【コラム】物語の中のアートたち/恩田陸『図書館の海』の中のアンドリュー・ワイエス《農道》
恩田陸『図書館の海』 新潮社公式サイトより(http://www.shinchosha.co.jp/book/123416/)
実在するアート作品が登場する物語を読むと、実際にその作品を目にした時、物語に出てきた場面や会話が甦り、よりいきいきと鑑賞することができる。また、文による緻密な描写は、深く充実した理解を促すだろう。ここでは絵画を効果的に使っている小説、恩田陸『図書館の海』を紹介する。
小説と絵画、共通点は"懐かしさ"
2017年に直木賞を受賞した恩田陸の『図書館の海』は、恩田のデビュー10周年にあたる2002年に刊行された。短編10篇からなる本書は、長編の予告編や番外編、アンソロジーのために書かれた作品など、彩り豊かな内容だ。今回着目するのは、1995年に『SFマガジン』の女性作家ホラー特集のために書かれた「ノスタルジア」である。
『図書館の海』の中で、最も古いながらもトリを飾る本作には、標題からも見て取れるように、「ノスタルジアの魔術師」と称される恩田陸らしさが濃密に漂う。物語の冒頭では、複数の人間が思い出を語り合っている。生まれた日の記憶を持つ者、昔から知っている風景を最近はじめてテレビで見た者、映像の中の少女に話しかけられた者。さまざまな思い出の中で、物語の視点は、かつての友人と再会するための旅に出る「私」にフォーカスする。そんな「私」が旅路の車窓で思い出すのが、アンドリュー・ワイエスの絵画《農道》だ。
アメリカの自然を描き続けた寂寥の画家
アンドリュー・ワイエス
主にアメリカの20世紀を生きたアンドリュー・ワイエスは、自宅と別荘以外の場所に赴くことはほとんどなかった。彼の作品は寂寥感漂うリアルな画風で知られ、身近な風景や同じ人間を繰り返し描き、モデルは概ね微笑とも悲哀とも分類できない曖昧な表情をたたえている。
恩田陸「ノスタルジア」の作中に登場する絵画《農道》は、ワイエスが好んだモデルのひとり、ヘルガが描かれた作品だ。ヘルガは近所に住んでいた農婦で、男性に見えるような中性的な姿や、抽象化された女性らしい様子など、さまざまなバリエーションで描かれた。ワイエスのヘルガに対する思いは恋愛感情ではなく、大地や木といった自然に向けるものと同質の興味と敬意であったと推測される。
ワイエスの絵においては、氷や枯れ葉、人気のない農場や家の中など、何の変哲もない風景が見る者の胸を打つ。それは画家が、生活の中に沈みがちな一瞬の輝きを捉える透徹した眼差しと、対象の魅力が画家の記憶から消える前に描き切る卓越した技術を持っていたからだろう。ワイエスは一本の木やひとりの人間などから、個を超えた普遍的な本質を見出す。そのため、彼の絵を見ると、行ったことのない場所、知らない風景に対して懐かしさを覚えるのだ。
《農道》のヘルガが向かう先
ワイエスの《農場》は、全体が茶のトーンで占められる。画面の右側にヘルガの後姿が大きく描かれ、左側にひときわ濃い茶色の道が丘に向かって伸びている。ヘルガの表情は見えず、彼女が向こうから来たのか、進もうとする最中なのか、それとも道を外れようとしているのかはわからない。
「ノスタルジア」の「私」は、ワイエスの《農道》の絵を思い出した後、郷里に着いて待ち合わせの旅館へ行き、ヘルガが登場する夢を見る。ヘルガは「私」に、「先に行って待ってるから」と告げる。ヘルガがどこで待っているのかは明かされず、「私」は記憶に裏切られる形で旅を終える。しかし、その後、旅自体が夢であったかのようにストーリーが進んでいく。
「ノスタルジア」においては、未来の断片が過去に埋め込まれていることもあり、時間は必ずしも一方向に進まないようだ。ヘルガが向かう先は、過去・現在・未来という区分では決してわけられない流れの中にあるのかもしれない。そこは恐らく、はじめて見るはずなのに郷愁を誘うワイエスの絵と同じように、誰が見ても懐かしさを覚える場所なのだろう。
恩田陸『図書館の海』 新潮社公式サイトより(http://www.shinchosha.co.jp/book/123416/)
著者:恩田陸
発売日:2005年7月1日
新潮社公式サイト:http://www.shinchosha.co.jp/book/123416/