【コラム】物語の中のアートたち/小池真理子『死の島』の中のアルノルト・ベックリーン《死の島》

コラム
アート
2018.6.21

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実在するアートが登場する物語を読むと、実際に作家や作品を目にした時、物語に出てきた場面や会話が甦り、よりいきいきと鑑賞することができる。また、文による緻密な描写は、深く充実した理解を促すだろう。ここでは絵画を効果的に使っている小説、小池真理子『死の島』をご紹介する。

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文藝春秋公式サイトより(https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163908052)

文藝春秋公式サイトより(https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163908052)

死を実感する主人公  昔の恋人から受け継いだ一枚の絵

主人公の澤登志夫は元大手出版社の文芸編集者で、定年後は小説講座で教鞭を執っている。腎臓がんの転移による体調不良で講座も引退することになるが、最終講義の日、受講生の若い女性・宮島樹里に呼び止められる。樹里は外見こそ目立たないが、提出する作品に確かな才能を感じさせたため、登志夫は顔に憶えがあった。その日をきっかけに、2人はたまに会って話をする関係を結ぶ。

登志夫は身体的な不安を抱える日々を送る。そんな折、かつて恋人だった女性・貴美子の訃報を耳にする。貴美子は遺言めいたメッセージで、登志夫に渡してほしい本を指定していたという。それはアルノルト・ベックリーンの絵画《死の島》に関する解説書だった。登志夫は巻末に添えられていた《死の島》の絵を切り取ってリビングの壁に貼り、折に触れて眺めることになる。

世紀末の幻想画家 アルノルト・ベックリーン
画家亡き後も人々を魅了し続ける《死の島》

《死の島》の作者であるベックリーンは移動の多い人生を送り、1827年にスイスで生まれ、ドイツで成功し、ドイツの美術家と交流しながらイタリアでも活躍し、1901年にイタリアで亡くなった。絵の題材は古代神話的な要素や心象風景などが多く、人間の内面的な苦悩や情趣、夢などを表現しようとした象徴主義に分類される。ベックリーンは多くの芸術家に影響を与え、中でもジョルジュ・デ・キリコやサルバドール・ダリなど、名だたるシュルレアリストが彼の作品に魅了された。

本書で登志夫が手に入れるのは、スイス人の美術史家がベックリーンについて論評した『ベックリーン 死の島』という本だ。四六変形判という本のサイズや折り込みの絵から察するに、実際に出版されているフランツ・ツェルガー著、高阪一治訳の書籍『ベックリーン《死の島》』がモデルになっていると思われる。

三元社公式サイトより(http://www.sangensha.co.jp/)

三元社公式サイトより(http://www.sangensha.co.jp/)

ベックリーンは1880年から1886年の間、「死の島」という主題で五枚製作し、うち四枚は現存が確認されているが、書籍『ベックリーン《死の島》』に掲載されているのは、現在バーゼル美術館に所蔵されている最初に描かれたバージョンで、登志夫が目にした絵もバーゼル版である。

アルノルト・ベックリーン《死の島》1880年 カンバスに油彩 111×155㎝ バーゼル美術館

アルノルト・ベックリーン《死の島》1880年 カンバスに油彩 111×155㎝ バーゼル美術館

ベックリーンは「死の島」という主題に強烈に惹かれていた。14人の子のうち8人を幼少時に亡くし、自身もチフスに罹患して死線をさまよった経験のあるベックリーンにとって、死は身近なモチーフだったものと思われる。また普仏戦争に参加した彼は、戦争の惨禍をたびたび題材として取り上げる。ベックリーンが描く一連の「死の島」は、画家が理想とする墓所であり、永遠の安息の地なのだろう。

《死の島》は、ベックリーン存命の時はもちろん、死後も一般人から政治家、文豪、芸術家に至るまで広く好まれた。それは恐らく、世紀末であったことのほか、ヨーロッパが大きなふたつの戦争に突入していく少し前に描かれたことと関連している。また《死の島》の愛好者でとりわけ有名なのはアドルフ・ヒトラーで、絵は総統官邸に飾られていたという。ヒトラーが所持していたのは第3版の作品で、現在はベルリンの旧国立美術館にある。

アートの持つ力
《死の島》の果たす役割

本書の主人公・登志夫は、家族とは疎遠であり、病と共に周囲の人間関係も薄れ、孤独を深めていく。そんな中、娘よりも若い樹里との節度と距離を保った交流は、登志夫の生活に彩りを与え、樹里にも輝かしい時間をもたらす。登志夫の家に貼られた《死の島》は、登志夫にとって貴美子を思い出すトリガーの役割を果たし、樹里に登志夫の死を実感させるものとなる。

《死の島》は孤独で不吉な印象と共に、静寂さや安らぎをもたらす不思議な絵である。死は一般に恐ろしいものだが、《死の島》を見ることによって恐怖を和らげることも可能だろう。作中、登志夫はある計画を立て、粛々と進めていく。そのさまは、彼がずっと手放すことのない絵画《死の島》の船出に相応しく、静かで清潔だ。登志夫に「おれのことを書け」と言われた樹里が将来書く小説は、登志夫の人生と、彼の荘厳な計画が綴られるのだろう。

現実の中でどれほど苦しいことがあっても、最終的には静けさだけが支配する「死の島」に辿りつくことができる。その思いを心の糧にし、活力を得た人もいるはずだ。絵が個人を動かし、間接的な形で国の思想を支えた可能性もある。ドイツやアメリカの美術館に点在している四枚の《死の島》は、これからも多くの人の心を動かし、歴史を動かす力をも持ちうるのかもしれない。

書籍情報

死の島
著者:小池真理子
発売日:2018年03月09日
定価: 本体1,700円+税
 
文藝編集者として出版社に勤務し、定年を迎えたあとはカルチャースクールで小説を教えていた澤登志男。女性問題で離婚後は独り暮らしを続けているが、腎臓癌に侵され余命いくばくもないことを知る。
人生の終幕について準備を始める中、講師として彼を崇拝する若い女・樹里は自分の抱える闇を澤に伝えにきたが-―
激情に没入した恋愛、胸をえぐるような痛恨の思いを秘めて皮肉に笑い続けた日々。エネルギーにあふれた時代を過ぎて、独りで暮らし、独りで死ぬという生き方は、テレビで繰り返し言われるような「痛ましく、さびしい」ことなのか。
ろくでもない家族でも、いさえすれば、病院の付き添いや事務処理上の頼みごとができて便利なのだろうか。生きているうちから、人様に迷惑をかけないで孤独でない死を迎えるために必死に手を打ち備えることは、残り少ない時間を使ってするようなことだろうか。
プライド高く、理性的なひとりの男が、自分らしい「死」の道を選び取るまでの内面が、率直にリアルに描きつくされる。
人生の幕引きをどうするか。深い問いかけと衝撃を与えてくれる小池真理子の真骨頂。『沈黙のひと』と並ぶ感動作。
 

書籍情報

ベックリーン《死の島》 
自己の英雄視と西洋文化の最後の調べ
著者:フランツ・ツェルガー
訳者:高阪一治
発売日:2008年8月30日
定価: 本体 2,200円+税
 
画家はそこにたどり着こうと試みた
都市の憂愁から逃れ静寂な「死の島」へ
世紀末、ベックリーンは都市文明への不信感から、最後の逃走の地(自らの埋葬地)として、古代的神秘をたたえたこの孤島を描いた。高貴な孤独へといざなうこの図像のイメージ喚起力は、絵画にとどまらない影響と変奏を現在も生み続けている。
 
三元社公式サイト:http://www.sangensha.co.jp/
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