【コラム】物語の中のアートたち/ポール・オースター『リヴァイアサン』の中のソフィ・カル
実在するアートが登場する物語を読むと、実際に作家や作品を目にした時、物語に出てきた場面や会話が甦り、よりいきいきと鑑賞することができる。また、文による緻密な描写は、深く充実した理解を促すだろう。ここでは実在するアーティストをモデルにしている小説、ポール・オースター『リヴァイアサン』をご紹介する。
小説とアートの関わり
物語は一人の男の死で始まる。主人公・ピーターは、死んだ男の正体が親友・サックスであり、米国中に点在する自由の女神像爆破事件の犯人だと気づく。作家であるピーターは、サックスの人生の物語を記す。それが本書『リヴァイアサン』だが、サックスもまた作家であり、ピーターはサックスが書いていた小説も「リヴァイアサン」と呼ぶ。
ピーターとサックスの妻、恋人、友人など、魅力的な女性たちで彩られるストーリー。二人と彼女らの人間関係は拡大して複雑化し、時に国家という巨大な単位に繋がっていく。とりわけ二人の関係性に豊かさと複雑さを付加しているのは、フランス人アーティストのソフィ・カルをモデルにした登場人物、マリア・ターナーだ。
現実と虚構を行き来するアーティスト、ソフィ・カル
1953年パリ生まれのソフィ・カルは、大学を中退すると7年間の放浪の旅に出、他人の生活に興味を示し、写真で記録するようになる。以来、写真という表現手段を使い、人間のアイデンティティの隙間を探るような作品を制作している。各国の主要美術館で個展を開催し、第52回ヴェネツィアビエンナーレ(2007年)や第12回イスタンブールビエンナーレ(2011年)にも参加。華やかなキャリアを築き、今や現代アートにおいて最も重要なアーティストの一人となった。
カルのプロジェクトは、例えば友人や見知らぬ他人を招いて自分のベッドに寝てもらい、写真とメモを記した《眠る人々》、生まれつき全盲の人たちに、これまでに見た一番美しいものは何かを問う《The Blind》、自分宛ての別れの手紙を友人に分析してもらう《Take Care of Yourself》など。写真やテキストで構成される作品はいずれも虚構と遊戯性に満ち、見る者の気持ちを揺さぶる。
彼女の創作活動は説明が難しく、『リヴァイアサン』でマリア・ターナーに与えられた形容「こういう芸術家だ、とひとつにくくることのできない存在」が、ソフィ・カルというアーティストを正確に言い表している。
『リヴァイアサン』におけるマリア=ソフィの魅力
『リヴァイアサン』でマリア・ターナーがおこなうプロジェクトは、ソフィ・カルが実際におこなったことと、オースターの創作が混在する。また、カルは本書を読んだ後、オースターが創作したプロジェクトに呼応する形で作品を発表。彼女をモデルにマリアという架空の人物を登場させたオースターに対し、自らの虚像を追う形で創作活動をしている。
作中、マリアは探偵を雇って自分を尾行させたのち、ある男をつけ回すプロジェクトを遂行するが、これはカルが実際におこなったパフォーマンスのひとつ。マリアはサックスを尾行する過程で、密かにサックスを追っていたピーターにも気づく。このエピソードが示すように、『リヴァイアサン』では度々、誰かの役割や経験が他の者に引き継がれる。サックスは他者の思想を実行するために爆破を実践し、またピーターの著作にピーター本人としてサインする。ある女性はサックスに恋をした後にピーターを好きになり、他の者は逆の順番で気持ちが変わる。いずれの感情も本物だが、変化が激しく移ろいやすい。
個の記憶が別の人間のものにすり替わる可能性。自己と他者の距離が消失する瞬間。誰かの事実は、同時に他人の虚構であること。本書の魅力は、登場人物のアイデンティティの揺らぎやとりとめのなさに豊かさが見出される点だ。それは同時に、ソフィ・カルのアートが持つ魅力と共通しているだろう。
ポール・オースター『リヴァイアサン』 amazonより(https://www.amazon.co.jp/リヴァイアサン-新潮文庫-ポール-オースター/dp/4102451072/)
著者:ポール・オースター
発売日:2002年11月28日