を(舞台に)立てて、光を当てて、そして消していくだけです(笑)。大体25分ぐらいを想定していますが、その間に舞台に立ちたいと思ったら、どうぞ光が消える前に立ってくださいという。
──とんでもなくシンプルですけど、なぜそのような作品を?
この劇場がつぶされたら、ああいう空間はもうないだろうなあという悔しさがありまして。天井が高い割には梁がなくて、客席側以外の三面の壁は本当に何もないんですよ。柱もなければ、換気扇もダクトもない。私もボチボチ長いこと(演劇を)やらせてもらってますけど、そんな箱はとにかく見たことがない。どこも絶対、何か(壁に)あるんですよ。そういう空間に、私は美しさを感じるんです。その特性を皆さんにも感じていただきたいし、作品としてお別れを告げておきたいと思いました。
──あごうさんにとって、アトリエ劇研とはどういう劇場でしたか?
空間としては、実にきれいな闇、小さいけど奥深い闇が作れる場所。それが私にとって、劇研の最大の魅力です。ソフトとしては本当に若手の登竜門として、33年間ずっとやってきたと思うんです。私も若い時にここでお芝居をして、小劇場のイロハを勉強させてもらいました。そしてディレクターという立場になってからは「劇場や演劇界は、こういう風に成立しているのか」ということを勉強させていただけた。そういう意味では本当に、育てていただける場所でした。
──劇研は小さいながらもちゃんと照明や音響などの常駐スタッフがいて、技術面のノウハウをしっかり後進につないでいたのも特徴でしたね。
それによって京都だけでなく、関西の小劇場全体に対しても貢献ができたと思います。ちゃんと仕事と仕組みがあれば、そこでノウハウを学んで人脈を作って、次のステップに行けるという機能を果たしてきた場所です。作品的にも技術的にも。この仕組みを民間でキープするのは並大抵のことではないんですけど、それを33年間もやってきたことには、館長の波多野(茂彌)さんには感謝の言葉しかございません。それを歴代のスタッフが運営してきて、何よりも地元のアーティストが使い続けてくれたことで支えられた。これに尽きると思います。
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新劇場[Theatre E9 Kyoto]開設に向けての記者会見。左から4番目があごう。 [撮影]吉永美和子
──そして先日、京都に新しい劇場を作る構想が発表されましたが。
京都はここ2・3年で、劇研以外にも様々な小劇場やスペースが、閉館あるいは閉館に近い状態になっているというのが現状で。とりわけフリーに使えるブラックボックス型の劇場は、本当に消滅していく方向にあります。すでに経験がある人はサバイバルの道がそれぞれあるかと思いますが、今後京都で芝居を作ろうとする人が出てくる可能性が、このままでは極端に低くなると。人材の循環性が失われて、この街から才能が育たなくなるのはあまりにも寂しいと思いますし、私自身もやっぱり京都に使いやすい劇場がただただ欲しい。ないんだったら、もう作るしかないと。
──場所を提供してくださったのが、町屋のリノベーションで有名な不動産会社の「八清」さんというのが、なんか「らしい」ですね。
私は八清さんのHPとは20年ぐらいの付き合いで(笑)、いつもウィンドウショッピング感覚でサイトを見ていたんですよ。でも劇場にするためのリノベーションが何千万円もかかるという話になって、とても一人でできる作業ではなくなったので、「アーツシード京都」という法人を作りました。これからクラウドファンディングなどで広く資金を募って、「みんなで作っていきましょう」というコンセプトでやっていきたいと思っています。実現すれば、今まで京都にはなかったスペースになると思いますし、劇研ではできなかったことができるというのが多々あると思います。お客さんとしても過ごしやすくて、アーティストとしてもモノを作りやすい、あきらめていたことをあきらめなくてもよくなるという、そういう場所にしたいです。
──そしてアトリエ劇研の閉館まで、いよいよあと2ヶ月ほどとなりましたが。
8月までは毎週末公演がありますので、ぜひ来ていただきたいですね。「最後」ということを意識した作品を作ってくださる方もたくさんおられて、なかなか見事な時間と空間になりそうですので、それぞれの作品をなるべく一つでも多くご覧いただけたらありがたいです。そして(閉館日の)8月31日には、なにがしか皆さんと最後の時間を過ごせるような催しを開ければと思っています。
取材・文=吉永美和子
■日時:2017年7月12日(水)~17日(月) 12~14日=19:30~ 15~17日=14:00~ ※12、16、17日はポストパフォーマンストークあり。
■会場:KYOTO ONISHI SOU おおにし荘
■料金:予約=一般2,800円 26歳以下2,300円、当日=一般3,300円 26歳以下2,800円、ペア=一般5,000円 26歳以下4,000円
■日時:2017年7月16日(日)・17日(月) 11:00~
■会場:KYOTO ONISHI SOU おおにし荘
■料金:予約800円 当日1,000円 ※有人劇をご予約いただいてる方は500円
■構成・演出:あごうさとし
■出演:有人劇=倉田翠、白鳥達也、辻本佳、西村貴治、松本杏菜
無人劇=御厨亮(声のみの出演)
■公式サイト:http://www.agosatoshi.com/schedule
■会場:アトリエ劇研
■料金:予約800円 当日1,000円 ※『リチャード三世』の半券をお持ちの方は500円
■公式サイト:http://www.agosatoshi.com/schedule