井上芳雄が語る、7年ぶりに挑む井上ひさしの名作『組曲虐殺』への深く熱い想い
井上芳雄
井上ひさしの“最後の戯曲”として知られる『組曲虐殺』。プロレタリア文学の旗手で『蟹工船』の作者としても広く知られる小林多喜二の半生を、彼が愛した周囲の人々とのやりとりを笑いと涙をまじえて描くことで浮き彫りにしていくこの名作が、7年ぶりに待望の再再演を果たす。2009年の初演、2012年の再演時と同じく演出は栗山民也、音楽は小曽根真が手がける。キャストは小林多喜二に井上芳雄が扮するほか、多喜二の恋人・瀧子に上白石萌音、彼の同志で身の回りの世話をしているふじ子に神野三鈴、彼を見張る刑事に山本龍二と土屋佑壱、姉のチマに高畑淳子という演技派が顔を揃える。初演からこの10年間、常に自分の心の中には小林多喜二と井上ひさしがいたと公言する井上芳雄に、この作品への想い、再再演にあたっての意気込みなどを聞いた。
井上芳雄
――初演から10年、再演からは7年ぶりの『組曲虐殺』です。井上さんご自身にとって、井上ひさしさんの戯曲に出演すること、そして小林多喜二という人物を演じるということからはどのような影響を受けましたか。
小林多喜二の役をやるとなった時は最初、到底自分にはできないと思っていたんです。こんな大きな人物を演じるには自分は値しない、どうしたらいいんだろうと悩みました。もちろん、その役を演じるからといって、その人物とイコールの存在になるわけではないんですけどね。それでも一生懸命やらせていただいたことによって、ものすごく自分の世界が広がりました。それこそ役者としてもうちょっと頑張ってみようと思いましたし、自分が演劇をやらせてもらう意味はこういうところにあるのかもしれないと思わせてくれた作品でもあります。それは井上先生の力、栗山さんや小曽根さん、そしてこの作品に関わるみんなの力によって、なんですけどね。そういうこともあって、特にこの作品に関しては特別な思いがあり、ずーっと自分の心の中にあったから、多喜二に対して恥ずかしくない人間でいなければということは常に思っています。井上先生は病床で、苦しくてものが食べられなくなっていた時でも決して最後まで諦めなかったそうです。「今までたくさん、人を励ます話を書いてきた自分がここで諦めるわけにはいかないから」とおっしゃっていたらしくて。それに近づきたいなんて言ったらおこがましいですが、そんな井上先生に、そして多喜二に少しでも近づこうという想いは今もずっと胸にあります。
――今回は多喜二をどう演じて、どんな新しい『組曲虐殺』にしたいと思われていますか。
芝居を作るのは演出の栗山さんなので(笑)、まずは言われたように、出来る限りやるしかないです。だけど、それこそ初演の時には栗山さんに「プロレタリア作家は、そんなもんじゃないよ」と言われても、最初はどうすればいいかわからなかった。プロレタリア作家が醸し出す雰囲気って何?って(笑)。そういう栗山さんだって実際にプロレタリア作家に会ったことがあるわけではないと思いますしね。だけど今となれば、その時よりは多喜二がどういう人間だったのか、その時起こった運動はどういうものだったのか、プロレタリアとはどういうことなのか、もちろんすべてを把握できたとは言いませんが、あの時よりは知識も理解もあると思います。そこをうまく生かしつつ滲み出るようにやりたいですね。あれからお芝居の経験も多少は積みましたし(笑)、少しでも書かれていることをビビッドにお伝えできたらと思います。
これはよく言われていることでもありますけど、少し時代がこの作品に近づいているようなところもあって。初演の時には、「ああ、こんな時代もあったのか、自分たちだっていつそこに逆戻りするかわからないよね」くらいのニュアンスだったんですが、この10年でなんだか現実味を帯びてきているということは、きっと誰もが感じていると思うんです。ただ井上先生はおそらく、この今の状態も見越してこの作品を書かれていたとも思えるんですよね。だけど本当は僕たちとしては、再びこういう時代に戻すわけにはいかないんだ、と。演劇の力で何をどこまでできるかとなると、実際は本当に小さなことしかないのかもしれないですけれど。そういったことも考えながら、演じたいと思っています。
井上芳雄
――その、会ったこともないプロレタリア作家を演じるにあたっては、どういうことを意識しながら取り組まれたんでしょうか。
思想的な部分ではわかりえないんですけど、どんな雰囲気だったのかとか調べると、当時のプロレタリア作家の人たちが置かれていた状況というのは、知れば知るほど厳しいもので。地下に潜って生活するだなんて、今だったら成立しないだろうと思いますしね。SNSがあるし、防犯カメラもそこらじゅうにあるから隠れること自体が難しい。この時代だからこそ、ぎりぎりできた。そうやって隠れてでもずっと書き続け、発売禁止になっても地下で何万部も刷って、それをみんなが命がけで買って伝え合っていた。そういう、ものすごく厳しい中だったからこそ強い想い、使命感を持ってやっていた人達なんですよね。そのことは強く、胸に刻んで演じなければと思っています。世の中を変えよう、変えられる、と彼らは信じていたので。特に多喜二は本当に貧しい人たちをなくしたいという、そういう想いからスタートしたと思うので、そのことも忘れないようにしたいです。そしてみんなの幸せを願った結果、自分の幸せはすべて諦めなければいけなくなってしまう。それも自分だけではなく、自分が本当に一番幸せにしたい、愛する人たちのことまで犠牲にしなければならなくなってしまって。それでもみんな泣きながら、いいんだいいんだ、がんばれがんばれって言っているところにも、この作品ならではの感動があるなと思います。
――ご自分の中に、多喜二と共通する部分はあったりしますか?
うーん、あるとは、おこがましくて言えないですね。だけど基本的にもともと持っていたのか、多喜二に感化されたのかはわからないですけど、やはり自分だけが良ければいいとは思わないようにしています。自分だけ幸せになる、自分だけお金があればいい、だなんて、もちろん人間だからそういう想いもあることはあるけど(笑)、でも本当に最後の最後は、それではうまくいかないんじゃないかと思う。もちろん世の中は不公平だし、自分のことは可愛い。だけど演劇とかミュージカルのことを考えたら、僕ひとりではいいものは作れませんからね。周りにいろいろな人がいてこその演劇、ミュージカルなので。やはりミュージカル界とか演劇界という視点でものを考えたほうが結局は自分もやりやすいですから。
井上芳雄
――みんなで一緒に高みを目指したい。
はい、理想論かもしれないですけれど。でも多喜二から教わったことは多いですね。あと、こうして世の中を変えようとする人たちって、本人はちゃんとした家で生まれていたりして、そんなにお金に困っていなかったりする場合が多いんですよ。これは、どの時代でも、どの国でもそうで。本当に貧しい人たちは、変えようと発想することもなかなかできないですよね、今日一日何を食べようということだけで精一杯で。
――生活に追われてしまいますからね。
そうなると、上から手を差しのべているように見えなくもないけど、彼の場合は自分自身の人生も、自分の豊かさもすべて投げ出して本当にみんなのことを考えていた。こういう人がいないと、世の中って変わらないんだな、と思います。だから誰しもができることではないとも思います。それは、自分も含めてね。
――そういう多喜二の精神を表現するには、何が必要でどういうところが難しいと思われていましたか。
大きい声を出せばいいとかそういうものでもないですからね(笑)。でも初演時は本当に無我夢中でしたし、自分には足りないところばかりだと思いながらやっていました。でもだからこそ、得るものも大きかったように思います。初演の印象って、鮮烈なんですよ。毎回、終盤におしくらまんじゅうをみんなでするんですけど、それがとても幸せで、涙が毎回溢れていました。お芝居をやっていてこんなに幸せなんだと、本当に思えて。だから再演の時にはその初演での印象が強すぎたのか、一生懸命やってはいたんですが、どうしても、こんなもんじゃない、初演ではもっとこんなだった、もっと涙も出た、と考えてしまって。ある種、美化されてしまったところも自分の中にはあったのかもしれません。そういうところが今回の再再演では、どうなっちゃうのかなと。井上先生はいませんし、みんなそれぞれに作品への想いがすごく強いですし。でもそれはそれで、あまり比べずに努力はしたいな、と思います。今回は少しキャストも変わりますしね。“今”の『組曲虐殺』をみんなで作るようにしないと、やはり初演を越えられないということになる気がしますから。
井上芳雄
――新しいメンバーとして上白石萌音さんと土屋佑壱さんが加わることも、プラスの刺激になるかもしれません。
そうですね。萌音ちゃんとは『ナイツ・テイルー騎士物語ー』以来、仲良くしているのでまたご一緒できるのはうれしいし、今回の役もとても彼女にピッタリだと思います。土屋さんもとても素敵な役者さんだと聞いているので、共演できることがすごく楽しみです。
――特に萌音さんに今回、期待されていることは。
いや、期待も何も、彼女ほど才能豊かな女優さんを他に知らないですから。人としても素敵な方だし。舞台をやるのは『ナイツ・テイルー騎士物語ー』以来なのに、またしても相手役が僕でいいのかなあって思うくらいですよ(笑)。
――取材した時、間をあけずにまたご一緒できてうれしいとおっしゃっていましたよ。
そりゃあ、一応そう言うでしょうけど(笑)。でも本当にこの作品に参加することを楽しみにはしてくれているみたいです。きっと萌音ちゃんにも伝わるメッセージがある作品だと思うし、それをきっと萌音ちゃんはしっかりわかってくれるだろうしね。たくさんのことを感じとれる人だと思うので、何の心配もしていませんよ。今回は、どんな瀧ちゃんになるのか、僕も楽しみです。初演の石原さとみちゃんも素敵でしたけど、またその時とは違うキャラクターになりそうですし。多喜二にとってとても大事な存在ですからね、瀧ちゃんは。
――この、多喜二という人物を演じることで、今、改めて思うことは。
初演当時はこういう、何かを背負っていたり、犠牲になるような役をやることが多かったんです。『二都物語』とか『ルドルフ ザ・ラスト・キス』とか、理想はあるんだけど成し遂げられなくて、犠牲になって死んでしまうという役が多くて。多喜二の描かれ方にしても、ある意味キリスト的なところがあると思うんですよ。そういう役を演じる使命が自分にあるのかな、と思っていた時期もありました。もちろん、そうではない役もいろいろやりましたけどね。でも、この多喜二のような役をやるというのが自分が役者をしている意味の、大きな部分だと今では思っているところがあります。
井上芳雄
――そういう役柄を演じるにあたって、特にご自身で意識していたのはどんなことでしたか。
僕はもともと役をあまり引きずらないほうで、事前に気持ちを準備するということもふだんはしないんですけど。この作品とか、去年やった『1984』もそうだったんですが、あまりにも平々凡々と平和に暮らしている今の自分とは状況が違うので、なかなかすぐには切り替えにくくて。なので、多喜二の伝記とか写真集みたいなものがあるんですけど、そこにデスマスクや、有名な活動家たちの遺体をみんなで泣きながら囲んでいるような写真が載っているんです。拷問されて、元の顔がわからないくらいにパンパンに腫れているような写真まであって。初演の時も再演の時も開演直前まで、それを毎回のように見ていました。『1984』の時も、実はそれを見ていて。こうなることを覚悟しながらも、何かをしようとしていた人なんだということは毎日、自分に言い聞かせておかないと、どうしても普通に外の自販機でジュースを買ったりしただけでも、つい忘れちゃいますからね、そんな感覚は。その状況に自分をずっと置いておくことが必要だったので、この作品ではずっとやっていました。今回はどうするか、まだわからないですけど。でも逆に、わざわざそんなことをしなくても身近に感じられる世の中になってもらっても困るんですけどね。
――本当に、そうですよね。そしてこの作品は“音楽劇”でもあります。楽曲の魅力については、いかがですか。
初演の時は、井上先生が台本を書きあげたら、小曽根さんがその書いたそばから稽古場で作曲していたんです。だから、楽曲が生まれる瞬間から立ち会っていたようなものですよね。「ちょっと芳雄、歌ってみて」って言われて、一緒に作らせてもらっていたような感覚でした。僕は音楽的にも、小曽根さんの影響をすごく受けていますし、奥さんである三鈴さんとも個人的にすごく仲良くさせてもらっているし。どちらかというと僕はミュージカルとかクラシックでずっとやってきた人間ですけど、小曽根さんはジャズの人なので本当に自由に、その時の感情で弾かれるからとても刺激的で。前奏がない日があったりするんですよ。なかなか弾き始めないなと思って、でもこっちを見ているから歌い始めてみると、そこから演奏がついてきたりして。日々、ジャズのセッションをしているようなところもあるんです。また、小曽根さんってすごくピュアでシンプルな、きれいな心を持っていて、それがメロディーに滲み出ている。しかも情熱的でもある。まさに、小曽根さんも出演者のひとりだと思っています。この音楽がないと、『組曲虐殺』という作品は成立しませんから。井上先生も、この音楽が大好きでしたから、これは二人の天才、いや、栗山さんも入れて三人の天才が奇跡的に共同作業した作品だったんだと思いますね。
井上芳雄
取材・文:田中里津子 撮影:福岡諒祠